「日本語」と「やまとことば」の違いを示唆する秀逸なブログを見つけたので、ご紹介。

「日本語」は「やまとことば」、「漢語」、「外来語」などが組み合わさって構築された「作られた言語」であることは賢明なる読者の方々はご承知のことでしょう。

 

で、「日本語」と「中国語」の発音が同じなのは、日本語の中に入り込んでいる「漢語」と、現代中国語(この場合「普通話」ですね)の発音が似通っている、という指摘です。

 

日本語と中国語の関係は過去何回か触れていますが(例えばこんなブログ)

 

 

私は中国語の音声学と文字学しか知らないので語彙論や統語論などは専門の方にお任せしますが、少なくとも「やまとことば」は開口音が基本(母音で終わる発音)であり、撥音(ンで終わる発音)はないと思います。

 

なので、撥音の単語は基本的には漢語か外来語となるわけですが、漢語だって日本語に入り込んできた歴史が1000年ほど古いというだけで、基本的には外来語です。

 

この問題をこの「日本語発音と中国語撥音が同じ単語」というブログは指摘していますね(再掲します)。

 

同じ、と言っても音素的に分析すれば全く異なることは自明なのですが、このことを『発音が結構「ヨウチ」です。正確には「ヨウヂ」なんでしょうけど、耳的にはヨウチです。』と記載されていらっしゃる。

 

この「耳的には」の部分が重要で、無いものは理解できない、という事を端的に表す優れた表現だと思います。

 

大昔、2000年ほど前の「やまと」の人々は撥音を聞き取る能力が著しく劣っていたと思われます。それは、撥音が大和言葉には存在しないから。

 

nとmは聞き取れる(sanとsamの違いは分かる)けれど、ngはわからない(kongとkouは同じ音に聞こえてしまう)ので、「行動(khangdong//カンドン)」は「こうどう」になって聞こえてしまう、というかそのように理解するしかなかった。

 

恐らく生の漢語に触れたやまとびとは「カンドン」と聞き取れた可能性がありますが、これを仲間に伝えることが出来ない。だって撥音が無いから。なので「こうどう」と伝える以外なかった…という事が数多発生したのでしょう。

 

同じ「行」でも、時代が1400年ほど下るとngの音が聞き取れるようになってきた日本人は「行燈(hangdeng//ハンドン)」を「アンドン」と聞き取っていくのです。

 

自分にないものは理解できない、この人類にとって不変の真理をこのブログは指摘してくれている、と感銘を受けたので備忘録に残すことにしました。