タカヨシと別れて出勤したミキは心なしか晴れやかな気分だった。
今の状況が変わる訳ではないが、少しくらい良い事がなければやってられない。
あの夜の事と今日の事を考え合わせてもタカヨシの本心は分からないけれど、少なくとも何かしらの前進だとミキは感じていた。
今夜の仕事が終わったら連絡してみようかな、そう考えると胸が波打つのが分かった。
ミキはロッカー室で接客用の服装に着替えた。
露出が多過ぎず、それでいて色気を醸し出す衣装を身に着けるのが、この店の方針らしい。
だがミキにはそれがどの様な物かは今一つ理解出来ず、先輩キャストの服装を見てそれらしい物を選んで着ていたが、おとなしめな物を選びがちだった。
そのことを含めてハンプティ・ダンプティみたいな体型の店長にネチネチと嫌味を言われるのが日常であった。
売り上げが店長の成績に繋がることは理解出来るが、もう少しキャストを大事にしてもいいと思うミキであったが、他のキャストはニチャニチャとした作り笑いを浮かべてセクハラ紛いのことをする店長を軽く往なしていた。
わたしは世渡りが下手なんだろうなと考えながらミキは、控え室で携帯電話に夢中になっている他のキャスト達の中で、この時間が早く過ぎることを願っていた。
藻蔵のタクシーで宇佐木と檜隈が、BAR Preacherに着いたのは深夜を大きく過ぎた頃だった。
二人が降りるとタクシーはスーパーサインを回送表示にして走り去った。
宇佐木が店の扉を開くと黒いスーツ姿のゴリラのような短髪の大男が立ち塞がっていた。
「申し訳ございません。今日は貸し切りでございます」ゴリラは満面の笑みを浮かべで丁寧に頭を下げた。
その背後から声がする「楽田、大丈夫だ。その二人は私の客だ」阿蛭だった。
阿蛭の声と同時に楽田と呼ばれたゴリラがスっと左へ身を躱した。
「どうぞ、お入りください」楽田が軽く頭を下げた。
カウンターには阿蛭と祢津実の姿があった。
「楽田は身内みたいなもんだ。口は堅い。心配いらんよ」阿蛭が念を押す様に言う。
宇佐木と檜隈が中に入ると楽田は扉を閉めて、そのまま戸口に立っている。
「宇佐木君、瓢箪から駒な儲け話しだって?田貫の親父さんから連絡があったよ」カクテルグラスを手にした阿蛭が笑顔で問うた。
「そうですね。今回は割り増し料金も頂くつもりです」宇佐木が応えながら阿蛭の左のスツールに腰掛け、檜隈は宇佐木の左へ腰掛けた。
「是非そうしてもらいたいぜ。ここまでただ働きだからな」檜隈がボヤいた。
「一応は心配ないですよ。これがありますからね。一応はね」祢津実がボソボソと呟きながら右手のメモリースティックを見せた。
「ただね。セキュリティコードがあるもんでね。このままじゃ宝の持ち腐れなんですよ」祢津実がボヤいた。
「そんなもん、あんたなら簡単に解除できるだろ?」檜隈が訊く。
祢津実がタブレットにメモリースティックを刺して、画面を檜隈に向けて「桁も組み合わせもわからない。システムもわからない。お手上げですよ。ドラマみたいにキーボードをカチャカチャやって、ハイ解除って訳にはいきませんよ。まったくぅ」そう言うと眼の前のロンググラスの飲み物をゴクゴクと飲み干した。
「てな具合なんだよ」阿蛭が両腕を開いて肩を竦めた。
「誕生日とか、名前とか何かあるだろ?試してみろよ」檜隈が食い下がる。
「あのねぇ、何回間違ったらロックされるかも分かんないんですよ。そうなったら完全に終わりですよ、終わり。それくらい強固なセキュリティなんです。ここまで到達するのにも苦労したんですよ!」祢津実の苛立ちは専門分野で手も足も出ないプライドによるものだろう。
「待ってください」宇佐木が二人の言い争いを止めるように言う。
三人の視線の中で宇佐木の瞳が収縮し虹彩が薄くなり、過去へ記憶を遡り始めた。
然したる趣味もなく日々テレビを見ている男が思い付くパスワードは?
宇佐木の記憶は中山実を殺した時へと戻り、その情景が現実の様に脳裏へ浮かび上がった。
室内全体が映し出され、あの日あの時間が甦った。
中山実は頭に右手をついて寝転がってテレビの競馬中継に夢中になっている。
地方競馬のローカルレースだ。
顔の横に置かれたタブレットには地方競馬レース情報のサイトが開かれている。
壁に掛かった競走馬と口取りの紐を持つ中山実の写真の中の日付け。
スタートしたレースに出場している競走馬。
タブレットに映る競走馬の名前。
『Sunawtosisy』競走馬の馬名だ。
古代Howladeath文明の闘女神Thdesowが駆ると言われる紫色の躯に緑の立髪を持つ常勝馬の名だった。
宇佐木はその名前と日付けを祢津実に告げた。
「なんだ、そりゃ?」檜隈が口を挟む。
「おそらく彼が出資していた競走馬の名前です。馬主かもしれません。資金の出所はその秘密資金かもしれません」宇佐木が答えた。
祢津実は阿蛭と顔を見合わせてた。
阿蛭が頷く。
「じゃあ、入力しますよ。お馬さんの名前ねぇ。パーになっても知りませんよ」乗り気でない口調で祢津実がタブレットに入力をする。
タブレットの画面に文字が走り、英文の金融口座らしきサイトが開いた。
「ひゃあ〜っ!、当たりですよぉ!大当たりぃ!」祢津実が満面の笑みを浮かべた。
「幾らあるんだよ?」檜隈が席を立ってタブレットを覗き驚きの表情で眼を剥いて「これを全部いただこうってのか?」宇佐木に眼をやった。
「いえ、そうすると生涯、北の王朝派と反王朝派に追われることになりす。今回の手数料と慰謝料だけをいただきます」宇佐木は冷静だ。
「なるほど連中が血眼になる訳だな。で、誰と話をつけるんだ?」阿蛭が宇佐木に問うた。
「反主体亜細亜蜂起戦線の指導者です」宇佐木が答えた。
「アン・ジュヒョクか、奴ならよく知ってるよ」阿蛭がニヤリと笑った。
「では連絡をお願いします」宇佐木が言った。
「じゃあ前祝いと行くか」阿蛭が指を鋭く鳴らすとカウンターの奥から後ろで髪を纏めたサチが笑顔で現れた。
「やっと呼ばれた。待ちくたびれたよ」サチの口調は不満気だが視線は宇佐木に強く注がれていた。
「怒るなよ。込み入った大人の事情があるんだよ。それより酒を頼む」阿蛭が苦笑して言う。
「はいはい、ご注文をどうぞ。宇佐木さんはジントニックよね」サチが宇佐木の前に立ち笑顔で訊いた。
「はい、それでお願いします」宇佐木が応えると「ボーナスが入ったらデートしてよね」サチは彼の耳元に口を寄せて囁やく風に普通の声で言った。
「分かりました」宇佐木の返事にカウンターの三人の驚愕の視線が集まった。
つづく