袈裟掛松より麓まで、あと僅かに七丁。北麓登山口の角瀬の町は指呼の間にある。足の痛みを我慢しながら降りる中、道の傍らで休んでいる老婆と連れの青年がいた。青年は、しきりに老婆の足をさすっている。

聞けば老婆は八十五才、青年はその孫であるという。今年の春のことであった。青年が医者にもみはなされるような大病にかかった。老婆は一心に七面大明神に祈願した。そして、若し、孫の命が助かることならば、せめてもの八十五才のこの足で、必ず七面山へお礼参りをする、と誓願を立てた。

老婆の祈りは必死であった。若し、命が取り替えられることならば、どうか孫の命と取り替えてくれ、と祈った。祈りは明けても暮れても続けられた。所が、まもなく医者も目を見張るほど、さしもの大病も薄紙をはぐように日に日によくなって来た。奇蹟が現れたのである。

七面大明神の霊験は、老婆の慈愛と祈りに感応して孫の体の上に示されたのである。

青年は元通りの丈夫な体になった。青年は自ら七面山へ御礼参りを発願した。この時、老婆は家族の止めるのも聞かず、

「御利益をうけたお前が、お参りに行くのは当然である。然し、御願を立てた私は、なおさら行かねばばらない」

と、がえんじなかった。

七面山五十丁の坂、登りにも降りにも、老婆は老いたる細い足で歩き通した。青年が背負うとすると

「七面さまにささげた命である。そしてこの足は七面山を登ると誓った足である。生きているだけでも有難い。足のある限り歩るかせて頂かなければ、私の心がすまない。丈夫になったお前と一緒に、お礼参りが出来るのが嬉しい」

と語ったという。

老婆の孫を思う慈愛の心、青年の老婆を思う孝養の心、そして二人の純なる信仰心・・・・・・・・

鈴木さんも私も思わず目頭が熱くなるのを覚え、この二人を残して先きへ行く気にもなれず、一緒に降りることにする。

所が、老婆は精根つき果てて起き上がることすら、やっとのことである。すかさず鈴木さんと青年が老婆の両脇を抱え込んだ。背負って行くのは、いとたやすい。然し、歩き通そうとして此処まで来た老婆の心は尊ばねばならない。老婆は、逞しい二人の青年に支えられ、一歩一歩足を引きづるように歩き始めた。然し、それでも、けわしい狭い参道では三人並んで歩くのは容易なことではない。麓まであと数丁・・・・・・・・もう一息、もう一息、と励まし合いながら降りて行く。

老婆は感謝の涙をたたえ、始終お題目を唱えながら最後の力をふりしぼっていた。そして遂に、北麓の朱塗りの大鳥居に到着した時、老婆は感極まって泣きふした。そのそばを一団の若い人達が、お題目も高らかに登って行った。それを見送りながら青年が言った。

「私もまた登りたい」

今が今までの疲れも忘れて、青年の瞳は輝いていた。



安住坊より、七丁目の日朗上人袈裟掛松の休憩所まで十二丁。遙か下に流れる春気川を見降ろす景観は素晴らしい。然し、

「登山は登りよりも、降りで足を痛め易い」

という諺もあるとおり、山頂よりこの辺まで、あの急な坂を下って来れば、降りるに勢いづく体を、転ばないように支える爪先や、膝頭のあたりが痛み出してくる。

それを我慢して行く中、やがて日朗上人が梢に袈裟をかけて休まれたと伝えられる袈裟掛松の休憩所に出る。

松は亭々として聳え、枝は鷹の翼のように上空高く広々と拡がっている。


(※昭和35年発行当時)


さて、次の坊は十九丁目の安住坊、明浄坊よりは十一丁である。二十八丁目あたりで富士川・早川・春気川が眼下に見える。

程もなくツツジの名所へ出る。裏参道は全体にツツジの多い所ではあるが、特に、この辺り一帯には人里に見られない珍しいツツジの花が咲くという。

やがて、遙か下の方から太鼓の音が聞こえる。懐かしい天鼓の法音・・・・・・・

耳をすませば音はだんだん大きくなってくる。鳥のさえずる声しか聞こえない。七面山には、太鼓の響きのみがトウトウとして全山にこだまし、天地をゆすぶり、そしてすべての人々の心をゆすぶる。

邪悪な者には折伏の毒鼓となり、正義の者には法楽の天鼓となる法華の太鼓、山中、これほど力強く思われるものはない。

「御苦労さま!!」

と元気に挨拶を交わしながらすれ違って行ったが、この登る人々の姿こそ、昨日の自分達の姿を見るが如くであった。

全身汗にまみれ、交互に唱える題目の声も力強く、目も生き生きとしている。けわしい山腹を延々長蛇の列をなして登り行く白衣の一団・・・・・・・・七面山には余程登りつけた人々であろう。撃鼓唱題に足並みをそろえ、一糸乱れずグングンと登って行った。

間もなく道は杉林の中に入り、表参道のように蛇行しはじめる。この辺りより安住坊まで、そう遠くはない。行くほどに杉の木立ちから安住坊の軒端が見える。坊のそばには見上げるような栃の木がウツソウとして繁っている。天然記念物である。

住職水谷是定上人の語る所によれば、

「この栃の木は日朗上人手植の木とも云われ、廻りは目通し二丈六尺。九月の大祭前には、宮原・小原島・本建・五箇・硯島の六ケ郷の信徒が総出して、毎年持参のワラで栃の木と影嚮石のシメナワを三十人がかりで作り、昨年のシメナワと取り替えて、次の年の大祭までの安泰を祈念する。

この行事は宝暦九年より連綿として伝えられており、また大正十三年よりは毎年、これらの信徒によって、五十丁の参道が十一区に分けられて修理されている」

ということであった。




(※昭和35年発行当時の話)