夏の宴 第一話 | 官能小説~夏の宴~ 

夏の宴 第一話

時計の針は夜の7時に迫りつつあった。


オフィスは照明も落ちたまま、彼女のデスクの周りだけがぼんやりとした光を放っていた。

エアコンもつけず、夏の夜の蒸し暑さが部屋の空気を支配している。

ビルの3階の一室、彼女の他には誰もいない。

いるわけがないのだ。

最近の企業はどこもそうだが残業に対して厳しい。

彼女は一度、退勤処理を行った後、わざわざ「忘れ物を取りに来た」と守衛に嘘をついて職場に戻ったのである。


栗沢百合子。

25歳のOL。

関東の中では田舎の県から東京の女子大に進学し、そのまま東京の企業に就職して3年目。

経理課に配属された彼女は、育ちの良さからか多くの上司からも気に入られ、順調に仕事をこなしていた。

残業など、これまで年度末に数回しただけだ。

そもそも、こういう企業は残業が発生しないようなシステムにもなっているものだ。


しかし、この7月の終わりの週末、百合子はそこにいたのである。

彼女は焦る手を自ら押さえつけるようにパソコンのキーを叩き、何やらの書類にペンを走らせていた。

その色白の美しい顔から滲む汗をモニターの光が鈍く照らす。

あと5分、5分あれば終わる……。


廊下から足音が鳴った。

どうせ守衛さんが回ってるのよ、と百合子は思った。

私がもたもたしているから様子を見に来たのだ、と。

彼女は作業を進めた。

これさえ終われば、また元の自分に戻れる……。


しかし、百合子の思惑は意外な方向に的を逸らした。

ドアが開き、そこに見えたのは守衛ではなく一人の見慣れた男の顔だった。


「あれ?栗沢先輩、何やってんっすか?」

安永健だった。

「いや、ちょっとやり残した仕事があってね。すぐに帰るわ」

と、百合子は平然と言い放ち、さりげなく書類を机の引き出しにしまった。

「いやあ、偶然っすね、僕も忘れ物しちゃって。週末に家でやる書類ですよ」

と言い、安永は自分のデスクに向かいCD-Rのケースを掴み鞄に入れた。

まさか本当に忘れ物を取りに来る馬鹿がいるとは……と彼女は思いつつ、このまま彼がすんなりと部屋を出て行くのを待った。


しかし、入社してから1年と少し、同じ部署の先輩、後輩として毎日のように百合子と顔を合わせてきた安永の目は、自分が入室した際の、ほんの一瞬の彼女の慌てた仕草、そして今、目の前にいる彼女のいつもとごく僅かな差だが落ち着きの無い雰囲気を見逃していなかった。

「おかしいっすねえ……」

彼は一旦、近付いたドアから踵を返し、彼女の方にゆっくりと迫りながら言った。

「今、うちの課でそんな押してる仕事ありましたっけ?僕は駄目社員だからいつも宿題になっちゃってますけど、先輩がねえ……」

「私もたまには残業ぐらいするわよ……」

すでに彼は彼女のすぐ隣にいた。

「さっき、何か慌てて隠したでしょ?」

何かもっともらしい返事をしなくてはならないと思いつつ、彼女は言葉を失ってしまった。


安永の手がふいに引き出しの取っ手に掛かった。

「何するの!安永君」

「そりゃ気になりますよー、何か見せられない物でも入ってるのかと思うとねえ」

彼はほんの微力な彼女の制止を払いのけ、引き出しを開けた。

彼女は硬直する他に無かった。

そこにあったのは書きかけの不自然な領収書だった。


安永は数秒で察した。

次の瞬間、彼は領収書を掴んだもう片方の手を百合子のパソコンのマウスに触れていた。

「どうせ、この伏せた画面は……」

彼女は、いつもは仕事もろくにできないこの男の妙な時に発揮した観察眼を恨むだけだった。

モニターは経理報告の画面を映し出した。

これも明らかに不自然な処理中の。


「お願いだから他の人には黙ってて……」

百合子は元々、気の強い性格ではない。

それ以外に言葉が出なかった。


話はその年の冬に遡る。

1月、百合子は大学時代の友人と会い、その場で化粧品を紹介された。

「あなたももっと化粧っ気を見せれば、もっと綺麗になれるのに」

などと言われ、仲の良かった友人の言葉だというのもあり、借金までしてその高額な化粧品を買ったのである。

しかし、それはネズミ講まがいの詐欺であった。

彼女が騙されたと気付いた時、借金は200万近くにまで膨れ上がっていた。

確かに彼女の給料は同世代の女性と比べれば高水準のものであった。

だが、彼女は就職後、律儀に実家への仕送りを続けており、それを欠かす事になれば両親がきっと心配するに違いないと思っていた。

都会の高額なマンションの家賃を支払い、月々の返済を済ますと以前より生活が困窮するようになったのである。

そして、彼女はふとした思い付きで会社の経費を横領する事を決意したというわけだ。

彼女が日頃、行っている業務からすれば、そのくらいの所作は簡単なものであった。

ほんの数十分、誰もいないオフィスで取り掛かれば……。


「あーあ、えらいもん見ちゃったなあ」

安永はその領収書と画面を携帯のカメラで撮影した。

「何するの?」

「いや、僕もこの会社の正義感に燃えた社員の一人ですから……」

と言い残し、彼はオフィスを去った。

不気味な笑みと百合子を残して……。