官能小説~夏の宴~  -4ページ目
<< 前のページへ最新 | 1 | 2 | 3 | 4

夏の宴 第二話

その週末、百合子はどこかに出掛ける気にもなれず、部屋に引き篭っていた。

何度も部屋の窓を開けたり閉めたり、落ち着かぬ心境のまま、ただ時間だけが過ぎていく。

安永からは何の連絡も無く、自分から連絡するかどうかを迷っては携帯を開いては閉じる。

何回、それを繰り返したろうか……。

彼はどうする気でいるのだろうか?

これまでの1年と数ヶ月、近くもなく遠くもなく、ありふれた先輩、後輩の関係として接してきた彼は、今、何を想っているのだろうか……?


そうして、夏期休暇前、最後の1週間が訪れた。

皆、休暇前に仕事のやり残しが無きよう、いつもに増してオフィスは慌しい雰囲気。


午後の勤務中だった。

百合子の携帯がバッグの中で震えた。

安永からのメールだった。

彼女は一瞬、彼のデスクの方に目を向けたが、特にこちらを見る様子も無く、午前中と同様、パソコンに向かって懸命に仕事をこなしている風情であった。

その無言のメールには、あの領収書の画像だけが添えてあった。

何が言いたいの、あの男は……?


夕方までの間、百合子は機械的に手だけを動かし、それとなく仕事を進めたが、もう一人の自分が背後で自分をあやつり人形のように動かしているような気分であった。

終業を迎えると、彼女はすぐに安永を捕まえた。

「あのメールは何のつもり?」

「いやあ、深い意味なんて無いっすよ、先輩」

「まだ誰にも言ってないわよね?」

「ええ、大変な事になっちゃいますからね」

彼はそう言いながら、事の重大さに反するようなふざけた笑みを浮かべていた。

「ま、とりあえず飯でもおごって下さいよ?」

ひそひそと話す彼らの脇を家路に向かう同僚たちが過ぎ去っていく。

「そうね、分かったわ。何が食べたいの?」

彼女の中で降っていた霧のような雨が少しだけ晴れたような気がした。

やがてその霧雨が雷雨となって戻って来るとも知らずに……。


二人はひとまず別々に会社を出た後、小洒落たイタリア料理店で落ち合った。

「先輩と二人で飯食うなんて初めてですよね、いやあ嬉しいなあ」

などと言いながら安永は、まるで男友達と食事に来たかのようにピザを頬張って食べていた。

彼の様子を伺うような百合子の世間話にも適当な相槌を打つだけで、逆にそれで彼女の心は落ち着きを取り戻しているようでもあった。

この人、やっぱり何も考えてないんだわ。


百合子が数千円の会計を支払い、二人は店を出た。

彼女が別れの挨拶を口にしようとしたその時、

「じゃっ、次行きますか、次」

と安永が言った。

「え? 明日も仕事だし、もういいでしょ……」

彼女は呆れるような口調で言った。

「何を言ってるんですか、先輩。あれぐらいの料理、僕だって自腹で食えないわけじゃないですからねえ……」

「じゃあ、今度また、違うお店でご馳走するわ。いいでしょ? それで」

「やっぱり、お嬢様は何も分かっちゃいないんだなぁ、世間ってのを」

「あなた何が言いたいの?」

この日、初めて彼女が少しだけ声を荒げた。

「僕も知りたくて知ってしまったわけじゃないですからねえ……」

「だから、こうやって今日、食事を……」

「お金じゃ買えないモノをお持ちじゃないですか、先輩は」

その時、彼女は彼女の中ではとても現実とは思えない現実が訪れた事をおぼろげながら悟ったのだった。


「はっきり言ってよ……、どうしたら約束してもらえるの?」

「ええ、今からホテルに行って一晩付き合ってくれたら例の写真は消去してあげます」

それは、ずっと安永の顔に張り付きっぱなしだった笑顔が消えた時だった。

一晩我慢して済むのなら……。

彼女に他の選択肢は無かった。


安永はやおら手を上げてタクシーを拾った。



夏の宴 第一話

時計の針は夜の7時に迫りつつあった。


オフィスは照明も落ちたまま、彼女のデスクの周りだけがぼんやりとした光を放っていた。

エアコンもつけず、夏の夜の蒸し暑さが部屋の空気を支配している。

ビルの3階の一室、彼女の他には誰もいない。

いるわけがないのだ。

最近の企業はどこもそうだが残業に対して厳しい。

彼女は一度、退勤処理を行った後、わざわざ「忘れ物を取りに来た」と守衛に嘘をついて職場に戻ったのである。


栗沢百合子。

25歳のOL。

関東の中では田舎の県から東京の女子大に進学し、そのまま東京の企業に就職して3年目。

経理課に配属された彼女は、育ちの良さからか多くの上司からも気に入られ、順調に仕事をこなしていた。

残業など、これまで年度末に数回しただけだ。

そもそも、こういう企業は残業が発生しないようなシステムにもなっているものだ。


しかし、この7月の終わりの週末、百合子はそこにいたのである。

彼女は焦る手を自ら押さえつけるようにパソコンのキーを叩き、何やらの書類にペンを走らせていた。

その色白の美しい顔から滲む汗をモニターの光が鈍く照らす。

あと5分、5分あれば終わる……。


廊下から足音が鳴った。

どうせ守衛さんが回ってるのよ、と百合子は思った。

私がもたもたしているから様子を見に来たのだ、と。

彼女は作業を進めた。

これさえ終われば、また元の自分に戻れる……。


しかし、百合子の思惑は意外な方向に的を逸らした。

ドアが開き、そこに見えたのは守衛ではなく一人の見慣れた男の顔だった。


「あれ?栗沢先輩、何やってんっすか?」

安永健だった。

「いや、ちょっとやり残した仕事があってね。すぐに帰るわ」

と、百合子は平然と言い放ち、さりげなく書類を机の引き出しにしまった。

「いやあ、偶然っすね、僕も忘れ物しちゃって。週末に家でやる書類ですよ」

と言い、安永は自分のデスクに向かいCD-Rのケースを掴み鞄に入れた。

まさか本当に忘れ物を取りに来る馬鹿がいるとは……と彼女は思いつつ、このまま彼がすんなりと部屋を出て行くのを待った。


しかし、入社してから1年と少し、同じ部署の先輩、後輩として毎日のように百合子と顔を合わせてきた安永の目は、自分が入室した際の、ほんの一瞬の彼女の慌てた仕草、そして今、目の前にいる彼女のいつもとごく僅かな差だが落ち着きの無い雰囲気を見逃していなかった。

「おかしいっすねえ……」

彼は一旦、近付いたドアから踵を返し、彼女の方にゆっくりと迫りながら言った。

「今、うちの課でそんな押してる仕事ありましたっけ?僕は駄目社員だからいつも宿題になっちゃってますけど、先輩がねえ……」

「私もたまには残業ぐらいするわよ……」

すでに彼は彼女のすぐ隣にいた。

「さっき、何か慌てて隠したでしょ?」

何かもっともらしい返事をしなくてはならないと思いつつ、彼女は言葉を失ってしまった。


安永の手がふいに引き出しの取っ手に掛かった。

「何するの!安永君」

「そりゃ気になりますよー、何か見せられない物でも入ってるのかと思うとねえ」

彼はほんの微力な彼女の制止を払いのけ、引き出しを開けた。

彼女は硬直する他に無かった。

そこにあったのは書きかけの不自然な領収書だった。


安永は数秒で察した。

次の瞬間、彼は領収書を掴んだもう片方の手を百合子のパソコンのマウスに触れていた。

「どうせ、この伏せた画面は……」

彼女は、いつもは仕事もろくにできないこの男の妙な時に発揮した観察眼を恨むだけだった。

モニターは経理報告の画面を映し出した。

これも明らかに不自然な処理中の。


「お願いだから他の人には黙ってて……」

百合子は元々、気の強い性格ではない。

それ以外に言葉が出なかった。


話はその年の冬に遡る。

1月、百合子は大学時代の友人と会い、その場で化粧品を紹介された。

「あなたももっと化粧っ気を見せれば、もっと綺麗になれるのに」

などと言われ、仲の良かった友人の言葉だというのもあり、借金までしてその高額な化粧品を買ったのである。

しかし、それはネズミ講まがいの詐欺であった。

彼女が騙されたと気付いた時、借金は200万近くにまで膨れ上がっていた。

確かに彼女の給料は同世代の女性と比べれば高水準のものであった。

だが、彼女は就職後、律儀に実家への仕送りを続けており、それを欠かす事になれば両親がきっと心配するに違いないと思っていた。

都会の高額なマンションの家賃を支払い、月々の返済を済ますと以前より生活が困窮するようになったのである。

そして、彼女はふとした思い付きで会社の経費を横領する事を決意したというわけだ。

彼女が日頃、行っている業務からすれば、そのくらいの所作は簡単なものであった。

ほんの数十分、誰もいないオフィスで取り掛かれば……。


「あーあ、えらいもん見ちゃったなあ」

安永はその領収書と画面を携帯のカメラで撮影した。

「何するの?」

「いや、僕もこの会社の正義感に燃えた社員の一人ですから……」

と言い残し、彼はオフィスを去った。

不気味な笑みと百合子を残して……。

<< 前のページへ最新 | 1 | 2 | 3 | 4