死海のほとり ~ 遠藤周作 | nishicapiのブログ

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土曜深夜のテレビドラマで「真昼の悪魔」(フジテレビ)をやっている。

原作は遠藤周作だ。

サスペンス色を強調して原作の匂いは薄まっているようだが、かなり面白い。

 

 

春の息吹を感じる今日この頃、庭いじりをして毛虫に刺されて手がかぶれて痛痒く、ぶつぶつ赤く腫れあがっている。たぶん茶毒蛾だろう。

 

さて、遠藤周作の「死海のほとり」は、苦境の中で、もがき苦しみ、救済を必死で求める私自身が今読むべき作品であった。

「死海のほとり」は2つの作品が交互に展開される。

現在小説家の「私」とイスラエルで暮らす大学の同窓「戸田」の邂逅、そして戦争中の学生時代を時をまたぎ重層的に描く「巡礼」パートが7章。

イエスキリストの処刑に関係した人々の視点から真実のイエスの姿を描こうとする「群像の一人」が6章。

なお、「群像の一人」は、ひとつひとつの章がほぼ独立の小説になっている。

 

中でも「知事」はすばらしく、新潮文庫で読んでいるのだが、250ページの台詞に涙を流した。

 

全体として難解だし、かなり長いけど、じっくりと読んでみて、じわり心が燃える作品なのかなと思う。

解説はカトリック司祭が書いていて、わかりやすかった。

 

小説の記述には私も実際に訪れた場所がたくさん出てくる。

以下にゆかりの場所の写真を掲載する。

 

第5章で描かれる死海のほとり(99年10月撮影)

 

 

第9章で訪れるガリラヤの湖(ティベリア)

 

山上の垂訓の丘から見下ろすガリラヤ湖(ここは小説でも白熱した場面になっている)

感動のラストシーンでも「幸いなるかな♪」のフレーズは現れた。

【追記; 何もしなかった、何もできなかった、奇跡を起こせもしなかった、ただ愛するだけの人間を描いていて、それは素直に心にしみたのだが、同時に宗派間の解釈の違い(ただの嫉妬なのかなと一部感じたりもするけど)で殺しあっても来たわけで、人間を歴史の中で集団として眺めると、業が深い存在だとも同時に感じるし、この矛盾を解決する術を私は知らない。

問題が起こるのは一度きりではなく繰り返し繰り返しその都度姿や大きさを変えて立ちはだかるのが人生であり、そのときに寄り添う人がいると感じることで癒され救われることもあるのだろう(すくなくとも可能性は否定できないだろう)とだけは思った。】

 

思い出深い旅で、ガリラヤ地方を巡った日はナザレの教会が運営するホステルに泊まって、中庭から満月を眺めた。

今年一年は遠藤周作の作品を読みまくろうと思う。

 

経済的には何不自由はないが、もう人生の下り坂、それも急な下り坂、崖崩れ、それらの運命をそのまま受け止めるのが人生なのかな。

それでも四季は巡りまた春がやってくる。

時は今は3月、東京では杏子の花が満開。

 

今月、食べログのマイページを充実させた。

料理人でもなにのに、美食にかなりの時間と金額をかけてきたが、一向に満たされない。

好きなんだからしかたないけど、欲望は際限ないものだ。

むしろ、まずいもの食ってる時が、そう、噛みしめてる時こそが、生きてることを実感する。

とかいいながら、フランス料理レストランには定期的に通っている。