ベイトソンセミナーとは
名古屋市立大学の
野村直樹先生が講師となって、
ベイトソンの論文や一節を事前に
参加者が読んできてそれをもとに、
先生の話を聞いたり、
参加者一人一人の気づきを
ディスカッションするセミナーです。
今回は、ベイトソンの「精神と自然」から
「誰もが学校で習うこと」
この章を読んでみんなでディスカッションをしました。
最初話題になったのが、
「ベイトソンは家族療法、ブリーフセラピー、オープンダイアログを理解する上で、大切だということはわかるが、難しい。
ベイトソンは難解でわからない。」
そんな話題が参加者からあがりました。
それに対して野村先生が、
「わかる」とはどういうことか?
という話をしてくれました。
「わかる」とは
「分けて、測って、寄せ集めて、理解する」
そういうものを「分かる」と捉えていると
それではなかなかベイトソンが分かるとは
ならないのかもしれない。
例えば、音楽を聴いて、それが「分かる」というとき、
我々はこの曲を「ハ長調の曲で、4分の4拍子だ!」ということがわかると、
この曲が分かるというのだろうか?
または、
その曲の譜面を見て、
音程が分かると、
その曲が分かったと言えるのか?
また、
例えば誰かの「学力」がどれくらいあるのか分かろうとする時
「算数」「国語」「理科」「社会」と分けて
テストして
その点数を合わせて、
その人の分かろうとする。
そのように、人は「分かる」という時
「分けて、測って、寄せ集めて、理解する」
ということを「分かる」
というのだということでした。
そしてそれは、「デカルト的な言語体系」ということでした。
ベイトソンは
生きているものを見る時は、
デカルト的な言葉の使い方から、
違う言葉の使い方をしないといけないと
そういうことなのだそうです。
「精神と自然」のイントロダクションには、
生あるもの(クレアトゥーラ):区切りが引かれ、差異が一つの原因となりうるような世界
生なきもの(プレローマ):ビリヤード球や銀河系のような力と衝撃こそが出来事の原因となる世界
というように分けていますが、
分かるということをプレローマの世界で考えて、まるで、分解して、何かの数値に換算できることのようにとらえていると、
ベイトソンはわからない。
そういう発想になってしまう。
そういうことなのかな?
と思いながら聞いていました。
それから、もう一つ聞きながら面白いなと思ったことは、
「人はわからない。」と思うからこそ、
「学びたくなる」
ということです。
ベイトソンの本を読んで「わからない。」という感想を持つ
「わからない」けど、何か魅力を感じて
「もっと知りたい」と思う。
それで、こうやってベイトソンの研修に来て
何かをつかもうとする。
そういう人間の心理が面白いなと思いました。
ベイトソンの本を読んで、
「なるほど!わかった!わかりやすい。」
こう思ったらもしかしたら、
わざわざベイトソンセミナーにまできて
ベイトソンをもっと知ろうとはしない
のではないか?
と
この何かわからないけど、
これについてもっと学んでみたい。
そう思わせる何か?
その魅了は何だろう?
とそれも興味深く考えていました。
というのは、自分も人前で話したり、
セミナーをしているので、
セミナーはもちろん。
「わかりやすさ」は大切なのだけど、
逆に「わかりにくさ」「もっと知りたいと思わせる何か」
そういった要素もとても大切だなと
思いました。
その後セミナーは「誰もが学校で習うこと」の中で1〜16まで項目があるわけですが、
その中から自分の興味のある項目を選んで、
同じ項目を選んだ人とグループを作ってディスカッションということを行いました。
私が最初に選んだものは、
「地図は土地そのものではなく、ものの名前は名づけられたものではない」
というもの。
この原則はNLPを学んでいてもよく出てくるもので、
私にとってはおなじみのあれっていう感じですが、
もう一度これについて考えてみたい。
他の人はどのようなことを思うのか聞いてみたい
と思い選んでみました。
私はこの原則を、
ざっくりいえば、
人によって現実の捉え方というのは違うのだから、
コミュニケーションをとる時に
語られた言葉は、
その語り手のどのような地図を通して
語られているものなのか
それを踏まえた上で
理解しないといけない。
そうしないとミスコミュ二ケーションの原因となる。
そのようにとらえていました。
その理解自体は今も変わらないのですが、
ただディスカッションを通して
こういったコミュニケーションの見方というのは、
もしかしたら、ベイトソンを学ぶ前から
ずっと昔からこういう見方も
していたな。
とふと昔のことを思い出すことがありました。
それは、自分の家族との関係のことで
一つの出来事について、
私の父と母と祖母とで
ずいぶん同じ出来事なのに
語るニュアンスが随分違うということがよくあって
いったい誰が真実なのだろうかと、
思っていたことがあったなあ
とふとそんなことを思いながら聞いていました。
その次に選んだのは
「言語は通常、相互反応の片側だけを強調する」というもの。
この時のディスカッションは
自分にとってとくに有益でした。
この法則を考える時
私が考えていたものは
例えば
とある看護師さんが、
ある患者さんについて
「あの患者さんはずいぶん落ち着かない」
と発言したとします。
そういう時、とくに意識しない人は、
誰がそれを発言したのか?
という側面はあまり気にせず
そこに「落ちつかない患者さんがいる。」
という発言された側だけに
意識がいく。
だけど、別の看護師がその人について発言した時に
「あの患者さんはずいぶん活動的だ」
というかもしれない。
それは、人によって捉え方は違うので、
人の発言を聞く時は、
その言葉だけでなく、
その言葉が話されているコンテクスト
に注目をしなくてはならない。
そういうことだと考えていました。
ただ、この法則はそれだけのことを言っているのはないのではないか?
そういう話題で盛り上がり、そこから先の議論がとくに刺激的でした。
ベイトソンは「精神と自然」の第2章の最後に
この章は16つの法則があり
この法則は
1)〜5)で1つのグループ
6)〜8)で1つのグループ
9)〜12)で1つのグループ
13)〜16)で1つのグループ
と4つに分かれるとあるのです。
このうち
1)〜5)は記号化について
6)〜8)「ランダムなもの」対「秩序だったもの」という問題に関わる。
としたものの
のこりの2つのグループについては、
本には書かれず、読者で考えてみて
とされているのです。
それで、
「言語は通常、相互反応の片側だけを強調する」
という法則はその15にあって
13)論理に因果は語りきれない
14)因果関係は逆向きには働かない。
16)”安定している””変化している”という語は、われわれが記述しているものの部分を記述している。
この3つの法則の並びであるということに注目しました。
先ほどあげた、15の法則を上にあげたような意味だけで捉えるのならば、
これは、1)〜5)の章の並びに書いてあっても別におかしくはないことではないかと
つまり記号化の問題
地図と土地は違うということを
ただ別の言い方で言い換えただけのものなのではないか?
とそう思えてしまうのですが、
これが、13、14、16の間にあることに興味がいきました。
そこで、行き着いた考えは、どうもこれは、”時間を無視した言語”と”時間上での相互作用を意識した言語”という二つのことについて言っているのではなかろうか?
そういう考えが出てきました。
「あの患者さんは落ち着かない」
そのように言語で話された時。
まるでそこに「落ち着かない患者」という
時間を無視して、
固定化された物体がそこにあるかのような
話し方になってしまう。
実際には、語った人と患者さんとの間でなんらかの、やりとりがあり、
時間的な経過の中で「あの患者さんは落ち着かない」
という言葉がでてきた。と
そういうことなんだけど、
そういう時間が流れているっていうことがスッポリ忘れらて語られる。
そういうことなのかな?
というような話になりました。
いずれにしても、NLPのメタモデルの
もとになるような話が多く、
非常に面白いと思って参加していました
どっちにしても、ベイトソンって面白いなーって思う研修会でした。
ベイトソンの要素をもっと自分の臨床やセミナーにも入れ込んで発信したい。
そんなことを思った研修会になりました。