認知症の妻と面会にきた夫。
こういう風景を病院でよく見かけます。
認知症があって、
調子が悪いと、たびたび「助けてくださいっ」と大きな声をあげたり、
「早く家に帰りましょう!」と病棟内を不穏になってウロウロしたりする方です。
そんな患者さんでも、
夫が面会に来て、
夫が桃や梨、みかんなどを持っくると、
穏やかに果物を食べている。
そういう風景をよく見ます。
私は、そういう認知症の妻を介護する夫の様子をみると、
自分もあと40・50年後くらいには、こんな夫になるのかなあ?
妻が認知症になったら自分もこんな風に面会に来たり、こんな風に介護したりするのかなあ?とか妄想を膨らませます。
私は別に恐妻家という訳ではないのですが、
私も妻の機嫌がちょっと悪い時や喧嘩した時は、
積極的に妻に果物をむいたり、
ケーキや甘いものを買ってきたり、
普段はあまりやらない家の掃除をしてみたりと、
妻の機嫌をとるような行動をとります。
そうすると、妻は幾分か機嫌を直して、穏やかになってくれます。
そういう自分の行動が、
年をとってくると、認知症の奥さんを介護する夫の感覚につながっていくような感覚があって、
なんとも不思議な感じになります。
なんとなく面白い感じとも言えます。
さて、先ほどの例に戻ります。
面会に来た夫に
「いつも面会に来られていて大変ですね。」なんて私が話しかけると
「いやいや。これが私の日課みたいなもんなんですよ~家も近いですし、私が来れる限りは来てあげようと思って・・」
なんていう風に笑って話される事があります。
きっと面会にくる夫の方も、
妻の所に来たり、果物を食べさせたり、
そういう事が、自分の日課になって、元気の素になっているんだろうなってな事を思います。
そこには、
介護する側、介護される側。
という単純な一方向の関係性ではなく。
お互いがお互いを支えあいながら生きている夫婦の形が見えるように思います。
これは、子供が親の所に面会にくる風景とは、
全然種類が違うように思います。
子供が親の所に面会にくる風景というのは、
介護する側される側。
面会にくる側。面会される側。
という差がエネルギーの差としてはっきり分かりますが、
高齢の夫が高齢の妻の所に面会にくる様子というのは、
お互いのエネルギーには僅かしか差がありません。
そしてお互い残り少ないエネルギーで二人で支えあっているような様子であり、
それはなんだか崇高な風景にも見えます。
自分はこういう風景を見て、
「ああやっぱり夫婦というのは、最期まで助け合って生きていくんだな」という事をいつも学びます。
こうなるまでには何十年もの夫婦の歴史があったのだと思うし、そして最期まで助け合って生きていく姿がなんだか素敵だなと思います。
もちろん素敵ではすまされないくらいの、
大変な介護の日々やいろんな事があったとも思いますが、
それでもそのお互いのパートナーシップに学ぶものが多いなあと思います。
夫婦って血のつながっていない赤の他人と人生で一番長く時間を共にする事もいえる訳で、
パートナーシップを作っていこうと努力していかないと続かない事だと思います。
その長年かけて作った夫婦のパートナーシップの集大成が、その高齢の妻への夫の面会風景から垣間見れるような感じがして、
なんか良いなあ。学びになるなあと思います。
認知症の妻の所に夫が面会にくる風景というのは、
そんな事を感じる仕事場でのヒトコマです。