渋谷パルコ劇場で吉田羊が主人公のハムレットを演じる「ハムレットQ1」を観た。ちなみにQ1というのは初版の戯曲ということで、その後Q2、F1という別バージョンが存在しているとのこと。このQ1が一番簡潔な短いものだということだ。

 

お気づきかと思うが同時期に彩の国さいたま芸術劇場でホリプロの「ハムレット」が上演されているので、間違ってそちらのチケットを入手しないためにもわざわざQ1というのをつけたのかもしれない。

 

さいたまの舞台のレビューはこちらから↓

こちらはQ1よりも長い、その後に書かれたものを使用している。

 

 

まず、驚いたことは「ハムレット」、シェイクスピア戯曲の自由度。

基本的に同じ戯曲—ことば—、ストーリーであるのにその演出、アプローチによってまた全く違ったものになり得るということだ。

 

2日前にたっぷりとハムレットの世界に浸り、どれどれ比べてみよう、と思っていたのだが、比べるどころかまた別の芝居を観たという感想を持った。

 

*蛇足となるが、去年パルコ劇場で上演された太宰治による「新ハムレット」もハムレットを読んだ小説家の解釈によるひとつの「ハムレット」だった。

 

感じた違いは確かに使用したテキストの違いというところも大きい。

小田島雄志訳でたっぷり丁寧に説明してもらった舞台に比べ、松岡和子訳のQ1版の今回の舞台は省略されて簡潔、それによって物事がスピーディーに展開し、リズムに乗りやすい。

とは言え、翻訳、戯曲のバージョンに関してはどちらとは言えない、それぞれの良さがある。

それこそ、両方を見比べてダブルで楽しむのが、こんな機会を得ての良策かもしれない。

 

さいたま版も美術はシンプルだったのだが、今回もシンプルと言えばシンプル(美術:堀尾幸男)

舞台いっぱいに広がったデンマークのエルシノア城の城内は左側に傾斜がついていて、その先が三角形に尖って上へ突き出ている。背景はスカンジナビア半島のノルウェー、デンマークだろうか、、入り組んだ土地の模様のようなものがかかっている。

 

その左先端に傾斜がついた舞台の上で王族間の復讐のドラマが繰り広げられる。

演劇サイトの劇評でも指摘されていたのだが、現代的な洋装(スーツ)のキャラクターが混ざっていたりして、混在した違和感を感じる箇所もあった。

 

それも意図するところで、普遍的な人間ドラマ、誰もが向き合わなければならない「死」についてのドラマ、と捉えての”どの時代でも起こっている話”として時代考証を混在させたのかもしれない。

それと同様の意図で、女性である吉田羊にタイトルロール、セントラルロールを託したのかも?と考える。

 

やはり、今回の舞台で論点となるのはこのキャスティング。なぜマチュアー(十分に成熟した大人である)な女性である吉田にハムレットという悩める青年の役を与えたのか、ということだろう(過去には麻実れいのハムレットなどもあった(1995年)が)。

 

そこには演出家森新太郎の目指すところが関係してきたのでは?二年前に上演されたオールフィーメールの森演出の「ジュリアス・シーザー」でのタイトル・ロール吉田羊の演技から今回の彼女が演じるハムレット演出を考えたと語る森。

 

あらゆるリスク— 例えば、女性であることで表現するのが難しい彼のマザコンとも言える母への思い、そして叔父との距離を表現するのが難しい、さらにハムレットの狂気を際立たせるために今回採用されたハムレットの声色の違い(彼が作り事を話す際にはオクターブ高い声で語り、通常の声の高さとは違っていた)という方法など —を負ってでも吉田羊の安定感があり落ち着いた演技でハムレットのことば、ことばを伝えたかったということなのだろう。

確かに、徹頭徹尾、彼女の台詞回しは明瞭で澱むところは微塵もなかった。

 

さいたまの舞台では柿澤勇人にハムレットという青年をライブで生きさせ、観客に彼の迷走している人生を一緒に体験させていたが、今回の吉田羊のハムレットでは理知的なデンマーク王子でさえ抗えなかった人の運命(時がきたら死ぬ)というものを新たに一緒に考えるということを狙っているのではないだろうか。

 

ハムレットと共に生きて感情を引き出すのではなく、ある国に起きた不幸な出来事を検証しそこから学ぶ。。そのためにその出来事を簡潔にまとめあげ伝える意味でもQ1である必要もあったのかもしれない。かなり狙いを絞った「ハムレット」上演だったと感じた。

—その意味で、ハムレットの周りの人物、得にクローディアス(吉田栄作)とオフィーリア(飯豊まりえ)の感情表現はかなり抑えられていた。