助け合い | nishicapiのブログ

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相互扶助というシステムについて、年末年始の小旅行で考えた。

保険制度の基本構造でもある。

借入とは違う制度である。

 

漫画カイジのセリフ「金は命より重い」をテーマにTVバラエティ番組のゲームになっていた。

これはこれで現実なのだが、やはり金より重要なものはあると思う。

 

日本も敗戦後や大震災には人道支援を受けた。

恩義は忘れてはならないだろう。

 

シリアやイエメンなど紛争地域での人道支援は文字通り命がけである。

緊急の支援に理由(宗教政治政局)はいらないだろう。

 

一方で、他国の援助を受け続けて発展した国・地域を見たことや聞いたことがないというのが実感である。

結局はそこでくらす人たちの自助努力以外に貧困を脱することはできないのではないだろうか?

※魚そのものではなく魚の釣り方を教わる(先進国が上から目線で教えたって伝わらない)人たちがそれなりの努力と時間をかけて手にする豊かさだけが本物のような気がする。

 

まして現在はAIやITを使えばチャンスは無限だ。

何も持たないほうが過去の無駄遣いに押しつぶされることもないので、少子高齢化にたいして問題解決を先送ることしかしない日本社会よりも圧倒的に可能性が高いように感じる。

ちょうど世界の潮流としてインドのマイクロ発電システムと電子マネー経済が先進国に逆流する現象について新聞記事になっている。

 

緊急の支援と長い目で見た経済的豊かさが両立しない矛盾についても各地の紛争の根っこの原因が貧困であることを直視せざるを得ないであろう。

※幸福なのかどうかは別にして、貧しいゆえの選択肢の少なさは過酷だと思うから、ある程度の絶対的貧困からの脱出(水・栄養・薬・最低限の衣食住)については積極的に手助けしたい。

 

 

でも、隣人愛とはいうけれど、お隣さんとか家族ほど嫌なものはない。

満員電車で他人が間近に存在することだけでいらいらする。

ストレスホルモン大量分泌で血圧上がる。

※「痛」勤ほど無駄なものはない、いいことなんかなにもない、よくて痴漢に間違われるぐらいだね、冤罪は許せない。

 

ボランティア活動も遠くの人たち(海外や遠方)には募金したりするけど、身近な人なら多少困っていても自分で何とかしろとか心の中で思っている。

金銭的な悩みを相談されても基本的には聞き流すだけ。

 

 

私自身がが平時に人殺しすることは考えにくい(まあ自信家なので重大事件の犯人にはならないだろう)が、身の回りで事故とか事件にはかかわりたくないというエゴは正直ある。

公共の福祉と個人の自由はどうにか折り合わせないと不快な生活を強いられる。

 

奇抜なアイデアが革新的であったりするし、永遠に折り合わない気もする。

役所は基本的にいらないと思ってるけど、裁判所には公平でいてもらわないと困るだろう。

無駄のない世界は存在しないだろうから、気持ちでは理想を夢見るけど、ひとつでも行動によって解決できる問題をひとつずつ解決しながら持続可能な豊かさ(らしきもの)を追い求める。

 

中年になると、人間関係の90%は仕事関係になるものだから、楽しく明るく笑顔で付き合える人と取引するように心がけていたら、8割程度は好きな人(どちらかというとというレベルかもしれないけど!)と仕事している。

オフィスにおいしい手土産持ってきてくれる人は大好きだ。

 

チョコレート:戌年の新年記念BOX