「キリスト」 の名が刻まれた世界最古のカップ ── 前編。 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

   げたにれの “日日是言語学”-フランク・ゴッディオ

    くだんのカップを持つフランク・ゴディオ博士




〓6月27日の 「世界ふしぎ発見!」、アッシとしましては、2つの驚きがありました。


   (1) エジプトの考古学者 「イブラヒム・ダルビッシュ」 博士が出てきた
   (2) おそらく、キリストの名前を記した世界最古の遺物、という物が出た


〓ミステリー・ハンターの宮地眞理子 (みやち まりこ) さんを案内して、アレキサンドリアのカタコンベ (catacombe イタリア語。地下共同墓所) などを案内してくれたのが、


   イブラヒム・ダルビッシュ博士


でした。
〓この名前が字幕で出るとともに、ナレーションされたとたんに、スタジオがワイてました。でも、以前、「ダルビッシュ有」 投手の名前について書いたとき、


   アラビア語圏でも 「ダルウィーシュ」 というのは見られる名前


ということを書きましたね。実は、驚くほどのことでもないんです。
〓正確には、「ダルビッシュ」 ではなく、「ダルウィーシュ」 です。「イブラヒム」 もアラビア語圏では、ごくごく普通の男子名。


〓アラビア文字で書くとこうなります。


   إبراهيم درويش ʼIbrāhīm Darwīsh
          [ イブラー ' ヒーム ダル ' ウィーシュ ] 「イブラーヒーム・ダルウィーシュ」


〓どれくらい有名な博士なのか Google で検索してみました。


   إبراهيم درويش

           …… 16,800件


〓おお! 多いですね。でもね、アラビア語圏というのは、名前のカブる率がひじょうに高いんです。そこで、こうしてみました。


   "علم الآثار" "إبراهيم درويش" ("イブラーヒーム・ダルウィーシュ" "考古学") …… 24件


〓あれえ? あんまり有名じゃないのかなあ? ついでに、


   "ibrahim darwish" "archeologist" …… 15件


でした。そうかあ……


〓ちなみに肩書きは、「アレクサンドリア国立博物館 館長」、「エジプト考古 (遺跡) 最高評議会 水中考古学部門 部長」 だそうです。海外では、Ibrahim Atteya Darwish という名で知られているようです。もちろん、真ん中の名前はミドルネームではなく、父親の名前でしょう。


   إبراهيم عطية درويش ʼIbrāhī́m ʻAṭī́ya Darwī́sh

         [ イブラー ' ヒーム ぁア ' てぃーヤ ダル ' ウィーシュ ] 「イブラーヒーム・アティーヤ・ダルウィーシュ」


〓「アティーヤ」 という単語は、女性を示す ة 「ター・マルブータ」 で終わっているけれども男子名にも使います。「贈り物」 という意味ですから。





  【 ザヒ博士の名前について 】



〓ところで、いつも、日本テレビのエジプト特番に出てくる、エジプトのインディ・ジョーンズこと


   “ザヒ博士”


ご存知ですね。この 「ザヒ博士」 こそが、「エジプト考古最高評議会」 の事務総長 (いちばんエライ人) です。


〓日本テレビでは、「ザヒ博士」 と言ってますが、フルネームは、


   
   げたにれの “日日是言語学”-ザーヒー・ハワース

   زاهي حواس Zāhī́ Ḥawā́ss [ ザー ' ヒー は ' ワース ] 「ザーヒー・ハワース」



と言います。 Zāhī というのがご本人の名前ですね。


〓アラビア語に、


   زها zahā [ ザ ' ハー ] 「花が咲く、繁栄する、光り輝く」

      ※これは 「彼は輝いた」 という変化形。
       アラビア語の動詞の基本形は “完了形 男性三人称単数” で示される。
       ラテン語・ギリシャ語が、直説法現在一人称単数 「わたしは~する」 で示されるように、

       それぞれの言語を扱う学問では、それぞれの言語の特徴からみちびき出された独特の流儀がある。



という動詞があります。専門的になりますが、この動詞は語根が z - h - w です。アラビア語では、第3語根に w もしくは y を持つ動詞を 「弱動詞」 と言って特別な変化をします。


〓アラビア語の動詞からは、 「能動分詞」 というものが派生します。英語で言うと -ing 形、すなわち、「現在分詞」 “~するところの” にあたります。ただし、アラビア語では、派生した 「能動分詞」 が形容詞として働くほかに、「~する人」 という名詞にもなります。


〓アラビア語の形容詞や名詞には、ときどき、語末が、


   ٍ  -in  /  ً  -an


になっていて初学者をホンロウするものがあります。こういう “変わった音” の語尾を持つ形容詞・名詞の正体は、


   弱動詞から派生した 「能動分詞」


なんどす。


   زاهٍ zāhin [ ' ザーヒン ] 「光り輝く(人)」 (男性形)
       زاهية zāhiya(tun) [ ザー ' ヒヤ ] (女性形)


〓ですけん、「ザーヒー」 というのは、本来、「ザーヒン」 という名前なんです。実際、「ザーヒン」 Zāhin という名前の人もいるようです。しかし、この音は、正則アラビア語の音であり、口語では Zāhī と発音されるようですね。


〓まあ、むずかしい話をトッパらうと、「ザーヒー博士」 の名前の意味は、


   “ヒカル” くん


なのです。



               晴れ               晴れ              晴れ



〓「ハワース」 のほうはやっかいです。父親の名前なのか、家名なのか、よくわかりません。アラビア語圏の人物なのに、ラテン文字・アラビア文字のどちらでどう検索しても Zahi Hawass の2部構成以外の名前が見当たらないのです。


〓この Ḥawāss は、


   حسّ ḥassa [ ' はッサ ] 「感じる、気の毒がる、同情する」


という動詞から派生しています。語根は ḥ - s - s  s が2つである点に注意が必要です。


〓ここから、


   حاسة ḥāssa [ ' はーッサ ] 「感覚」


という名詞が派生し、その複数形が、


   حواس ḥawāss [ は ' ワース ] 「複数の感覚」


です。「感覚」 の複数形というのは奇妙です。これは、たとえば、「五感」 のことを言っているのかもしれませんね。


〓平俗読みでは、語末の母音を発音しないので、 -ss で終わっていることがハッキリしません。ラテン文字に転写したときに Hawass というふうに、語末を -ss と綴るのは、ダテにやっているのではない、ということです。語末の2つの s は、それぞれ別の音節に属します。



〓一部、ネットで、Hawass という名前が、Aiwass 「アイワズ」 をアラビア語化したものだ、との説があります。
〓イギリス、1875年 (明治8年) 生まれの神秘主義者に


   アレイスター・クローリー Aleister Crowley
             ※もしくは、「アリスター・~」


という人物がいます。彼は 1904年 (明治37年) に訪れたエジプトで、古代エジプトの神、ホルスの遣いである


   Aiwass 「アイワズ」


から啓示を受けた、と言います。


〓で、この Aiwass の綴り換えが、Hawass だと言うんですね。


〓しかし、どうもこの説は、マユツバくさい。だいいち、Aiwass というのが、何語なのかわからない。それに、この Aiwass という遣いは、1904年に、クローリーを通して、突然、現れたわけで、エジプト人の知ったこっちゃないんです。
〓ためしに Google Egypt の国内限定で “Aiwass” を検索すると 10件しかヒットしません



               波               波               波



〓古代から、先住民族 → 古代ギリシャ人 → ローマ人 → ヴァンダル人 (ゲルマン人) → ゴート人 (ゲルマン人) → ギリシャ人 (東ローマ帝国) と支配者を変えてきたシチリア島には、7世紀からアラブ勢力の進出が始まりました。10世紀半ばには全島がその支配下に入りました。


〓しかし、11世紀、シチリア島は、フランス、ノルマンディー出身のノルマン人 (ヴァイキングの末裔) の一族によって征服されました。


〓そうした、シチリアにおけるアラブ・イスラーム勢力の最後の 「エミール」 ── “侯” امير amīr [ ア ' ミール ]。原義は “司令官”。現在では 「首長」 と訳す ── のひとりに、


   ابن الحواس ʼibnu l-Ḥawāss [ イブヌ るは ' ワース ] 「イブン・アル=ハワース」


という人物がいました。
〓三角形のシチリア島のド真ん中、現在の 「エンナ」 Enna に城塞をかまえるエミールでした。この都市は、古来から、ギリシャ語でもラテン語でも Henna 「ヘンナ」 と呼ばれていましたが、10世紀には語頭の h が落ちて 「エンナ」 となっていました。


〓それが訛って、この城塞都市は、アラビア語で、


   قصر ياني Qaṣr Yānī [ ' かすル ヤー ' ニー ]


と呼ばれました。 Qaṣr 「カスル」 というのはラテン語 castrum [ ' カストルム ] 「城塞、とりで」 の借用語です。
Yānī 「ヤーニー」 というのは “Enna の” という意味の形容詞 (ニスバ形容詞) でしょう。ところが、中世イタリア語で言う 「ヨハネ」 にあたる単語が、


   Ianni [ ' ヤンニ ] Ioanni 「ヨアンニ」 の略称
     ※それぞれ、現代イタリア語の Gianni 「ジャンニ」, Giovanni 「ジョヴァンニ」。


であったため、以後、この都市は


   Castrogiovanni [ カストロヂョ ' ヴァンニ ] 「カストロジョヴァンニ」


と呼ばれてきました。この都市が、古代の名前 Enna に戻ったのは、1927年 (昭和2年)。改名を命じたのは、まさに独裁体制を固めつつあった、時のイタリア首相、ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini でした。



〓この城塞都市の支配者は 「イブン・アル=ハワース」 だったと伝えられているわけですが、実は、これは名前であって、名前でない、のです。つまり、


   「アル=ハワースの息子」 という父称 (ふしょう)


なのであって、当人の名前ではないのです。ならば、本人の名前はナンだったか?というと不明なのです。父親の名前に定冠詞 al- が付いているので、エミールの地位は父親が築いた、ということなんでしょうか。


〓古い時代のアラビア語世界の人物は、個人名以外のいろいろな名前 ── アダ名、父称 (~の息子・娘)、子称 (~の父親・母親)、出身地名・出身部族名 (ニスバ) ── で伝わっていることが多く、本人の名前が不明、ということも、しばしばあります。


〓と言うようなわけで、この 「ハワース」 Ḥawāss という名前は、確かに、11世紀には存在したことがわかります。20世紀のクローリーとは関係がありません。



〓現代でも、アラビア語圏で 「ハワース」 という名前の男性は、それほど多くはないようですが、見つかります。
Ḥawāss という名前は、普通名詞と紛 (まぎ) れてしまうので単独では検索できません。よく使われる名前との組み合わせで調べましょ。こういう場合、アラビア語の名前は、通例、姓がなく、2つ以上の名前を連ねることが、逆に役に立ちます。



   محمد حواس Muḥammad Ḥawāss …… 2,280件
      حواس محمد Ḥawāss Muḥammad …… 954件
   علي حواس ʻAlī Ḥawāss …… 1,720件
      حواس علي Ḥawāss ʻAlī …… 844件
   موسى حواس Mūsā Ḥawāss …… 274件
      حواس موسى Ḥawāss Mūsā …… 10件
   ――――――――――――――――――――
   ※下は比較のためのポピュラーな名前の組み合わせ


   علي محمد ʻAlī Muḥammad …… 8,510,000件
   محمد علي Muḥammad ʻAlī …… 5,090,000件
   حسن علي Ḥassan ʻAlī …… 1,160,000件
   علي حسن ʻAlī Ḥassan …… 2,080,000件



〓アラビア語の名前は、先頭が本人の名前、次が父親の名前、次が祖父の名前ですから、後ろに並ぶ名前ほど “旧世代の名前” ということになります。その点から、上の名前の組み合わせを見ると、


   Ḥawāss という名前が少ないうえに、旧式な名前


だということがわかります。


〓また、 al-Ḥawāss 「アル=ハワース」 で家名にしているらしいヒトも多く見つかります。


   محمد الحواس Muḥammad al-Ḥawāss …… 11,600件


〓この 「アル=ハワース」 さんは、シチリア島のエミールと関係があるんでしょうか。



〓もっとも、この Ḥawāss という名前が古い時代によく使われていたかというと、どうも、そういうこともないようです。というのも、古い時代のアラビア語圏の人物の名前は、


   ○○ ibn ○○ ibn ○○


というふうに、「本人―父親―祖父」 の名前のあいだに 「息子」 という単語が入ります。厖大なアラビア語情報を検索しても、 Ḥawāss の前後に ibn のついた名前が見つからないんです。
〓ということは、 Ḥawāss という名前は、近代に入って流行り始めたものでしょうか。


〓しかし、それにしても、 Ḥawāss 「諸感覚/五感」 という名前にこめられた意味合いが、今ひとつ、よくわかりません。ハテ?



               晴れ               晴れ               晴れ



〓というわけで、「ザーヒー・ハワース」 博士の名前をむりやり日本語に置き換えるなら、


   「五感ヒカル」 博士


となりそうです。



〓すでに申し上げましたが、このザヒ博士は、エジプト考古学界でいちばんエライ人です。


〓エジプト文化省には、


   المجلس الأعلى للآثار في مصر ʼal-májlisu l-ʼaʻlā́ lil-ʼāthā́r (fī míṣr)
      [ アる ' マヂりスゥ るアぁ ' らー りるアー ' さール (フィー ' ミすル) ]
      「(エジプト) 考古最高評議会」
      “The Supreme Council of Antiquities” (略称= SCA)


という機関があり、その事務総長が 「ザーヒー・ハワース博士」 というわけです。


〓イブラーヒーム・ダルウィーシュ博士が部長をつとめる


   شعبة علم الآثار المغمورة بالمياه shúʻba ʻílmi l-ʼāthā́ri l-maghmū́ra bil-miyā́h
      [ ' シュぁバ ぁ ' イるミ るアー ' さーリ るマぐ ' ムーラ ビるミ ' ヤーふ ]
      「水中考古学部門」
      “The Department of Underwater Archaeology” (略称= DUA)


は、この 「考古最高評議会」 の一部門です。“水中考古学” というのは、海底・湖底など、水中に沈んでいる遺物・遺跡を調査する考古学のことです。


〓そして、このエジプトの 「考古最高評議会 水中考古学部門」 と、パリに本拠を置く、


   L'institut européen d'Archéologie sous-marine (IEASM)
        「欧州水中考古学研究所」


とが協力して、1992年からアレクサンドリアの海底遺跡を調査している、という事情なのでした。



〓ここで、やっと 「世界ふしぎ発見!」 のハナシに戻ります。

〓6月27日の 「世界ふしぎ発見!」 に出てきて、宮地さんに水中から出てきたというカップを見せ、キリストという名前が刻まれている、と説明した人物こそ、「欧州水中考古学研究所」 の設立者にして、エジプトの 「考古最高評議会」 と協力して、アレクサンドリアの海底遺跡の調査をしている


   フランク・ゴディオ博士 Franck Goddio


なのです。



     パンダ 毎度、申し訳ありません。まだ、本題にも入っておらんのに字数制限内に収まりませんでした。後編に続きます。↓

          http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10296565142.html