治療でも訓練でもないもの | 作業療法士杉長彬(すぎながあきら)のやる気を高めるコミュニケーション

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自分のやっている作業療法って“治療”とか“訓練”とかどの言葉でもいい表せないものだなってよく思います。

療法なのに治療でも訓練でもないなんて、
変な感じなのかもしれないし、おかしな事なのかもしれないけど、
それでもそんな風に思います。



認知症の作業療法って何だろうか?と
やはり自分の中でもまだ答えの出せない所があり、模索中です。

なんか一日一日を支えているそんな感じです。


鎌倉矩子先生は、「作業療法の世界」の中で、作業療法の種類を3つに分類しました。

1 障害軽減の手段
2 技能獲得のための目的
3 よりよい作業体験としての実存

この3分類です。



作業を使って、病気を治す。障害を軽くする。そういった考え方というのは、治療としての作業です。
障害軽減の手段としての作業という役割です。

例えば、手先を使ってちぎり絵をしたり、マクラメをしたりするのが、それが手指の巧徴性を高め、また脳の認知機能を高めたりする効果があり、そしてそれが障害を軽くする。生活しやすくなる。
そういった考えで行われるわけです。


これは解剖生理学・運動学などの考え方をバックグラウンドに成り立っている訳です。


2の技能獲得のための目的っていうのは、
訓練としての作業っていう感じです。
例えば、退院後に料理する必要があれば、料理そのものの作業活動訓練をしたり、自転車に乗る必要があれば、自転車の練習をしたりします。
これらの考え方っていうのは、real occuppation の考え方がもとになってたり、AMPSとかCOPMとか、そういった考えが、基盤となって進めていく事が出来るのかなって思います。





それで自分のやっている作業療法がいつも1にも2にも当てはまらないなって思う訳です。

その時、その時で、目の前の人が一番輝くような、作業体験が出来ればいいなと、そういう意図でやっています。

するといつも自分のやっている事って治療でも訓練でもないなと思うのです。



例えば、
日頃覚醒状態が悪く昼間いつもほとんど寝ている方がいました。
もう90をすぎてだいぶご高齢の方です。


だけど、その方に、ある時、けん玉を渡したら、急に眼を明け、眼をキラキラさせてけん玉に取り組むっていう事がありました。

何度も何度も失敗するのですが、
何回かやり続けると、「パコッ」ってけん玉の玉がけん玉の先に乗りました。


その時は、その場にいた他の患者さん。OT。看護師さん。みんな多いに興奮し、「○○さん!すごいね!」って感嘆の声をあげました。
日頃ほとんど寝ている○○さんが、けん玉だけはパチッと眼を覚まして取り組む、さらにはけん玉を入れた!

これは我々スタッフの間ではかなりのニュースになりました。

さらにその方はその時非常に上機嫌になり、「小さい頃は良くやったんだ。」「近所では自分が一番上手かったんだ。」などの素晴らしいエピソードをたくさん話してくれました。



ところが、残念ながら、その方はその後全身状態がどんどん悪くなり、2、3ヶ月後亡くなられました。




例えばこんな話があったとします。

するとこういう関わりのあと、

後からふと、自分たちのやったそのけん玉での関わりは何だったのだろうかと、振り返ったりする訳です。


そう考えてみると、
やっぱりそれは“治療”とも“訓練”とも言えないものだなあとしみじみ思う訳です。



鎌倉矩子先生が、「よりよい作業体験としての実存」っていういい言葉を書いてくれてたなあと思いおこしたりして、そういったものだったのかなあと考えさせられたりします。



実存なんて事がいったいどういう事なのか、自分にもあまり説明できません。

ただ私はその時その時で目の前の方が一番輝ける瞬間を探しるだなって思う訳です。


そういう自分のやっている事を訓練でも治療でもない、他のいい言葉で何とか言い表せないものか、現在模索中です。



そんな事を思う今日この頃です。