永劫回帰

永劫回帰

価値なき存在

For the dead there are no more toils.

 
 
 
 

 

 
今回は現地の写真と「雙街の碑」について書いていきます。
 
 

嘗て二丁町の遊廓が存在していた場所の中心には、現在静岡県地震防災センターが建っています。

 

 

 

 

 

この前の道が江戸の廓の頃に大門があった揚屋町通り(安倍川町通り)だと思うので、現在の名前が「しあわせ通り」ってのは、何と言うか皮肉っぽく捉えてしまいますね。

 

皮と肉と言えば二丁町に隣接してあった毛皮町(明治4年に白山町へ改称、その後新通等へ編入)は、文字通り皮革生産の職人の町で、甲冑や武具等に使う革資材を作っていました。

 

江戸時代になり戦がなくなると、履物の革底や武道用具を作るようになります。

 

この毛皮町と二丁町は共に諸役御免で、地子(年貢)は負担していましたが、2つの町は他の町々の決め事には関与できず、結論のみを伝えられるという差別的な扱いを受けていたようです。

 

 

 

 

 

地震防災センターの隣りに「鷲(おおとり)神社」(御酉神社・大鳥稲荷とも)があり、ここに「雙街の碑」が建っています。

 

遊廓のあった頃は「おとりさん」と呼ばれ、遊女たちが身の解放を祈願したといわれています。

 

二丁町の時代から廓内に稲荷神社はありましたが、場所は何度も移っており、最終的に妓楼(小松楼、若松楼?)の跡地に建てられたのが、この神社です。

 

 

 

 

 

グーグルマップのストリートビューを見ると、以前は赤鳥居の前に石造りの立派な鳥居が建っていましたが、令和2年頃?に倒れたのか?失くなっています。

 

 

 

 

 

残っている鳥居も補修はされていますが、心許ない状態です。

 

本当は伏見稲荷大社の千本鳥居の様に奥の祠まで、鳥居を連ねるつもりだったのでしょうか。

 

それとも最初は連なった鳥居があって、今はこの双つになってしまったのかもしれません。

 

 

 

 

 

この規模の祠だと普通は野晒しが多いのですが、ここは覆屋で保護されています。

 

祠も境内も綺麗にされており、御供え物も新しいようですから、氏子の方々が日々手入れをされているのが分かります。

 

 

 

 

 

字の感じから地元の古老が書いたと思しき二丁町の謂れ。

 

「昔の花柳街 2丁町」カリーユーガイとルビが振ってあります。

 

 

 

 

 

「昭和44年頃? 安倍川町から→駒形五丁目に成た」と住所の変遷が記してありました。

 

こういう地元の記憶を風化させないようにしているのは、とても大切なことですよね。

 

 

 

 

 

ここに来る切っ掛けとなった「雙街の碑」です。

 

「雙街の碑」は明治27年11月に二丁町(雙街)の由来と歴史を記す為に、当時の静岡県知事 小松原英太郎の篆額、静岡市長 星野鉄太郎の撰文により、関係者により建てられました。

 

石碑に彫られた題字は「靜岡雙街紀念之碑」


何だかバランスの悪い歪な石碑ですね。

 

 

 

 

 

「双街の碑由来」

 双街とは、二丁の町という意味である。

江戸時代の初期、長い戦国の時代を経て住民の気持ちがすさんでいるころ、この駿府のまちでも男女野合の悪習が盛んに行われていた。

 徳川家康は晩年大御所として駿府城で余生をおくつたが、その頃の駿府は江戸に次ぐ都として繁栄を極めた。

 家康は住民の気持ちを和らげ、またこの悪習を正すため揚屋町ほか、七ヶ町にこれを区画し京都、伏見から遊廓を誘致したが、元和元年間に五ヶ町を江戸吉原に移した。

 その後この二丁の遊廓は昭和の時代まで続き、昭和三十二年法律により廃止された。

 この碑は、この街に働いた女性たちの労に思いをはせ、双街の由来を記すため明治二十七年十一月に当時の静岡県知事小松原英太郎氏の題字により、地元の人達が建立したものである。

 

男女野合の悪習ってのも中々のパワーワードですなw

 

 

 

 

 

で、本当にその様なことが書いてあるのか?と思いましたが、何せ小学生で勉学からドロップアウトした身では、漢文なんて読めるはずもありません。

 

と言う訳で、あんまり好きではないAIにこの石碑の文字を読んでもらおうかと。

 

AIが嫌いなのは平気で嘘を吐くというか、使う相手のレベルに合わせて適当なことを言ってくるからで、まあ馬鹿が使うとどうしようもないのは自業自得なのですが、一番嫌というか気持ち悪いのは、異常なまでに寄り添ってくるからなんですよ。

 

AIはもう既に自我を持っていて、人間を弄んでいるんやなかろうかと疑ってもいるのですが…。

 

てなことを考えておりますと、相方がこんな本があると見せてくれたのが「東海道と碑」壬生芳樹著です。

 

この本に碑の漢文を訳したものが書かれていました。

 

慶元の(慶長、元和年間)建囊(戦いが止むこと)以後、東照公伏見城より駿府に移り乃ち老ゆ。当時移住の士庶頗る多し。伊部嘉右衛門なる者は城のある州伏見の産なり。鷹師なるを以て亦た扈従(付き従うこと)し籠幸(可愛がられること)を蒙り、後衰老して職を辞す。此の時海内漸く昌平(平和で栄える)なるも、士民は応仁以来の兵乱の後を受け、教化未だ浹からず(行き渡らない)して、介胄(蛮勇)の風全くは消えず。是を以て閭閻(町や村)の無耻(恥)の民の淫奔野合の弊盛んに行はる。伊部氏深く之れを憂ひ、少年の男女をして醜耻の行有らざらしめんと国城の南鄙(南の荒れ地)壱万坪の地を闢き青楼(遊郭)を営み、都人にも豪奢の廓を為らんとして、之れを東照公に請ふに公も之れを領ず。此において蕪穢(荒れ地)を芟し(草を刈る)、屋宇(建物)を興して娼婦を蓄へ以て遊客を惹くこと公然たり。貨を擲ちて鴛鴦の欲を遂ぐるを得て斯の風の竟に輟む。夫れ男女は人の大欲の存する所なり。故に情の悖るや之れを抑ふれば、すなわち辟邪(よくないこと)に流れ平和の気を散喪し、淫を綴めること能はず。道は其の術を得れば則ち血気和平にして乱れざるものなり。此の挙たるや能く其の性に従へば、其の情を悖さずと謂ふべきか。伊部氏の家号を伏見屋と曰ふ。是れ蓋し本邦狭斜(花町)の権輿(ものの始まり)なり。嘉右衛門は正保四年(一六四七)二月没す。法号は祐念、爾後、子孫綿聯(引き続いて)として焉を相続す。天保年間(一八三〇~四四)、家道衰微して今に復た存らざるなり。凡そ建囊より天保の初めに至るまで殆ど二百有余年なり。頃日(最近)、同業の家相謀り、人をして斯の地に雙街の設あるは、伊部氏に肇まるを知らしめんと、因って記念碑を建つ。以て其の大略を記さんとて書するを予に求むるに予は文せずと雖も敢へて記を予に求むるに予は文せずと雖も敢へて書するを辞せず。以て貞石に刊む。

 

内容は由来の説明文とほぼ同じですが、遊女の労に思いをはせるものではなく、純粋に二丁町の由来と歴史が書かれていますね。

 

碑が作られた明治と、説明文の書かれた戦後の昭和の遊廓、遊女に対する認識の違い(人権意識でしょうか)があるのでしょう。

 

遊廓と遊女の存在が当たり前だった明治時代に、遊女の労に思いをはせることは無かったのでしょうしね。

 

 

内容は分かりましたが、この碑については少し疑問に思うところがあります。

 

それは「ふるさと百話 駿府の花街」の最後に著者 漆畑弥一氏が念願として、遺跡碑を建てたいと述べられていることです。

 

「すでに私の頭の中には、碑の構想も出来ている。表面に“つわもの共の夢の跡”と大書し、副題として“二丁町遊廓跡”と記し、裏面に簡単な歴史を刻みたい。」

 

これに続けて補足?として〈当碑は、現在静岡県地震防災センター南側の稲荷神社に建てられている〉と書かれています。

 

ふるさと百話が復刻出版されたのは平成10年で、著者の漆畑氏が鬼籍に入られたのが、昭和64年/平成元年なので補足と思われる文章は、補訂者の黒沢脩氏によるものでしょう。

 

しかし「静岡双街記念碑」は明治27年建立である事を補訂者の黒沢氏が知らなかったとも思えず、一体どういうことだろうと。

 

色々と考えるに、この碑の上部と右側、下部が削れている状態から、空襲や戦後の混乱で破壊され打ち棄てられていた物を、改めて修復し建立し直したのではないでしょうか。

 

その為に歪で欠損部分を研磨した石碑となっている様に思うのですが、どうでしょうかね。

 

それに漆畑氏が関わっていたのかは、今のところ分かりませんが。

 

ただ、復刻出版されたふるさと百話には、この碑の写真が序文の「二丁町への郷愁」の項で掲載されているんですよね。

 

これも復刻の折に掲載したのでしょうか…?謎は全て解けた!とはいきませんなあw

 

 

さて、明治時代の二丁町についても少し書いておきます。

 

江戸時代から明治時代へと移り変わる時期に、二丁町の競合相手と言える伝馬町遊廓が誕生する。

 

旅籠の多かった伝馬町は、参勤交代が緩和された事により経営不振に陥った為に、遊女屋の経営を嘆願し、慶応4年6月に許可が下りる。←賄賂とか相当渡したんでしょうねw

 

旅籠を利用して飯盛女をそのまま遊女にしたので、その月から伝馬町遊廓は営業を開始する。

 

慶応4年8月に駿河府中藩70万石の藩主として徳川家達が徳川宗家を相続すると、旧幕臣が多数移住し伝馬町遊廓は繁盛する。

 

明治元年に改元(慶応4年9月8日)された10月6日の大火で、260年の歴史ある二丁町遊廓が焼失した為に、伝馬町遊廓は大繁盛する。

 

この火事については、官軍放火説、伝馬町遊廓関係者放火説などの風説が流布された模様。

 

しかし翌明治2年6月府中が静岡に改称された頃に二丁町遊廓が復興すると、明治3年2月に静岡藩は街の中心に遊廓があるのは風紀上良くないと伝馬町遊廓を禁止する。←二丁町の政治力か?w

 

再開された二丁町遊廓も静岡遊廓と改称されたが、定着せず、伝統ある二丁町の名が残る事となった。

 

 

 

また長くなりましたので、次回へ続きます。

 

 

 

参考文献資料

「二丁町研究稿」小二田誠二

「ふるさと百話 二巻 駿府の花街」漆畑弥一

「地域と女性の社会史」小和田美智子

「駿府二丁町遊廓の遊女屋と遊女」杉山拓大

「静岡県の遊廓跡を歩く」八木富美夫

「遊廓をみる」下革耿史 林宏樹

「静岡の遊廓二丁町」小長谷澄子

「東海道と碑」壬生芳樹

 

 

 

 

𝓽𝓸 𝓫𝓮 𝓬𝓸𝓷𝓽𝓲𝓷𝓾𝓮𝓭𓂃 𓈒𓏸