ついに日本国政府も重い腰を上げ、感染が顕著に広がっている7都府県に緊急事態宣言が発令されました。
医療にかかわるすべての人の懸命な働きによって医療崩壊することなく持ちこたえていますが、法的根拠をもって医療を強力にバックアップできるようになるため、「緊急事態宣言」は大きな意味を持つものと思われます。
国民全般へのメッセージ効果も大きなものとなるでしょう。
首相のリーダーシップに期待し、私も一国民として、極力外出せず、外出する場合はマスクして3密を避けて、こまめに手荒いを実行します。
幸運にも我が国は今のところ医療崩壊していません。
北海道、大阪、東京の各知事が大げさかもしれないけど、はやくからリーダーシップを発揮していたこともよかったと考えています。
それとたぶん、以下のような幸運もあるようです。
・ BCGワクチンをほぼ全員が摂取している
・ 非常に多くの人がマスク(体感だと通勤電車の90%ぐらい?マスクしてないと睨まれる!)をつけている
・ 国民の圧倒的大多数に手洗いをする習慣がある
・ 握手やハグの文化がない(から濃密接触になりにくい)
正確な仕組みは解明されていませんが、BCGワクチンを接種しているとコロナに対してもある程度は感染予防になる(可能性がある)ことが統計的に読み取れます。
もともと結核に対するワクチンですが、接種により白血球の活動(防御能力)を強化することがわかっています。
推測の域を出ませんが、もしかしたら、今回のコロナに対しても戦闘力が発揮されているのかもしれません。
いい意味での副作用(副産物というべきか)なのですが、「オフターゲット(当初の目的以外の)効果」というそうです。
また、BCGワクチンはフランスのパスツール研究所で開発されたようですね。
気を抜くと3密シチュエーションで騒ぎたくなるのが人の性なので、まだまだ予断は許しませんが、梅雨ごろには収束するのではないかと思います。
だからこそ、いまこそ、今度こそ、重要局面だと気を引き締めて、いっそう外出を控えたいと思います。
※先週から、外出するときは、3月のころよりもさらに人ごみを避けて、自転車で移動するようにしています。
有効な治療薬および効果的な投与の方法もわかってきているし、ワクチン開発も有力な候補が絞り込まれるなど明るい兆しもみえてきました。
SARSのころから研究されていたやり方ですが、罹患して治った人の血液から抗体を取り出す手法(血液製剤のためひとりの輸血から2人分程度しか作れない)も効果があるようで、医師が推奨し、患者本人が納得すれば、リスクをとっていくのも必要なのかもしれません。
危機が収まったら、あぶりだされた問題点の改善も大切ですし、きらっと光ったプラスの面(今後テレワーク革命が起こるでしょう)にも目を向けてみたいと先走ってみたりしてますです。
おっと、今は自粛です、気を引き締めましょう。
中国武漢から感染拡大し世界的パンデミックとなった新型コロナウイルス(SARS COV 2)感染症によって、毎日、想像を絶する数の重症患者が発生し、その中から数多くが死亡していることがニュースで伝えられています。
いまだわからないことも多い感染症ですが、いくつかわかってきたこともあります。
RNAタイプのウイルスで、呼吸器から侵入し、ウイルス増殖による毒素とそれと戦う自己免疫活動のダブルパンチによって肺胞が酸素を取り込めなくなり、呼吸不全になるそうです。
重症化すると、細菌感染も起こりやすくなり、合併症で死亡する例もおおいのではないかと懸念されているようです。
特効薬のないウイルス感染症の場合には、栄養補給の点滴や酸素吸入などの対症療法が基本となります。
※本来持っている自然免疫に頼る原始的な治療ですが、特に若い人は回復力が高いようです!
感染して発症した場合、できるだけ早期に治療を開始すると回復する可能性が高まります。
医療が崩壊するかどうかが致死率の大きさを決定することは明らかで、最後の防衛ラインとして医療崩壊を起こさないように、強いトリアージを実施するなど医療リソースの有効利用やキャパシティ拡大と同時に、人と人の接触を極力減らして感染拡大のスピードを落とさなければなりません。
ただし、イタリアではすでに新規感染者が減少(死者数は非常に多い状況ではあるけれど)しはじめています。
生き地獄としか言いようのない悲惨な感染急拡大の状況であったと思うが、いつかは自然に収束する(罹って治れば免疫がつくから)ことを意味します。
人の生きる力(もちろん個体差はありますが、ここでは種としての「生存力」のトータル)はすごいと思います。
3月から家にいる時間が長いので、読書をしていますが、新規購入するには書店にいかなければならないので、昔読んだ本をかたっぱしから読み返しています。
※KINDLE使えばいいのですが、紙の出版物が好きです。
実を言いますと潔癖症なところがあるので、新刊本でないと気持ち悪いと感じます。
「新刊本」という概念にこだわっているのだと思います。
もしやオブセッション(強迫観念)を通り越して病気かも!?です。
もちろん、新刊本だって黴菌・ウイルスという視点からは汚いのはわかっているけど、古本は気持ちの問題で身構えてしまいます。
図書館の本は、不思議なもので、図書館で読んで、帰りがけに洗面所で手を洗えば平気です、たぶん図書館が好きだからですね。
さて、本題ですが、読み返したのは懐かしい書物ばかりで、青春時代を思い出したり、今よりもっと元気だった時代に感じたことはなんだったか考えてみたり、けっこう充実しています。
でも、しかし、もう一度読みたいのに、どうしても見つからない本が3冊あります。
① 「教養としてのキリスト教」
(講談社現代新書 34)
村松 剛 (著)
内容紹介
西洋の歴史・文化を理解するカギとして、キリスト教精神のもつ重さはあまりにも大きい。
本書は、キリスト教を知るための基点の書として、聖書の成り立ちから、人間キリストの愛と苦悩、キリスト教精神の本質とその歴史的軌跡までを解き明かした。
知識から共感へ、さらに混迷の中から生の支柱を索める現代人にとって、意義深い〈1冊の書〉である。
人間キリストの苦悩――イエスがエルサレムに行ったとき、学者、パリサイびとが、姦淫の現行犯を押えられた女をつれてきたと、「ヨハネによる福音書」は書いています。
「師よ、〈中略〉モーゼは律法に、かかる者を石にて撃つべきことをわれらに命じたるが、汝はいかに言うか」〈ヨハネ・8章〉。
イエスは身をかがめて、指で地になにかを書いていた。
人びとがさらに問い詰めると、イエスは身を起こし、「汝らのうち、罪なき者まず石を彼女に投げよ」と言い、ふたたび身をかがめて、指で地にものを書いたといいます。
この描写は美しい。指で地にものを書くということが、ユダヤ教のなんらかの習慣になり、旧約伝承なりを暗示するのかどうか、じつはいまのところわかってはいません。
ここでは、イエスの困惑と苦痛とを、察すれば足りるのです。ここの箇所は福音書のなかでも、生きた人間としてのイエスを、もっともあざやかに感じさせる叙述の1つでしょう。
――本書より
目次
●イエスは実在したか
●当時の資料はなにを語るか
●『新約聖書』の成り立ち
●『旧約聖書』はどんな意味をもつか
●イエスはだれの子か
●キリスト教は愛の教えか
●人間キリストの苦悩
●復活の意味するもの
●ローマへの道
製品情報
製品名 教養としてのキリスト教
著者名 著:村松 剛
発売日 1965年03月13日
価格 定価 : 本体740円(税別)
ISBN 978-4-06-115434-6
ページ数 245ページ
シリーズ 講談社現代新書
※イスラエルとヨルダンを旅行すると決めたときに、下準備として読んだ本です。
なお、近所だと墨田区と江戸川区の図書館に蔵書があるのでいつでも読めます。
② 「群盗」
著者 シラー 作 ,
久保 栄 訳
通し番号 赤410-1
ジャンル 書籍 > 岩波文庫 > 赤(外国文学/ドイツ)
刊行日 1958/05/05
ISBN 9784003241011
※ドストエフスキーを読んでいて、たぶんスノッブな登場人物たちの会話のシーンで、19世紀のロシアの教養人にはフランス文学とドイツ文学の素養が求められていて、特にシラーは必須の教養らしいと描かれていたので、同じ空気を少しでも深く理解したいと思い立ち、手に取ってみた記憶があります。
私も若かったからか、主人公カールのセリフに胸を熱くしたものです。
この物語を初めて読んだのは新車を買ったころで、何冊かもって房総の海辺をドライブして読んでましたね。
③ 「サド侯爵の生涯」
澁澤龍彦 著
内容紹介
無理解と偏見に満ちたサド解釈に対決してその全貌を捉えたサド文学評論決定版。この本をぬきにしてサドを語ることは出来ない。
〈解説〉出口裕弘
中公文庫(判型文庫判)
初版刊行日1983/5/10
ISBN 978-4-12-201030-7
※私が思うに、澁澤作品の最高であり、もう思い込みたっぷりで渾身の伝記作品として、私の初めてのパリのガイドブックとなりました。
後年になってからのことですが、映画「クイルズ」で描かれたサド侯爵がわりと伝記のとおりだったと記憶しています。
澁澤龍彦全集第5巻に収められているため、いつでも読めるのですが、なにしろ物理的に分厚くて、寝ながら読むには重いので、書斎に飾ってあります。
文庫本のほうが読みやすいので、ぜひ復刻してほしい一冊です。
この3冊は、納戸の段ボールにうもれているか、捨ててしまったか、いずれかだと思います。
軽く探してみたのですが、みつかりません、どこにかくれてるんでしょうか。
いずれも絶版の書籍で、見つからないことで読み返せないわけですから、まことに惜しいことをしました。
<過去に記事にしてるけど、備忘メモの意味もあるので、再度掲載>
新約聖書はヘブル語やアラム語ではなく、なぜギリシャ語で書かれているのですか。
イエス様が話された言葉はアラム語で、弟子たちはおもにヘブル語でしたので、「なぜギリシャ語?」というご質問は大変興味深いものです。
新約聖書がおもに弟子たちにより書かれたのは紀元50年から紀元120年とされていますが当時の聖書の世界を考察する必要があります。
すなわち、舞台背景はギリシャ・ペルシャ時代からローマ帝国へと転換していましたが、文化的には、それ以前におけるマケドニアのアレキサンダー大王による東方遠征の影響を受け、広大なヘレニズムの世界が展開されており、ギリシャ文化とペルシャ文化の融合が進む時代でもありました。ローマ帝国の言語はもともとラテン語でしたが、多くの地域においてはラテン語よりもギリシャ語が公用語あるいはlingua franca(リンガ・フランカ--言語を異にする人々の間で共通的に使用される外国語)としての地位を保っていました。またユダヤ人自身もこの世界に拡散し、ギリシャ語しか解せないユダヤ人もいましたし、ヘブライ語を読めないヘレニズムの世界(ギリシャ語圏)の在外ユダヤ人のため旧約聖書(ユダヤ教聖典)のギリシア語訳聖書、いわゆる七十人訳聖書((Septuaginta--セプトゥアジンタ)も紀元前3世紀中葉から前1世紀の間に成立していました。
弟子たちは聖書の教えがひとりユダヤ世界だけに閉じ込められることなく、より広い地域で読まれ、確かに後世に伝えるためにギリシャ語を選んだものと思われます。すなわち、現代では学術論文やグローバルな資料が英語で著されるようなものと考えてよろしいでしょう。なお、聖書に使用されるギリシャ語はKoine Greek(コイネーギリシャ語)といい現代ギリシャ語の基礎となっています。コイネーとは「共通の」という意味です。
(参考文献: 大辞泉、ブリタニカ国際百科事典、Website:wiseGEEK)
「西神戸教会」(日本基督教団)ホームページのQ&Aより
<備忘メモ以上>
競馬って、不要不急だけど、無観客のネット販売のみならば、密閉でも密集でも密接でもないとおもいます。
リアルタイムの映像コンテンツに賭け事が掛け合わさると、かなり優良なエンターテインメントに仕上がりますね。
無観客に慣れてくると、これもいいんじゃないかと思えてきます。
昔のレースもいいけど、オンタイムのライブがいいんです。
同様に、ITを活用して医療の世界もリモート診療を解禁したらいいと思います。
コロナの初診患者が病院いったらいずれどこかで院内感染になるに決まってますからね。
100%防ぐなんて絶対に不可能です。
なにもかもが無理なら、感染症と生活習慣病から始めたらいいと思います。
ひとりごとですが、、、
・ このウイルスを甘く見ないほうがいい。
・ このどさくさに、遠隔医療の先進国の成功例を研究するのもよし。
・ 明日はブルドックボスが勝つ!!
・ 桜の女王はマルターズディオサ!!!
※注意:東京スプリントと桜花賞の予想です。
本日、ブリリアントカップの出走表をプリントアウトして、MX2でテレビ観戦していたのですが、1頭軸5頭流しで予想したところ、馬券圏内の3頭とも印付けてました。
主軸はヒカリオーソと予想しましたが、鼻出血で競争中止となってしまいました。
このお馬さんダービー前も花出血して羽田杯回避してたので、体質なんですね、また元気になってほしいと願います。
6頭BOXなら万馬券GETだったのにぃ♪
馬券かわなくても、「軸がすっこぬける」ところは過去何度も繰り返したハズレ予想とあまり変わらないですね。
【編集後記】
ブリリアントカップの出走表に手書きで印付けた様子を後日スキャンしてアップします。


