大好きな映画「風と共に去りぬ」の前編を見ながら、ガンプラ「MG ガンダムMk-II ver2」のフレームを組んだ後、時間を置いて今度は外装を組んだのだが、その時はもうひとつの自分が好きな映画「怒りの葡萄」を見ながら組んだ。

 

それにしてもなんだねー、この映画、最後がものすごく好きな映画なんだけど、その大好きな最後に行きつく直前まで、善良な(悪意のないということ)主人公と家族を襲う理不尽ともいえる災厄を延々と見せつけられることになるのが辛い。

 

この映画の個人的な見どころは、最後の主人公の覚醒、ヒーローの誕生の瞬間だと思っている。

しかし、残念ながら映画冒頭から分かるように、主人公には”学”がない。

主人公の結果的には師(メンター)となる宣教師は学(言葉)があり、映画を通じて彼はこの世の自分たちにとってあるべき世界を言語で考えていき、最後には自分なりの答えに行きつく。

しかし彼は自分はその理想を現実させるには器ではないことを知っていたから、命を懸けて学(言葉)を持たぬ主人公に体験でもって理想を伝えることでその役目(生涯)を終えることになる。

 

主人公のいいところは、だからといって宣教師ばかりに頼るわけではなく、言葉や知識は持たぬが自分で体験し、考えて最終的にまだぼんやりとではあるが己のやるべきこと、使命を見つけ出すところだ。

だから2時間弱の尺を使って、延々とひどい目に遭わなくてはいけないわけだ。

ああん、もう、何度見ても格好いいよう。

 


なんて、最後の方はじっくり見ていたもんだから、結局全部組むには少し時間が足りなかった。

う~ん、もうちょいなんだけどなぁ。

どうしようか考えて、そうだ、せっかく「ガンダムMk-II」なんだから、Zガンダムでも流しとくか、と。

選ぶのは7話「サイド1の脱出」。

話の序盤で、まだ作画陣が元気で、この当時のテレビアニメの割にはメカが良く動く。

個人的にガンダムMk-IIの戦闘シーンでは好きな方だ。

 

でまぁ、見ている間に残りを組んじゃったんだけど、こないだガンダムの1~3話を見て富野由悠季氏のことべた褒めした自分だが……

いや~、Zガンダムは別に見なくていいですよ(笑)

 

富野氏の演出には世界名作劇場要素と、SF的要素があって、ガンダムの時期はそれがちょうどいい塩梅で混じりあっていたのだが、Zガンダムの頃は世界名作劇場要素が薄まり、代わりにポリティカル要素が増えてバランスが悪くなってしまっている。

なんでそうなのかというと、このころの御大は、自分はガンダムなんて作りたくないのに、結局ガンダムじゃなければ仕事をさせてもらえないという自分に対する絶望感に打ちひしがれていて、そんな自分の境遇をシャアなんかに投影したもんだから、社会的(ポリティカル)な要素が強い作風になってしまった。

 

なんせ、ガンダムの時から主人公側(連邦軍)が必ずしも善ではないという、あの時代にしてはとんでもない社会性を持たせたアニメだったのを、世界名作劇場要素が押さえ込んでいて、あの名作が生まれたわけだ。

しかし、Zガンダムでは社会性に世界名作劇場要素というリミッターがかかっていないので、えらい作品になってしまった。

 

分かりやすく言えば、ガンダムはアムロの成長譚であったのに対し、Zガンダムでは、富野監督の愚痴の物語になってしまっている。

まぁこの辺りは3年ほど前にグダグダ書いているので、そちらを参照してください。

 

ただ、個人的にはZガンダムという作品はあまり好きではないのだが、本放送当時自分が本当に世の中に対してお子様だったということを痛いほど思い知らせてくれる作品でもあった。

 

「海のトリトン」の時から富野作品の子供の主人公は、大きな過ちを犯して大切な何かを失い、そして大人になっていく。

Zガンダムでは、それはガンダムを見て育った子供に向けて放たれたのだ。

どういうことかというと、ガンダムを見て、ガンダムを愛して育った子供が、ガンダムの続編を望むのは当然なことであろう。

だが、ガンダム好きの(かつての)子供らが望んで、ガンダムなんか作りたくない富野御大に無理やり作らせたもんだから、そこにはもう子供の時に自分らが熱狂したガンダムはないことを知ってしまった。

 

つまり、藤子・F・不二雄が描いた「オバケのQ太郎」後日談「劇画・オバQ」のQちゃんをリアルに体験させてくれたんですよね。

これってすごいことじゃないでしょうか。

だから、このZガンダムを見た後でも、ジオン最高! なんて言っている方々を見ると、

「はぁ、そうですか」

という感想しか湧かない。

 

というか、こういうことを言えるのはリアルタイムで体験した自分らの世代の特権だと思うし、自分が好きなのはガンダムではなくて富野作品だということを再認識させることになった。

その後も富野監督はいくつかのガンダム作品を世に送り出すことになるのだが、特徴として時間が過去に戻ることはなかった。

常に前に進み続けていき、自分はそこに魅力を感じたのだ。

だから後年、「機動戦士ガンダム0083」を初めとして、様々なガンダムが作られてきたが、「ユニコーンガンダム」も含めそういうのにまったく興味がないのはそういうことなのである。



……なんて、思いつくままにグダグダ書き続けたが、まったく違う意味とはいえ意外と「怒りの葡萄」と「Zガンダム」って作品は、自分にとって同じような作品なのかもしれないなぁ、なんてのをガンダムMk-IIを組みながら思った次第でありました。

って、なんだかなぁ(笑)