君の深いところに響いている 25




800平方メートルほどの円形の部屋。


その空間の中に、大小さまざまな水槽が配置され、色とりどりのライトに照らし出されて、ふわふわとクラゲたちが浮かぶ。



そこは、神秘的で幻想的な、宝石箱のような場所。



その部屋の隅っこの、薄暗くて目立たないところにある、深海生物のコーナーに、ダイオウグソクムシはいた。



水族館に行くなら、朝一番がいい。



そう教えてくれたのはまーくんだった。



平日の午前中の水族館は、人もまばら。特に、ゴールデンウィークが終わった後の日曜日の、翌日の月曜日だから、なおさらだ。



そして、朝からこんなマイナーなコーナーに来る物好きはいない。



だから、ダイオウグソクムシにずっと語りかけているオレを、誰も気に止めてはいなかった。



長い長い話の締めくくりに、オレはささやくように彼に言った。



「こんなオレでも、あなたのそばにいてもいいですか? そして。あなたに、そばにいて欲しいです」




──うん。そばにいてよ。そばにいるから。




“彼” が言った。




オレは、そっと後ろを振り返る。




円形の空間。



その、オレのいる場所からは対面となる、反対側を見つめる。



部屋の真ん中には大きな円柱の、クラゲの水槽があって、それが邪魔をしてその姿を確認することは出来ない。



だけど、わかる。その人がそこにいること。



オレはその人に向かって、真っ直ぐ歩き始めた。



部屋の中央のクラゲの水槽の前まで来た時、水槽の陰からその人が姿を現した。彼もオレの方に向かって歩いて来てくれたのだ。



オレと彼は、水槽の前で立ち止まり、見つめ合う。



ゆらゆらと泳ぐクラゲ。

そのクラゲを照らす幻想的な色とりどりのライトが、ゆらゆらとオレたちも照らす。



その人は泣いていた。



それから、彼は手をのばして、オレを抱きしめた。






第7章 終







君の深いところに響いている 25




まーくんってさ。

本当にあからさまだったよね。



会話の中で、オレが女の子に興味があるような言い方をしたら、すごくショックを受けたような顔してさ。



その日以来、まーくんはオレを避けるようになった。目も合わせてくんないの。



あれはひどかったな。



いろいろ悩んでるってのはわかってたけどさ、淋しかったし、哀しかった。




オレが同じ人種じゃないって思ったら、急に恋愛対象から外すって、ひどすぎない?



ああ、オレへの想いって、その程度だったんだって。



ヨコとかざぽんがすごく心配してさ。


オレに、何かあったのか、とか聞いてくるわけよ。



だからオレは、すっげえ哀しそうな顔して、まーくんからしばらく遊びに行けないって言われた、って言ってやった。



そしたら2人はすぐに動いてくれたみたいだね。


オレに告白するためにデートに誘ってくれて嬉しかったよ。



あの夜にしたキスは一生忘れない。

海の見える公園。

キラキラと輝く夜景。

オレの頬を撫でる潮風。

柔らかい唇の感触。

まーくんの温もり。



俺の気持ち知ってた? 


ってまーくんに聞かれた時、


どっちでもよかったかな


なんて答えたけど、



告白されて、抱きしめられて、キスして思ったよ。



この人を独占したいって。

オレだけのものにしたいって。

誰にも渡したくないって。



だって。



ずっと、ずっと、ずっと好きだったんだから。



初めて会った時からずっと。




自分の好きな人が、自分を好きになってくれる。



こんな幸福感を知ったら、もう離れられないよ。



初めて体を重ねた夜、すごくすごく幸せだったよ。



あなたから愛が伝わって来て、あったかくて大きなものに包み込まれているような気がした。オレもありったけの愛を伝えた。



それなのに、まーくんは、



でも、カズは自由だ、俺の愛でカズを縛るつもりはない、なんて言い出してさ。



何言ってんだろって思ったよ。



オレの気持ちなんて全然わかってなくてさ。



あなたを捕まえたのはオレの方。

オレの方なんだよ。

絶対に離さないんだから。



そう言ったら、まーくんも、オレのこと絶対に離さないって言ってくれたね。



あの日から、あなたは変わったね。

あの朝、窓辺に立って、朝日を浴びるあなたがすごく眩しくて、オレは目を細めた。


光の中に立つあなたの背中には、翼が見えたような気がした。



あれからまーくんは全然ヘタレなんかじゃなくなって、オレがまーくんを叱ったり励ましたりする必要もなくなった。


オレが、祈るような想いであなたの幸せを願う必要もなくなった。



オレが祈らなくても、心配しなくても、あなたはもう大丈夫だった。



昨日、水族館の近くの海辺をふたりで歩いて、海を眺めた時、あまりにもその景色がキレイで。


心から思ったよ。


ずっとあなたと、これから先もこんな風に、同じ景色を見たいって。


あなたとオレが見ている風景は、美しい世界そのもの。


あなたと一緒なら、世界は美しい。



帰りの車の中で、“愛し合う”っていうオレの表現が好きだって言ってくれたね。


オレも好きだよ。一方的じゃない感じが。



オレはあなたの守護天使にも、救世主にも、恩人にもなりたくないって言って来たけど、あなたはオレの守護天使で、救世主で、恩人だったと思う。



そう。オレたちは、お互いに救い、救われて来たんだ。



そしてお互いに恋をして、お互いに愛を知った。



その愛は、お互いの深い深いところに響いている。



内緒にしてたこと、知られたくないこと、いっぱいあったけど。


嘘ばっかりついてあなたに近づいたけど。


あなたを好き過ぎて、引かれちゃうようなこともいっぱいしたけど。




こんなオレでも、



あなたのそばにいてもいいですか?



そして。



あなたに、そばにいて欲しいです。










君の深いところに響いている 24





後で気付いたんだけど、オレは結局五十嵐先生に、まーくんの進路変更の根回しをするのを忘れてた。


まあさ、そんなもん必要ないってことは先生と話してわかったからさ。いいっちゃいいんだけどさ。


それに、先生だって、先にオレから聞くよりは、まーくんから直接気持ちを聞いた方がいいだろうし。


でもオレは、相談したいことがあるって連絡して先生に会ったわけで。それなのにそこで言ったことが、雅紀さんをちょうだい、って。それだけだったわけで。


会う目的がそれを伝えることだけだったみたいになっちゃってるし、なんかオレ、超恥ずかしくない?


わざわざ多忙な先生の貴重な時間を奪っておいてさ。まーくんをちょうだい、だよ? カッコ悪いにもほどがある。


でも、先生に会って、先生の気持ちを確認出来たことはよかったと思う。


あの後、オープンキャンパスに行って、まーくんはすごくやる気になったものの、まだまだ両親に話すことには迷っていたから。その背中を力強く押すことが出来たのは、やっぱり先生の気持ちがわかってたことが強みになったと思う。


本気を見せたらきっとわかってくれる、ってオレは何度もまーくんに言ったね。本当にまーくんはヘタレだったからさ、親に話すって日も、ちゃんと出来るのか心配したよ。


先生もひろ子ちゃんも賛成してくれるってことはわかってたけどさ、最後の最後にまーくんが怖じ気づいちゃったらどうしようかなあって思ってた。


その日、オレは潤くんの家庭教師で五十嵐家にいた。なんか、勉強教えてる間も、ずっと落ち着かなかったよ。まーくん、ちゃんと言えるかなって。


まーくんが潤くんの部屋に飛び込んで来て、大丈夫だった!って言った時はほっとした。



だけど、その日。



まーくんがオレを家まで送ってくれて。家の近くの公園で話したことがきっかけで、オレはまーくんに避けられることになったんだよね。



まーくんは、オレに松岡さんとのことを聞いてきたよね。



オレが松岡さんと何らかの関係があったんじゃないかと、まーくんが思ってたなんて。それは知らなかったよ。


まさかまーくんが松岡さんに嫉妬してたなんてね。松岡さんに嫉妬してたのはこっちの方なのに。そして、ふたりを引き離そうとしたのに。



でも、そこで気が付いたんだ。



まーくんは最初から、オレのことを同類だと思って見てたってこと。



自分の秘密を誰にも打ち明けられずに生きてきたまーくん。唯一秘密を知る松岡さんには心も身体も許して来た。



そこにオレが現れた。同類の人間。年齢も近い。秘密も打ち明けられる。



だから?



言葉では言ってくれてなくても、オレのことが好きだってことは、態度でわかってたよ。



だけど。



まーくんは本当にオレのことが好きなんだろうか?


ただ、条件のいい奴が目の前に現れただけなんじゃないの?



仕方ないよ。わかってる。


あなたのさみしさを埋める、よき理解者。そうやってオレはあなたに近付いたんだから。



オレは、あなたを幸せにするためにやって来たのに、それだけのためにやって来たはずなのに。愛なんていらないはずなのに。



貪欲になったんだ。



オレのこと、ちゃんと好きになって欲しいって。




同類じゃくても。理解者じゃなくても。救世主じゃなくても。恩人じゃなくても。




何でもないオレのこと、好きになって欲しいって。



だからね。オレは、まーくんを試したの。









君の深いところに響いている 23




まーくん。


ひろ子ちゃんはね、すごい人だよ。あの人はね、全部お見通しだった。


まーくんは、自分は誰からも理解されないって悲観して生きて来たけれど、ひろ子ちゃんは、ちゃんとまーくんの秘密を知ってたんだ。そして先生もそれをひろ子ちゃんから聞いてた。二人ともね、ちゃんとわかってたんだよ。



ただね、孤独を抱える息子に何をしてやればいいのかは、わからなかったそうだ。ふたりはまーくんのことをずっと心配していたらしい。



だからさ、オレが現れた時、オレという存在がまーくんの救世主になるかもしれないって思ったんだって。



オレは、救世主なんて言葉は嫌いだ。前も言ったけど、オレはまーくんの救世主とか恩人になりたいんじゃない。一緒に人生を歩いて行ける人になりたかった。ずっとそう思っていたよ。



だからね。その時、先生がオレに言ってくれた言葉に、オレは泣いた。



先生はこう言った。




私が君に腕時計をプレゼントしたのはね、君が雅紀のパートナーになってくれたらいいなと思ったからだよ。君が雅紀のパートナーになるってことは、家族になるってことで、そうすれば君は私の息子同然ってことだろう?  だから 息子たちへ入学祝いに贈って来たのと同じ時計を、どうしても君に受け取って欲しかったんだよ。




先生。それはめっちゃ気が早いよ。その時はまだオレと雅紀さんは再会すらしていなかったよ。




オレはすごく驚いて、それから涙が溢れて来るのを止められなかった。それで、泣きながらそう言ったんだよ。



まさか、先生がそんな風に思ってくれていたなんて、思ってもみなかったよ。



だから泣きながら、ごめんなさい、ごめんなさいって何度も謝った。



こんな風にオレのことを思ってくれていた人に、オレはなんてことを言ったのか。お父さんにも悪いことをした。オレはお父さんの死を利用しようとしたんだもの。先生の弱みにつけこむ材料として。



自分のこと、最低だと思った。



だけど、泣き続けるオレに、先生は優しく言った。



そんなに謝らなくていいよ。君は何も悪くない。私の方が気が早かったね。そのために君に誤解をさせた。でも、妻が自信満々にふたりはひっつくって言うもんだから、すっかりその気になってたんだよ。



オレは涙をぬぐいながら、



先生。残念だけど、オレと雅紀さん、今もまだひっついてないし。



って言った。



え? そうなのかい? 車の中であんな威勢のいいこと言っておいて? いやあ、君と雅紀はもうてっきり付き合っているのかと。



先生は驚いたように言った。



雅紀さんをオレにちょうだい、なんて言い方をしたことを、その時になってとても恥ずかしく思った。



うん。あんなこと言ったけど、まだ……。告白もしてないし、されてもいない。ただの友だち。



ちょっとしょんぼりして言うオレに、先生は笑った。



そうか。雅紀はちょっと意気地無しなところがあるからねえ。君には迷惑をかけるね。でも、大丈夫だよ。雅紀は、ちゃんと君のことが好きだよ。



最後のところ。先生の言い方がすごく優しくてさ。オレはまた、めちゃくちゃ泣いた。



こんなストーカー紛いのことをしてるオレに対して、引くどころかすごく歓迎してくれて、その上、息子同然だ、みたいなこと言われて、その恋路を励ましてもらって。



泣くでしょ。



恥ずかしいとか、情けないとか、先生に悪いとか、まーくんのこと励ましてもらって嬉しいとか、とにかくいろんな感情がごちゃ混ぜになって、オレはレストランでずっと泣いてた。



あんまり泣き過ぎたもんだから、帰りは先生の車に乗らないで、電車で帰ることにしたんだ。店から最寄りの駅までちょっと遠かったから、先生は送るって言ってくれたけど、先生のそばにいたらずっと泣いてそうな気がしたので、そんなの、かっこ悪いし、恥ずかしいし、気まずいし、断った。



電車で家に帰る途中、なんだかひどく安心したのを覚えている。まーくんが、ちゃんと両親に愛され、理解されていたことがわかって。後は、まーくんがそれに気付くだけ。オレは、その手助けをするだけ。








イチオクノホシ Ⅲ 後編




「誕生日、おめでとう」



誕生日当日。



特別な日だけど、いつもと同じ、落ち着いた穏やかな日。普段と変わらない日を過ごせることを、オレは嬉しく思った。当たり前の日常の大切さを、彼といると感じることが出来る。



まだエレベーターに閉じ込められる前。違う階の会社に勤めるオレは、たまに彼をエレベーターで見かけることがあった。彼のことを、美しい人だとオレは思った。魂の美しさが、外側に滲み出ているような人。時々さびしそうに見えたのは、世界にある哀しみや孤独を知っていたからかもしれない。



だけど、恋人になってわかった。



彼は宇宙のささやかな秘密を教えてくれる。それは、永遠ってものが本当に存在するってこと。



最初は、ふたりの関係を心から信じてはいなかった。人と人の関係──特に恋愛におけるそれは、あやふやで曖昧でもろいものだと思っていた。


だけど、彼がオレに与える愛を感じるうちに、大切なものがはっきりと、単純明快に見えるようになった。


愛を信じてなかったオレが、今は愛を信じられる。彼という存在のおかげで。


彼はシンプルに、まっすぐに愛を伝えてくれる。疑う余地もなく。オレは何でも難しくしてしまう癖がある。


だけど彼といると、そんなことは、ばかばかしく思えてくるんだ。シンプルでいることは実は難しいことなんだけど。



晴れた穏やかで静かな日。

陽当たりのいい場所。

そこには光が溢れ、ふんわりとのんびりとした空気に包まれる。


彼と過ごす日々を例えると、そんな感じだ。それは幸福って言葉が似合う。



なぜオレは彼に出会えたのだろう、と今でも時々考える。星の数ほど人がいると言うのに、なぜあの奇跡の夜は、オレたちに訪れたのだろう?


しかるべき時に、しかるべき場所にいたというわけなのか。



クリスマスには興味がない。

だけど、この出来事はオレの人生の中で最大の贈り物だ。



あなたに会えて良かった。

心から思う。




「さてと……」



朝から一緒に過ごして、日も暮れかかった頃。おもむろに彼が言った。



「じゃあ、俺のお願い、聞いてもらおうかな」



彼がにっこりと笑った。そうして、大きくて温かい手で、オレの頬に優しく触れた。ささやかな感電。オレの身体は少し震える。彼がオレに与えるものがわかっているから。


与えられるのに、オレは彼に身体と心を差し出す。



ベッドでの彼の愛し方は、彼の性格そのもの。誠実で思いやりがあって、優しくて、あったかい。だけど時々強引で、力強くて、まっすぐだ。



彼がオレにくれる愛の海で、オレは泳がずにはいられない。彼の熱い瞳を見たら、今夜は溺れそうな気がした。





クリスマス寒波に見舞われ、外は凍りつくような世界。



だけど、オレたちの夜は熱くなりそう。きっと熱にうかされ、とけてしまうんだろう。



オレは、そっと瞳を閉じた。