キリスト教徒ではない私が、
エルサレム聖墳墓教会のイエスキリストの棺、
ローマ聖ピエトロ大聖堂のペテロの棺(たまたま特別公開中)、
最も大切なカトリックの2大聖地を訪れている。稀な日本人であろう。
聖墳墓教会のイエスの棺に額をつけて感激のあまり涙を流している老婆の姿に感動を覚えた。
敬虔なカトリック信者の女性と交際する経験もした。たぶん間違いなく愛していた。
理解と共感があるのに信者ではないとはどういうことか、真剣に問わなければならない。これも聖なるものに対するプロテストのひとつに数えてもらえるのだろうか(そもそもが正統ではないのだけれど)。
考古学的な意味での正確な事実の問題ではない。
「科学的」に聖遺物かどうかを問題とはしない。そこは信者が信じているならそれでいい。
仏陀の遺骨をストューパ(塔)に収めた舎利だと素直に信じている。それが秘伝であり真言を唱えることで感じるのである。
神々の前で柏手を打つことで神聖な気持ちを表す。
神話的な解釈に納得している。
セックスについてもタブー視しない。思考はどこまでも自由だ。表現は自由だ。そして議論も自由だ。
自由な思考の結果、美しいのは、愛と性欲の境界があいまいに溶け出し一体となる感じはドーパミンとオキシトシンが大量に分泌される気持ちいいセックスの絶頂の射精の瞬間なのではないかと主張したい。
哺乳動物でありチンパンジーと共通の猿の子孫である私は、きれいなおっぱいが好き。生殖に神秘を感じ、生き物を戴くことで生命を維持する、生殖の連鎖、食物連鎖、循環に感謝をこめる。
その考え方が決して認められないことは理解するし、キリスト教信者の中での信仰も尊重したいけど、どんなにその正当性を説かれても私は決してキリスト教信者にはならないし、拷問されようが殺されようが、それこそ自分の性欲にたいして殉教する覚悟はある。
同時に、キリスト教徒が禁じる盗むなかれ、殺すなかれ、ぐらいなら、いわれなくても結果的に同じような規範で行動している。
若いころ(未成年であった)万引きしたことは認めるけど、人殺しを想像することはあっても実行することはない。
この道徳的な生き方の根源はなんなんだろう、不思議だ、法律なんて守る気もないのに。
※私の規範では、信号はまもらない、なぜなら、信号無視するバカがいたら青信号でも死ぬのは歩行者である事実が揺るがないからだ。必ず安全をこの目で確かめる。間違いなく安全なら赤信号でも横断歩道を渡ることもある。
盲者(象徴的に差別的な発言をあえてしている)はルールと相手の善意を信頼するしかないんだろうけど、実際にはきれいごとだけではすまない。
脱線ついでに、信用の積み上げについて、グレートチャイナのフィンテックについて考察したことを述べておきたい。
空前の便利なキャッシュレス社会が生まれた前提に、他人がまったく信用できない社会があったから、情報公開と「良心的な」決済行動の積み重ねがクレジットになり、マルチな監視により便利な決済システムが構築され、さらにビッグデータが蓄積されますます便利になる。物乞いすらもQRコードでできる。
強欲により社会は発展し、楽しく便利な新しい付加価値が生まれ、ますます楽しくなる。
こんなにも効率的な集団は発展するにきまってる。
思い出すのは、私が20代のころは紙の株券を数えてたんだから、果てしなくばかばかしく無駄なことしてたよ。3千億円分の株券の現物を火をつけたり破いたりせず真面目に指に滑り止め塗って懸命に数えたことは、今振り返るといい思い出だけど、当時は楽しくなかった。今ならローションか潤滑油しか塗りたくないけどね、それも経済的自律がなければ言えないセリフだ。自由は経済的自立のうえに成立する事実には注目しておきたい。
信用の積み上げについては、多くの出会いに感謝している。
心の奥底から学びたい気持ちをもって、体系的に専門的に実務を積みながら学習し、客観的に成果を測定するために試験をうけて合格することもできた。
住宅ローン(これも信用創造)を利用して快適な住宅の所有権も手に入れた。
生活に必要な収入と当面の貯蓄はあるし、投資も順調である。
無駄遣いはしないから本当に欲しいものは時間のずれはあるけどあきらめることなく手に入れることができる。
恵まれてるから人生に感謝するようになったのか、人生に感謝しているから恵まれたのか、鶏と卵といっしょで前後はわからないけど、成功と挫折を繰り返して、ますます自信に満ちて、映画や音楽そして絵画鑑賞もできるし、読書も好きだし、グルメも望みどおりだ。
意外なことだが、グランシャンパーニュコニャックまたはDRCのブランデーや40年物のスコッチも間違いなくうまいけど、風俗帰りに飲むチェコのピルゼンウルケル(たった550円ぐらい)よりもうまい酒をいまだ知らない。
たぶん私は多幸症で幸せを感じる力が強いんだと思う。
身近な人間が殺したいほど憎いのに、怒りでかっとして自暴自棄になりかけることもあるけど、それでも恥を上塗りながら「真面目に」生きている。
役立つ処世術というべきかもしれないが、人生哲学として、何もかもすべてを欲しがるものではないと考えている。
際限がないし、今あるものの価値って小さくない。
人生わるくない、さらにいえば、安倍一強政治だってそれほど悪くない、もちろん不十分だしもっと筋肉質にできるはずだけど、失業率は低く求人は多く最低賃金だって大幅に引きあがった。プラスの面にもきちんと正当に光をあてたほうがいい。
ついでに言えば、人類のその行き着く先は戦争しかないと思うけど、そのまえに地球の生態系が崩壊しているかもしれない。北斗の拳の世紀末がいがいと正確なのかもしれないと思う。
守りたいのは、クジラが群れ飛ぶ美しい海原、ライオンや象が過酷だけど豊かな大自然でありのままに生きて、トロフィーまたは象牙目的のみで殺されることのない世界だ。
弱肉強食の奇跡のバランスが生み出したほんの一瞬の光景に美を見る。
人間のエゴが作り上げたルールに縛られている姿に醜悪と腐敗を感じるセンサーだけは失いたくない。といいながら、保身で裏切るのもしかたのないことだと身に染みて思う、情けないけど、どこまでも強くあり続けるなんてできない。
そんな苦しい人生にもがきながら、強く正しく美しく生きる姿に生きた観音様を拝む気持ちになるのである。
婚活で仕事のできない男は顔とおっぱいしか見ていないらしいけど、男は間抜けだよね。
他方で、理系の男は論理的に目的意識をもって次のデートを誘い、相手を思いやるから婚約に至る確率が高いそうだ。大きなお世話だ、興味ない。
おせっかいをどうとらえるかによるんだろうけど、おせっかいは嫌いである。
さらに踏み込むけど、AV男優はうらやましい(ある奇跡の1本に出演なら)と同時に、絶対無理(残る99本)だと思うけど、それをやり遂げてるんだから、本当にすごいと思う。金払うから汁男優やってみたいよ。
パンドラの箱を開けたらありとあらゆる悪いことや災厄がとびだしたが、最後に希望が残った。若き日に訪れたギリシアのエーゲ海の太陽は心地よかった。人生は美しいと思う。
※この感覚は「レヴェレイション=黙示録=アポカリプス=神の啓示」に近いのかもしれないと考えている。
「キリストの誕生」は感動的だ。
どんなに現実に力はないけど愛を説き続けるイエスに共鳴しても、キリストの復活を信じないからキリスト教徒ではないのである。
遠藤周作のいう弟子の代表ペテロは、弱い信徒みんなの代表だという見立てに賛成するし、原始キリスト教団が迫害の中で福音を解き明かし続けた、「啓示」した情熱も美しいと感じる。
対して、イエスの家族ヤコブが、キリスト教団の中で伝統的ユダヤ教徒の代表なのであろう。伝統を重んじながらキリストを信じることは自然なことだったのではないかな。
さらに殉教者シュテファンから聖パウロの神学が世界宗教としてのキリスト教会の飛躍大躍進という理解(あるいは整理)も納得した。
山上の垂訓の丘で感じたすがすがしい希望も、その後体験した奇蹟の出会いも私をして人生は生きるに値するものと感じさせてくれた。
※イスラエルガリラヤ湖畔の「山上の垂訓の丘」と伝えられる高台からの一枚
それでも私はキリストの復活を信じないだろう。
生まれ育った環境がそうさせたのだろうが、普段の生活に身近な神仏を尊び、輪廻と転生を信じるのである。
百万回転んでも傷ついても、百一万回目は今日かもしれないと何度でも立ち上がる生き方を選ぶ愚かなタイプの人間なのだ。「もしかしてだけど」なんて思考法は報われないというか、むしろコストばっかりで生産性低すぎるだろ、でもわくわくどきどきってそこからしか生まれないと思うんだ。
この美しい瞬間が未来永劫回帰する、それを復活とよぶなら、そう信じる、自然崇拝生き物の輝く息づかいを一元的に愛する耽美主義者である。
野鳥観察が好きで、近所で鴫を発見した。美しい夕暮れだ。
なっさけない 身にも哀れは知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮れ
今日は良い日だ。

