影嚮石より、三十丁目の明浄坊まで凡そ十二丁。

道はけわしくなる。所によっては表参道よりけわしい。というのは七面山の山形が、東西より南北に長く、北面の尾根幅が削ぎ立ったように狭くなっているため、表参道のように道を曲折・蛇行する余地がないからである。

また、表参道に比べれば、杉並木や巨木の林立は見られず、一丁ごとに立てられている道標にしても風雅な石燈籠ではなく、宗教的な神秘性や森厳な雰囲気には乏しい。然し、それだけに却って辺りは明るく、また雄大な展望を楽しむことが出来る。

右前方には、遠く富士山麓の本栖湖や河口湖が、鏡のように光って見え、左前方には、北より鳳凰の峰・北岳・間岳・農鳥岳・ザル岳等々の雄峯が、赤石岳の連峯に連なっており、また近くには武田信玄が掘ったという金山の崖が望まれる。

時折、カッコウやコマドリの声がする。季節によってはホトトギスやウグイスの声も聞こえるという。

やがて明浄坊につく、坊は近年出来たばかりの休憩所。ここより真東に当たって身延の峯と富士の霊峰が仰がれる。この景観を背景に、数名の信徒が一服しながら、七面信仰について体験談やら御利益談を語り合っていた。

その中に、皆の話しを熱心に聞いている一人の御爺さんがいた。年の頃なら、六十前後、髪はもう真っ白になっていた。服装は皆と同じく行衣・手甲・御絆に力杖といった七面山では見慣れた姿であったが、ただ一つ変わっていたのは、白布に包んだ四角の木箱を頸からさげてしっかりと胸に抱いていたことである。

「失礼ですが、御遺骨ですか・・・」と尋ねると、お爺さんは大きくうなづいて、

「そうです。家内の遺骨です。家内は熱心な法華経信者でした。然し日頃病弱であったため、”一度お参りしたい”と口癖のように言っておりながら、とうとう死ぬまでお参りは出来ませんでした。その頃、私に信仰心があったならば、代参でもしたものをと、今では悔やまれてなりません。

せめて遺骨と一緒にお参りをしようと思っていた折、幸い此処におられる人達が七面山へ登られるというので、早速娘に行衣を縫ってもらって、皆さんにつれられてお参りに来たのです。昨日は身延山で追善の法要を営んでもらいました。今日は夫婦して初めて七面山へお参りさせて頂いております。

これも家内の霊の導きでしょう。これからは亡くなった家内と共に、一生懸命、法華経信仰を励んで行きたいと思っています」

と答えられた。傍にいた一行の先達の人も、

「宿に泊まった時は、必ず二人前のお膳を取って、一つは御遺骨に供えられていた」と付け加えられた。居合わせた人々はすべて深い感動に打たれた。そして一行と共に、御遺骨を胸に抱いて一歩一歩力強く登っていくお爺さんの後ろ姿は、余りにも印象的であった。



本社より影嚮石まで八丁。道はなだらかな下り坂。

池大神の社の前を過ぎ、やがて梢にカズラの垂れている密林のような間を通りぬければ、凡そ五丁にして二ノ池が左手に見える。入口には白木の鳥居が建っており、池の傍らには祠がある。祠の周囲には心願成就のため奉納した赤や白の大小さまざまな旗が立っている。

二ノ池をやや過ぎた頃、右へ下る急こう配の細い道がある。これを行けば、昔は渓流であったろうと思われる岩の多い谷あいにそって、やがて御神木に達する。

御神木はアララギの大樹、樹齢およそ六百年と言われ、目通し四抱えもあるような根方には、曽って樵人が伐り倒そうとして、樹皮より血がほとばしったため、驚いて伐ることを中止した、と云い伝えられている切り口が、今なお歴然として残っている。

また御神木は、その名にふさわしく太いシメナワに飾られ、天然記念物にも指定されている。

これより暫く進めば、道は曲折する急な登坂となり、やがて影嚮石の真下に突き当る。岩を裏から廻れば参道に出る。影嚮石は見上げるような巨岩、目通し凡そ十八間とも云われ、これも太いシメナワに荘厳されている。

さて影嚮石には二つの伝説がある。

昔、七面山裏麓の雨畑村の漁師が、偶然にも雨畑川から光物を拾った。(一説には雨畑村の漁師が、山奥で仏像に似た古木を拾った)これを家に持ち帰った所、急に家中の者が病気になった。三軒ばかり持ち廻ったが、矢張り同じ災いが起こる。或る時、信仰篤い人の夢枕に霊神が立って、

「我は七面山一ノ池の守護神である。速やかに一ノ池のほとりに祭るよう」とのお告げがあった。

そこで村人が、拾った古木を奉持して七面山へ登る途中、濃霧のために一歩も先へ進まれず、一夜を明かした所が、今の影嚮石のあたりであったという。

もう一つの伝説は、宗祖が身延の山頂にあって、一心に読経されておられた時、七面大明神が竜体となって影現し、この岩を七巻半して頭をあげ、遙かに身延山頂の宗祖の読経の姿を遙拝していた、というのである。

思うに影嚮石は七面山頂の平坦な台地から急勾配の坂にかかる所にあり、また身延山の妙石坊高座石も平たんな身延川のほとりから、急勾配の坂にかかる所にあって、地形的にも類似の対照をなしている。のみならず、影嚮石は七面大明神影現の所、高座石は得度の所と云われ、同様に妙法二神にしても十万部寺は示現の所、高座石は得度の所と云われる。そこで、これを西谷の祖廟より遠い所が示現の地、近い所が得度の地となっていて、距離的にも面白い対照として考えられよう。

然し、何はともあれ、確かに、ここからは身延の山頂を遙かに望むことが出来る。参道の正面に拝殿があり、奥に本殿がある。庫裏・参籠所はその左側。

社殿は延宝年間に建てられ、後に宝暦年間身延四十二世耐慈院日辰上人の代、本殿と拝殿が改築されている。現代の社殿は、それまで小規模で荒廃していたのを明治十六年より改築にかかり、同三十六年に完成したもの。一名「影嚮の宮」とも呼ばれている。



随身門よりナナイタガレまで凡そ八丁。山頂一九八二メートルの三角点まで凡そ十五丁。本社を辞して三角点へ向う。

随身門より左手の山道へかかった所に白亜の宝塔がある。昭和二十年八月十五日の終戦の日、東京の岩見妙安法尼が発願し、法華経の一字一石を納めて昭和二十四年に完成した世界平和万霊供養塔である。

これより先は、一帯に平らかな台地となっている。そこを進みながら私は鈴木さんと語らった。

「仏舎利塔が建立されるとすれば、恐らくこのあたりだろうか・・・・・」

と。若し、それが実現すれば、仏舎利塔は世界平和の万霊供養塔のそばにあって、遙かに富士の御来光に対する。その偉観は想像するにも余りあろう。

そして、これほどの高山に、これほどの大自然の景観を得た仏舎利塔は、恐らく全世界にもその類を見ないであろう。

ほどなく、右手の木の間がくれに一ノ池の南端が見える。その淵は池の「お土」で白くなっている。

池の広さは直径凡そ三百メートル。その底はすべて「お土」と云われている硅藻土である。この硅藻土が、切傷・腫物・感冒・熱さまし・胃腸病等々に卓効があるため、池を別名「無熱池」「霊池」と呼び、またこれを「お土」といって毎年七月下旬、池より採取し、そのまま薬として寺務所の受付で、希望者にわけられている。(昭和35年当時のこと)

然し、この「お土」は採っても採っても、採りつくされるものではない。池の水はさほど深くはないが、底の「お土」は底なし、と云われるほど深いからである。


聞けば、硅藻土とは本来、何尋という深い海の底にあるものという。若し、一ノ池が、もと何尋という海底にあったということが事実とするならば、地質学的に言って、七面山は何万年か何億年かの大昔、海底の隆起によって出来た山であるとも考えられよう。

ともかく一ノ池の「お土」は、七面山に関する大自然の不思議の一つを物語っている。

細い道は、原始林の中をなだらかに上っている。

道端には兎や鹿の糞が、あちらこちらに転がっている。鈴木さんが草むらのくぼんだ所を指して、

「鹿の寝ていた跡かもしれない」

と言った。随身門よりナナイタガレにかけては、色々な獣の通った跡がある。恐らく一ノ池の水を飲みに通った獣の跡であろう。

やがてナナイタガレの淵に出る。崖は見上げるように高い山頂より急転直下、鋭い爪後を残して眼下遙かに山麓まで続き、方一里余に及ぶという崖の全体は、さながら巨大な摺り鉢の如く、その底には七面山の地下水が滔々として吹き出し、奔流となって春気川へそそいでいる。

削ぎ立った崖の肌は赤黒く、岩は鋸のように鋭い。足元を注意しながら覗いていれば、今にも吸い込まれそうな無気味さ、下より吹き上げる風は夏なお肌寒く、ナナイタガレの全景は、奇観というより寧ろ、あらぶる神の力を現わすが如くである。宗祖はここを称して鉄門に似たり、と仰せられているが、将しくその形容にふさわしい。

これより山頂の三角点まで、道は急にけわしくなる。道は山頂を越えて梅ヶ島へ抜けるハイキングコースとなっているが、通る人も稀なため、道はいよいよ狭く、けわしい所はけわしいまま、崖の淵にそって上っている。

あたりは白樺の巨木が無数に倒れ、枯れたまま天を沖する魔物のような梢は、そのまま深山の風情を伝える絶好の被写体である。

遂に標高一九八二メートルの三角点に立つ。一帯は、なだらかな台地となり、三角点の下から崖の淵までの間には三ノ池の跡がある。湿ったくぼみにはシダが密生している。

ここより正面に富士が望めることは言うまでもないが、眼を転じて背後をふりかえれば、雨畑の山遠く、雄大なる赤石岳の連峯が望める。

やがて下山の途につく、再び本社の前へ引き返しそれより裏参道を下る。