御来光の遙拝がすめば、直ちに朝の勤経が始まる信徒が参拝している間、各部屋には食膳が並べられる。朝食は六時三十分。これがすみ次第、信徒は下山を急ぐ。あとには二時間に亘って隈なく掃除が始まる。
その頃、鈴木さんと私が別当所へ挨拶に行くと、来客と歓談されていた。別当遠藤上人は、待ちかねていたように私達を迎えられた。来客は東京新宿の野本起会女史、旧知の間柄である。
「ここでお会いするとは奇遇ですね」
と、互いに久濶を叙すれば、別当上人も温顔をほころばせながら、
「不思議といえば七面山にとっても、今まで曽ってない不思議なことが起こった・・・・・・・。恐らく本佛釈尊の佛意、七面大明神の神意のしからしむる所であろう」
と前置きして、つい一カ月前、即ち本年八月十五日、釈尊の御仏舎利が七面山に納められたことを告げられた。
思わず、私は自分の耳を疑った。そして三度聞きなおし、念を押し驚倒歓喜せずにはおれなかった。
七面山頂、御仏舎利の奉納・・・・・・・・・これはただ事ではない。由々しき法界の動きを現わしている。しかも本年八月十五日と言えば盂蘭盆の当日であり、また第二次世界大戦終結十五周年の記念日ではないか。将しく久遠の本佛釈尊の佛意と、末法万年法華経擁護を誓願される七面大明神の神意とによって、いよいよ大曼荼羅法界の動きが円熟し、ここに本佛と守護神の関係が事相に顕現され、これを中心として世界の浄仏国土化が開けて行くのである。
日頃より私は、身延山寺平の台地に仏舎利塔の建立と、これによって仏舎利塔と西谷の宗祖御廟塔とが東西に相い面奉し、本佛釈尊と上行日蓮聖人の関係を事相に顕現して、これを中心とする国際的大身延の建設と、更には身延大学の移築に伴うアジア仏教大学の建設を標榜していた。それだけに、七面山頂の御仏舎利奉納は、全く佛意であり神意によるものと歓喜せずにはおられなかった。
別当上人は静かに座を立ち、床の間の御厨子の内より、うやうやしく御仏舎利を奉持された。合掌・三帰礼拝、仰げば小塔のパゴダは高さ八寸ばかり、燦然として黄金の光を放ち、その中の水晶の珠に二粒の御仏舎利が納められている。
つい三日前のこと、東京身延別院住職藤井教雄上人も、これを拝して感涙を押さえながら、
「曽って法隆寺五重塔の御仏舎利を拝したことがあったが、その御仏舎利とこれと全く同一のもの」
と讃嘆されたという。
聞けば、この御仏舎利は陸軍中将二宮治重閣下が奉持されていたもので、中将の遺言によって、貞女夫人が七面山へ奉納されたものという。
蓋し、二宮中将奉持の御仏舎利といえば、中将が満拓総裁の当時、満州国の皇帝と総裁、並に関東軍司令官山田乙三陸軍大将、等々の錚々たる一国の指導者と共に、満州国の鎮護として、延いては世界の平和実現のために、仏舎利塔の建立を発願し、昭和十六年四月八日、首都新京郊外南領の地に、国をあげて地鎮祭まで厳修した所の、由緒ある御仏舎利である。
当時、満州一国のみならず、朝鮮・北支・中支・南支、そして台湾に於いても、近衛総理中心とする軍の要路者によって、支那事変を速やかに収拾せしむべく、仏舎利塔の建立が推進されていた。
然し、近衛内閣は倒れ、東条内閣が成立して、支那事変は第二次世界大戦へと突入し、仏舎利塔を中心とする戦争の終結と世界の平和を招来せんとした運動も頓挫し、以来、満州国鎮護の御仏舎利は、昭和二十年八月十五日の敗戦から更に丸十五年の間、秘かに二宮中将によって格護されて来たのである。
今その御仏舎利が中将の遺言によって七面山へ奉納された。時は将に人類の滅亡を意味する第三次世界水爆戦の戦雲を孕む、累卵の危うきにある。それを思えば、この御仏舎利の奉納には、更に意義重大なるものがあろう。のみならず、これによって七面信仰は、そのまま本佛信仰へと直結して行く。
この時、そばにおられた野本女史が、
「この御仏舎利は末代永遠に伝え、すべての人々に拝まれなければなりません。そこで、大塔の建つまでは、この小塔を安置する荘厳にして堅牢なる宝ガンが必要でしょう。若し、私にその宝ガンを奉納させて頂けますならば、先祖の菩提のためにも身に余る幸いと存じます」
と、感動に瞳を輝かせながら早速、宝ガンの設計は私に委任された。そして別当所では、既に七面山頂より世界平和が実現されるような、明るい大なる希望が満ちみちていた。
(※本文は全て昭和35年発行当時のことです。)