七面山本社の境内は、総門より影嚮石を見通した線を境にして、それより上とされ、身延山の飛境内地となっている。門をくぐれば和光関の名にふさわしく、あたりは急に開けて明るい台地となり、参道は数倍も広く、しかも真直ぐ本社の方へ、なだらかに上がっている。
両側の丘陵には、原始林さながらの巨大モミの木や白樺が群生し、その木立の、一面敷きつめたような落葉の中には、自然風倒の巨木が、あちらこちらに横たわり、閑寂の中、霊鳥のさえずる声のみ聞え、参道の両端には、野菊のような名も知れない高山植物の花が、真っ白に咲き乱れている。
標高およそ一九八〇メートル、天と地のつながる所、人工を加えず、天おのずから作った大自然の公園か、明神の清遊し給う園生か、さながら幽玄なる仙境へ一歩踏み入った感慨を覚ゆる。
これより二丁、一気に登れば右に水屋、左に鐘堂がある。水屋の大青銅の水鉢には、享保二十年四月二十八日鋳造の銘が入り、鐘堂の大鐘は、それより古く延宝三年春の鋳造、大中院日孝上人の銘がある。
この鐘は通称「罪障消滅の鐘」或は単に「消滅の鐘」ともいわれ、一部の信徒の間では、「撞いた数だけは七面山へ登らなければならない」
とも言われているが、麓より四十八丁のけわしい参道を一路登りつめた人々はここに到って我れ先に、と鐘をつく。
罪障の消滅と先祖の菩提を仏天に祈り、その念をこめて撞く鐘の音は、インインとして更に天空高く響き渡り、嫋々として遙かに棚引く雲海の彼方へと流れて行く。誰か、その鐘の音に歓喜しないものがあろう。
一撞きまた一撞き・・・・・・・・・・遙かに流れ行く鐘の音に耳をすませば、今までの登山の苦しみも一瞬に忘れ、さながら本佛の大曼荼羅虚空界の内に摂取されて、諸佛・諸天の賛嘆を聞くが如く、自ら是真仏子の法悦をシミジミと味わう。
さて、鐘堂より本殿へ至る道は二つあり、右へ行けば池大神の社へ出、左へ折れて坂を登れば、富士山御来光遙拝所の広場へ出る。参道は左である。坂は一丁、最後の上り坂。
これを一気に登れば、荘厳なる随身門が、青銅二重の屋根を中天に広げて、厳然として聳えている。
門は三間半に二間半、大正十年の改築によるもの。
左右大臣を安置し、屋根には身延八十世寂中院日調上人の筆による「摩尼珠嶺」という扁額が掲げられている。
因みに摩尼とは、仏教の悟りである法界円融の理を意味し、摩尼珠とは、それを象徴する摩尼宝珠(如意宝珠)のこと、また摩尼珠嶺とは、それを厳守する霊嶺、即ち七面山頂、七面大明神のすまわせ給う所そのものを指している。
なお七面山の御朱印によればナナイタガレの図案の下、摩尼珠宝嶺という文字のよこに七面山奥之院とあり、また「身延図鏡」によれば、ナナイタガレの一帯を指して摩尼珠嶺としている。
そこで往時は、ナナイタガレの方一里余に及ぶ円状の大奇観から、或るは、その辺一帯を称して、そのように呼んでいたことがあったのかも知れない、という想像もされよう。
然し、いづれにせよ、法華経擁護の善神七面大明神の神霊すまわせたもう霊峰という意味には変わりはない。
さて、この随身門は、東方富士の峰とは真正面に対している。私達が此処についた時は既に夕闇が迫っていたため、富士はかすんでいたが、聞くところによれば、富士の御来光は、一直線に随身門と本社の拝殿・弊殿・本殿の中央を射し通し、大明神の御厨子の真正面を照すという。誠に不思議というも愚か、有難き大自然の差配である。
随身門をくぐれば、これより一丁の下り坂、真正面に荘厳なる本社の拝殿が目の下に見える。信徒の感動はいよいよ高調し、駆け下って拝殿にぬかずけば、思わず感きわまって涙滂沱として溢れる。中には大地にひれふして号泣する者も決して珍しくはないという。
題目三唱また十唱・・・・・・・・・
荘重なる拝殿を仰ぎ、この奥深く鎮まりいます七面大明神に向かって、
「只今、無事ここに到着させていただきました」
と感謝の題目を捧くれば題目は感動の波となって、あたりにこだまする。その頭上王朝造りの拝殿の屋根には、七面山の紋所が燦然として金色色に輝いていた。
拝殿の左側には、敬慎院の大玄関と一般の門があり、寺務所、別当所、参籠所、等の数十の大部屋がある。(昭和35年当時)また拝殿の右側には、廻廊続きに池大神を祭る三間半四面の御堂があり、入口には身延六十七世智鏡院日楹上人(安政年間)の扁額が掲げられている。
なおまた、このお堂の更に右には、赤い屋根の願満社があり、これら本社諸堂の後ろには一ノ池がある。
一ノ池は何千年来、何十万年来、一度も涸れたこともない太古の水をたたえ、その周辺一帯は、この池を中心として原始林にかこまれた閑寂そのものの盆地となっており、荘厳なる諸堂は、池に影を写して一層その幽邃の美をそえ、俗塵を遠く離れた仙境の景を呈している。
さて敬慎院の寺務所受付に刺を通ずれば、あらかじめ連絡していたこともあってか、まちわびていたかのように七面山執事の遠藤湛淳上人、今村恵晃上人(昭和35年当時)に迎えられ、別当所へ案内される。
当代七面山別当は第百二代遠藤是雄上人(身延山恵善坊住職)。(昭和35年当時)
皆、日頃より昵懇の間柄、挨拶もそこそこに早速取材に取り掛かる。
先ず本殿へ詣でる。
本殿は拝殿・弊殿・奥殿と続き、奥より順次、代を追って増築されたものと云われ、拝殿は八間に五間、記録によれば安永九年八月十九日に改築上棟されたものという。
内部は薄暗く、森厳な空気が漂っている。手前には珍しい形をした大きな灯明台があり、奥には大太鼓が二つ、天井よりは七面大明神の五字を浮きだした赤い大きな提灯が下がっている。
また周囲の欄間には、心願成就の御札に奉納した各種各様の絵馬が、隙間なく掲げられており、その中、特に正面左側にある「武田信玄身延攻め」の細密・絢爛たる絵馬には、思わず目を奪われる。
この絵馬は、元亀年間、武田信玄が身延山を攻めた時、七面大明神が赤竜と変化し、一万巻の法華経を読誦して怨敵退散を祈願する身延の衆僧を内に擁し、九万八千の夜叉神を率いて、武田の軍勢を阻止混乱せしめたという伝承を描いている。
作は明治年間のものではあるが、恐らく身延攻めの当時、七面大明神の神霊が、かくも威大なる霊験をあらわされたであろうことは、妙石坊高座石に於ける影現と思いあわせて、大いにありうることと想像されよう。然し、絵馬も天井も、年中絶えたこともない線香の煙りに、黒くいぶっていた。
拝殿の次は弊殿、いわゆる読経の間である。広さは六間に四間半、この右横に七面山宝物殿がある。
静かに弊殿を通りぬけ、一段昇れば四間に七間の奥殿、即ち七面大明神の御神体を奉安する御開扉の間である。
ここは開創以来、片時も灯明の断えたことはなく神威赫々として普く天下に利益の施されている御宝前である。
拝跪する畳までも、神の座の如く思われるばかり・・・・・・・・。
御厨子の上には「感応」の扁額が掲げられ、極彩色の格天井、欄間に描く天女の絵巻、・・・・・・・・・やがて荘重なる読経・唱題の裡に御開扉があれば、恰も電光の背筋に走るが如く、全身に霊気をあびて感涙にむせび、御神体を仰ぐのも畏れ多く、その森厳、その感動は到底、筆舌にも尽くし難い。
さて本堂を下り、寺務所にて七面山本社に関する色々なことをうけたまわる。
聞けば、本社の拝殿・弊殿、そして奥殿と続く建築様式は、いわゆる「七面造り」と言って建築界にも名のある所という。七面山頂、これほど大いなる名伽藍を擁し、しかも何百年來、七面大明神のすまわせ給う神域を、荘厳し維持する努力は並大抵のものではない。
また参籠所には連日千名の信徒を樂に収容出来るという。山務員は別当以下十五名、使用人は通常二十名から多い時は三十名。山頂の冷気のため、夏なお部屋毎に炭を入れ、受付の横にある囲炉裏には一年中、炭火の断えたことはなく、優に子供一人が入れるという八斗入りの赤銅大ヤカンがかかっている。
次に台所へ廻れば二斗炊きの大釜、五十人分を一度に作る味噌汁ナベが幾つも据え付けられ、さながら戦場のような忙しさ。ここでは一切精進料理。夕食時ともなれば、お膳が一勢に並べられる。味噌汁が手桶に入っているのも珍しい。
やがて夕食がすめば、配膳係が一人で十二人分ものお膳を両手に抱えて一度に下げて行く。その後には簀巻きにした大布団が次々にかつぎ込まれ、グルグルとひろげられては、矢継ぎ早に部屋一杯敷きつめられる。この一つの布団には、十人から十二人もの人が一緒になって登山の疲れが癒される。
なお翌朝、布団は再び簀巻きにして片付けられるが、これらのことは一般の生活では見られない七面山ならではの奇観であろう。
昭和十七年、一ノ池のほとりに飲料水用の井戸が掘られた。然し、動力で上げる此の水だけでは連日千人もの人々の、充分なる需要には応じ切れない。
そこで少なくとも洗面所や風呂場では節水が要望され、特に風呂ではセッケンの使用が禁じられている。(現在も)
然し、七面山頂、一風呂あびる心地は、また格別である。
この間、御開扉は、その都度に行われており、読経の断える間はない。やがて夜七時三十分、夕勤を告げる大太鼓がなり響く。参籠の信徒は続々として拝殿へ参集する。勤経は一時間三十分。登詣信徒の心願成就、先祖の冥福、そして道中の安全が祈られる。
夕勤がすめば既に九時、人々は明日の御来光を楽しみながら一斉に寝につく。その後、寺務所に於いて遠藤執事から、
「七面山では池上別当の代、昭和十六年十二月上旬に電灯がつき、翌十七年十月下旬には北麓角瀬局依託の電話が開通した。また降って遠藤別当の代となり、昨三十四年八月下旬、大映永田社長の尽力があって公衆電話が開通した。これらのことは、七面山近代の画期的な事業であろう。」
等々のことを聞き、更に今村執事よりは例年九月十八日・十九日に奉行される七面山大祭の模様を聞く。
その大要は、
「身延山法主猊下の一行は、十八日夕刻、敬慎院の大玄関に到着される。参籠の信徒は千数百人、拝殿は文字通り立錐の余地もない。その夜八時三十分より法主猊下大導師のもと、身延山支院住職、並に七面山縁故寺院住職が総出仕して凡そ一時間三十分、報恩大法要が厳かに執り行われる。
その後、法主猊下の御訓話が三十分ばかり。終わって「日蓮聖人一代記」等の聖画が上映され、続いて通夜説教に入る。説教者は身延山大学教授や学生等数名。
勿論、当事者は一睡の暇もない。参籠者も殆ど熱心に聴聞している。山頂のことであれば、それこそ雑音一つしない厳粛そのものである。
さて翌十九日の大法要は、通夜説教に続いて未明の三時三十分より五時まで。それより御来光を遙拝し、朝勤・朝食をすませ、法主猊下は朝九時、参籠の信徒に見送られながら表参道を再び御駕籠で下山される」
ということであった。
なお、ついでのことながら七面山では一泊以上の参籠は禁じられているとのこと。それは余りにも参籠者が多いためである。故に麓に宿泊して本社へ日参する人もいるわけで、ここに思いを致し、更に今後ますます激増していく七面信仰者のことを思えば、七面山頂に敬慎院の外、更に特別参籠修行の道場を建立する必要が生じてくるのではあるまいか、と推量される。
既に夜は更けている。事務所を辞して廊下へ出れば電灯の光が、長い廊下を淡く照し、両側の各部屋は、堅く障子を閉ざして深い眠りに落ちている。到底ここに千人近くの参籠者が休んでいるとは思われない静けさ・・・・・。
足音を忍ばせて廊下を過ぎれば、健康そうな寝息きが障子越しに漏れてくる。それは七面大明神の温かい懐に抱かれて、安心しきって寝入っている様に外ならない。
同宿の参籠者よ、幸いあれ・・・・・・・と祈りつつ廊下を曲がれば拝殿の方から光の流れ来るのが見える。
近づいて内をのぞけば、拝殿の灯明台に一本の蝋燭を立て、その下に端座して、何事か一心に祈り続けている老婆の姿があった。それは-------余りにも印象的な姿だった。
(内容は昭和35年当時のものです)