改修工事が終わり、本格始動した彩の国さいたま芸術劇場でホリプロ主催の舞台、前芸術監督の蜷川幸雄氏が始め全作品上演を果たしたシェイクスピアシリーズの2nd—2期目の第1作「ハムレット」を観た。
2ndをどのように運営していくのか?はまだわからないが、吉田鋼太郎氏を(あくまでも)中心にして、さまざまな人が関わる、例えば演出家を変えていく(当初は吉田氏で軌道に乗せるのもありだとは思うが)とか、ジャンルを超えていくとか、、で同じ演出家が挑んだ(最後の方で吉田氏に託したが)1stシリーズとは違ったものにするのも面白いのでは?
で、2ndの第一弾にはぜひともこれに挑戦したかったと演出・上演台本、出演の(先王ハムレットとクローディアス)吉田鋼太郎が語る「ハムレット」。
上演台本にどれほど関わった=手を入れたのか?シェイクスピア学者でもないのでわからないのだが、3時間半という上演時間からしてもほぼ忠実に上演したのだろうと思われる。今日の観客を考慮して現代口語にこだわっているのか??誰かご存知の方がいたら、上演台本の変更部分を教えてほしい。
パンフレットで演出家が言葉だけで成立させるシェイクスピアを、と語っているように舞台セットは宮殿内の柱がときどき登場するくらいであとは何もない。照明が語り手をクローズアップするぐらいで、あとは俳優たちの語りによって状況が説明されていくという演出プランが徹底している。
俳優が揃えば、それで良いのだと思う。
今回のハムレットに関して言えば、その肝心要の俳優陣が良い。
ガートルード役の(初めてのシェイクスピア劇らしいが)高橋ひとみのセリフは明晰でポローニアスの正名僕蔵も緩急が絶妙だ。レアティーズの渡部豪太の凛々しさも力強さを与えている。
そんな中、出ずっぱり、喋りっぱなしで青年の狂気、憂鬱を演じきった柿澤勇人のハムレットの存在がずば抜けていた。
ノーブルな王族の中心人物であり、聡明でありながら繊細、それゆえに青年期に目撃した大人の世界、とくに愛し尊敬している母の人間らしさ、女の弱い面を目の当たりにして、そんな大人の事情がどうしても咀嚼できない、、、大人となりゆくゆくは国を治め国民を導いていく立場にあることは重々わかっているのだが、世の中の矛盾を受け入れられない青年のアイデンティティの葛藤を見事に表現していた。
ハムレットはこの時期、人として次の段階へ行くまでに乗り越えなくてはならない覚悟が定まらないうちに彼は結局死ぬことになってしまうのだが、オフィーリアの死後、レアティーズとの勝負を前に最後にその壁を乗り越えたかのように見えたところで息絶えてしまうのがなんとも人生の矛盾したところと言えよう。
—この覚悟が定まらない青年の対照として、若くして軍を率いて他国に攻め入っていくフォーティンブラス(豊田裕大)の姿がある。ハムレットが自分と比べ、彼の行動力を評価しているところをみるとハムレットには自分の狂気の源に気づいていた感がある。
柿澤のハムレットは舞台上で彼の思考の変遷、その元にあるところ、などを”ことばことば”の力を借りながら、さらに俳優が演じるところとして生きてくれていた。
一つ一つのシーンが意味を持って迫ってきた。
彼のハムレットをまた別バージョンで観てみたい(たとえば英国人の演出家によるバージョンなど)気がしてならない。
ところで、今回の舞台で少々気になった点が。
それは過剰なドラマ仕立て、とでも言えばよいだろうか。
冒頭、城の塔の上で見張り役たちが不思議な光景=先王の幽霊を見たと話すシーン。夜中の、それも仲間内の会話であれほど声を張る必要があるだろうか?
ハムレットの悲劇として、確かにドラマチックな劇ではあるのだが、他のシーンでもあったのだが過剰に叫ぶのはちょっと不自然。
また、オフィーリアが狂気の中、バレエさながら回転しながら踊るのも、、、ちょっとやりすぎかも。
それにしても、やはり柿澤ハムレットは(宣伝文句ではないが)見逃すな!と言いたい。シェイクスピア好きは得に、日本演劇史上に残る好演だったかも。