夏の宴 第二話
その週末、百合子はどこかに出掛ける気にもなれず、部屋に引き篭っていた。
何度も部屋の窓を開けたり閉めたり、落ち着かぬ心境のまま、ただ時間だけが過ぎていく。
安永からは何の連絡も無く、自分から連絡するかどうかを迷っては携帯を開いては閉じる。
何回、それを繰り返したろうか……。
彼はどうする気でいるのだろうか?
これまでの1年と数ヶ月、近くもなく遠くもなく、ありふれた先輩、後輩の関係として接してきた彼は、今、何を想っているのだろうか……?
そうして、夏期休暇前、最後の1週間が訪れた。
皆、休暇前に仕事のやり残しが無きよう、いつもに増してオフィスは慌しい雰囲気。
午後の勤務中だった。
百合子の携帯がバッグの中で震えた。
安永からのメールだった。
彼女は一瞬、彼のデスクの方に目を向けたが、特にこちらを見る様子も無く、午前中と同様、パソコンに向かって懸命に仕事をこなしている風情であった。
その無言のメールには、あの領収書の画像だけが添えてあった。
何が言いたいの、あの男は……?
夕方までの間、百合子は機械的に手だけを動かし、それとなく仕事を進めたが、もう一人の自分が背後で自分をあやつり人形のように動かしているような気分であった。
終業を迎えると、彼女はすぐに安永を捕まえた。
「あのメールは何のつもり?」
「いやあ、深い意味なんて無いっすよ、先輩」
「まだ誰にも言ってないわよね?」
「ええ、大変な事になっちゃいますからね」
彼はそう言いながら、事の重大さに反するようなふざけた笑みを浮かべていた。
「ま、とりあえず飯でもおごって下さいよ?」
ひそひそと話す彼らの脇を家路に向かう同僚たちが過ぎ去っていく。
「そうね、分かったわ。何が食べたいの?」
彼女の中で降っていた霧のような雨が少しだけ晴れたような気がした。
やがてその霧雨が雷雨となって戻って来るとも知らずに……。
二人はひとまず別々に会社を出た後、小洒落たイタリア料理店で落ち合った。
「先輩と二人で飯食うなんて初めてですよね、いやあ嬉しいなあ」
などと言いながら安永は、まるで男友達と食事に来たかのようにピザを頬張って食べていた。
彼の様子を伺うような百合子の世間話にも適当な相槌を打つだけで、逆にそれで彼女の心は落ち着きを取り戻しているようでもあった。
この人、やっぱり何も考えてないんだわ。
百合子が数千円の会計を支払い、二人は店を出た。
彼女が別れの挨拶を口にしようとしたその時、
「じゃっ、次行きますか、次」
と安永が言った。
「え? 明日も仕事だし、もういいでしょ……」
彼女は呆れるような口調で言った。
「何を言ってるんですか、先輩。あれぐらいの料理、僕だって自腹で食えないわけじゃないですからねえ……」
「じゃあ、今度また、違うお店でご馳走するわ。いいでしょ? それで」
「やっぱり、お嬢様は何も分かっちゃいないんだなぁ、世間ってのを」
「あなた何が言いたいの?」
この日、初めて彼女が少しだけ声を荒げた。
「僕も知りたくて知ってしまったわけじゃないですからねえ……」
「だから、こうやって今日、食事を……」
「お金じゃ買えないモノをお持ちじゃないですか、先輩は」
その時、彼女は彼女の中ではとても現実とは思えない現実が訪れた事をおぼろげながら悟ったのだった。
「はっきり言ってよ……、どうしたら約束してもらえるの?」
「ええ、今からホテルに行って一晩付き合ってくれたら例の写真は消去してあげます」
それは、ずっと安永の顔に張り付きっぱなしだった笑顔が消えた時だった。
一晩我慢して済むのなら……。
彼女に他の選択肢は無かった。
安永はやおら手を上げてタクシーを拾った。