民団は暴力組織だったニダ | こりあうぉっちんぐ

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2016/1/27 民団新聞
<布帳馬車>アボジと民団史がリンクした






 新年号の「親子3代 民団サラム」に、60代後半の2代目のなかには感懐を呼び覚まされたサラムもいた。そんな一人の語りである。

 小学校低学年の頃まで、比較的同胞の多い支部でアボジは「プーダンジャン(副団長)」と呼ばれていた。バラックに毛の生えたような家でも人の出入りは多く、しょっちゅう車座になっての酒盛りがあり、大声張り上げての口論があった。花札をしては殴り合いになることもざらだった

 博打のカタなのであろう、黄色い油紙に包まれた拳銃、切れ味鋭い日本刀、朝鮮弓など凶器といわれる代物を届けたり、貰い受けに行ったり、パシリもずいぶんさせられたそんな遣り取りで訪ねた先に、中央本部の大幹部になった人物もいた

 嫌いだった民団とは体調を崩したアボジが一線を退いてからは自然と縁が切れた。だが、同年代の同胞とつるみたい気持ちは強く、大学では韓国社会文化研究会に属した。その縁で、卒業後しばらくして青年会活動に誘われ、民団の歴史に関心をもってから自分は大きく変わった。

 アボジが副団長だったのは6・25韓国戦争勃発の前年から、朝連が民戦になり、民戦が朝鮮総連になっていく時代だった。歴史を知ることで、財力・組織力・行動力で圧倒する彼らに劣勢の民団が立ち向かう姿と、棍棒を持ってトラックの荷台に乗り込むアボジやその仲間たちの群像が自分のなかでリンクした

 身体ばかりか精神にまで障害のある同胞がまわりに何人かいた。総連系との血みどろの闘いで負ったものだったのだ。彼らは熱誠団員でありながら、1代で終わることを余儀なくされたのではないかと思う。そんなサラムも顕彰してほしい。(J)

http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=8&newsid=21402

引用ここまで


 緑色の文字列は関連記事へのリンクです。


 ああ、戦後の朝鮮人社会はねえ・・・・”色い油紙に包まれた拳銃、切れ味鋭い日本刀、朝鮮弓など凶器といわれる代物を届けたり、貰い受けに行ったり”・・・暴力で日本に地位を築いてきたんですよ。

 ”そんな遣り取りで訪ねた先に、中央本部の大幹部になった人物もいた”・・・別にどうということも。戦後70年くらい経ったって民団の幹部には違法に吉原でソープランドを経営して、娘ともども逮捕されたのがいました

 そいつは愛知商銀の幹部だったんですが、愛知商銀の設立にかかわった在日一世に「鄭煥麒という方がいました
 「在日彩彩」という本の著者なんですが、その本では民団の幹部の選挙における買収の状況があからさまに。

 ”財力・組織力・行動力で圧倒する彼らに劣勢の民団が立ち向かう姿と、棍棒を持ってトラックの荷台に乗り込むアボジやその仲間たちの群像が自分のなかでリンクした”・・・今でもね。

 2012年10月の朝鮮日報によれば”2006年、在日韓国人社会は大きな混乱に直面した。民団<の指導部に、朝鮮総連出身者が潜入し、主導権を奪った
”・・・なんてことをやってたそうで
 ”この工作には、当時の盧武鉉政権が深く介入しており”・・・ということだったそうですが、ノムたんなどは北の工作員のようなものでしたからねえ。

 ”身体ばかりか精神にまで障害のある同胞がまわりに何人かいた。総連系との血みどろの闘いで負ったものだったのだ”・・・そういう暴力は日本の行政やマスコミにも向けられていましてね。

 長らくマスコミにとってはチョーセンはタブーでした。批判的なことを書くと総連や民団の暴力を秘めた執拗な抗議が続いたんですね。そして彼らは税金をまけさせることにも成功します。

 日刊ゲンダイなどという左巻きの巣窟は、在日特権?嘘ニダ!などとやりますが、あいにく同じ左巻きの中日新聞でさえ、2007年11月の記事で”三重県伊賀市が数十年前から市内の一部の在日韓国人や在日朝鮮人を対象に市県民税を減額していた”・・・ということを書いていましたよ

 そういう暴力装置の一つに大山倍達とかいう空手家がいましたが、ああいうのを祭り上げたのも日本人なんですね。

 しかし民団新聞も正直なコラムを書いたものですなあ。非良心的な日本人だって読むんだから、少しは配慮を。



 


 今年は春が早くてねえ・・・・・自動車旅行はどうしよう。