今日のデイケア
利用者さんみんなで、「小指の思い出」を歌う。
♪あなたかんだ~ 小指が痛い~ 昨日の夜の小指が、痛い~♪
歌詞をじっと聞いて、意味を考えると、ちょっと、いやらしいような不思議な気持ちになる。
うーん。どんな夜を過ごしたのだろうか。。。
しかし、デイケアで利用者さんと一緒に歌って、
こんなこと、歌詞の意味をじっと考える。
そんな人ってあまりいないのだと思う。
歌というのものは、歌詞の意味をあまり深く考えると
楽しめない。
そう思う。
昔、小室哲哉が、なんかのテレビ番組で、
「歌の歌詞がさらっと流れるような歌詞が、良い歌詞だと思う。
あまり意味が強すぎるメッセージソングみたいなのはあまり好まない。」
みたいなことを言っていた。
歌の歌詞ってそういうものなのかな。
そういえば、さざんかの宿も指を嚙む歌だった。
♪抜いた指輪の罪のあと、かんでください。思い切り~♪
世の中の男女はねんごろになると、夜な夜な指を噛みあうのだ。
そんなことを思った。
でも、たぶんそういう事ばかり考えていると、
音楽は楽しめない。
たぶん。それが歌を楽しむコツ。
そんな気がする。
では、なぜ歌には歌詞があるのだろうか?
すべて、「ら・ら・ら~」と歌ってもいいのかもしれないし、
すべて「しゃばだば、しゃばだば~」と歌ってもいいのかもしれない。
だけど、歌は、歌詞がある方がなんか安心する。
きっと歌というのは、歌詞があることで、その歌詞の意味ではなく、
その雰囲気を楽しむものなのではないだろうか?
意味そのものではなく、その言葉から伝わってくる「何か」
もしかしたら、歌だけでなく、我々のコミュニケーションというもの
似たようなところがあるのかもしれない。
ふとそんなことを思う。
「今日もいい天気だねえ」
「本当そうだねえ」
「こんな時はお布団を干したくなるねえ」
「いいねえ。」
例えばこんな会話。
こんな会話だって、別に真剣に天気のことを伝えたいわけでない。
この会話から伝わってくる雰囲気のようなものを
楽しんでいるのではないか?
天気のことを通じて、あなたと仲良くなりたい。
楽しい時間を過ごしたい。
ただそのことを伝えあっているだけでなのではないだろうか?
こんな事を考えていたら、
グレゴリーベイトソンと娘のメアリーキャサリンベイトソンの会話を思い出した。
父「人はぺちゃくちゃとずいぶんしゃべるけど、だいたい何をしゃべってるね。アメリカ人の会話って、だいたいどんな話だ?」
娘「それは、いろいろでしょう?野球のこととか、アイスクリームのこととか、庭のこと、ゲームのこと。
それに、人のうわさ話もするわ。自分のことも話すし、クリスマスに何をもらったとかー」
父「それはいいんだが、いったい誰が聞くんだね。きのうの野球の話とか、人の庭の話とか、、、。
つまりパパが言うのは、そういう話をするときに、何を伝えあっているのかっていうことなんだ。
(中略)人が話をする時は、怒っているとか怒っていないとか、そんなことしか言っていない場合がほとんどなんだな。
お互い一生懸命フレンドリーだといい合って、しかもそれがウソだったりして。」
たしかこんな会話だった。
人は話をしている時、その話されている情報そのものをやりとりしているのではなく、
仲良くしようとか、怒っているとか怒っていないとか
そういう類の情報をやりとりしている。
でもそれは、そのまま「仲よくしようよ」と言葉にしたのでは、
そのままのメッセージは伝わらない。
そんな話だったと思う。
このことを思い出した。
言葉というのは不思議なもので、
決してその言葉の意味そのものが伝わるわけでない。
言葉を通して、「何か」が伝わる。
その何かを楽しむのがコミュニケーションなのだろうか?
SNSだってそうかもしれない。
そこに書かれている言葉の意味より、
それを通じて、人とつながりたい。とか
自分を表現したい。
とかそういうメッセージ。
それを大切にすることが楽しむことなのかもしれない。
本当に伝えたいことは、言葉では表現できない。
そんなことをつらつら思いながら、今日は利用者さんと一緒に「小指の思い出」を歌っていました。