「キリスト」 の名が刻まれた世界最古のカップ ── 後編。 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

   パンダ こちらは、後編のアタマでござる。前編は↓

        http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10297010416.html





  【 キリストの名が刻まれたカップ 】



〓で、ダルビッシュという名前より、もっと驚いたのは、画面に映し出された紀元1世紀ころの 「カップ」 という遺物で、カップの腹に、



   げたにれの “日日是言語学”-キリストのカップ1


    ΔΙΑΧΡΗCΤΟѴ



と書かれていたのです。
〓アッシは、テレビであれこれ説明する前に、この文字をひと目見て、「おお!?」 っと思いました。こりゃなんぢゃ、と。


〓ここで登場したのが、フランク・ゴディオ博士なんですね。モロッコ生まれのフランス人考古学者です。博士は、このカップに刻まれた文字が、「キリストの名」 である可能性がある、と説明しました。そして、もし、この名が 「キリスト」 であったら、文字として 「キリスト」 の名が書かれた世界最古の遺物だ、ということでした。


〓実は、画面には映らなかったんですが、あのカップの裏側にも文字が掘られていて、



   げたにれの “日日是言語学”-キリストのカップ2

    ΟΓΟΙCΤΑΙC



となっています。



〓まず、基本から説明しなければなりません。以前、「ハルマゲドン」 と 「アルマゲドン」 の違いについて書いたときに、リッテライ・ウンキアーレース (アンシャル体) という丸味を帯びたギリシャ文字について書きました。



   げたにれの “日日是言語学”-新約聖書アレクサンドリア写本
    『新約聖書』 アレクサンドリア写本。5世紀。ギリシャ語。アンシャル体による。


〓紀元前4世紀のアレクサンダー大王による遠征により、東方世界がギリシャ文化の影響下に入った 「ヘレニズム」 の時代には、この広大なギリシャ語通用圏で、古典ギリシャ語とは少し異なった “コイネー” と呼ばれる共通語が使われることとなりました。


〓アレクサンダー大王が没したのち、エジプトはギリシャ人が支配する 「プトレマイオス朝」 に入ります。この国家は、支配階級はギリシャ語を話し、もともとのエジプト民衆は、エジプト語を話していました。

〓先に申し上げた 「アンシャル体」 という丸味を帯びたギリシャ文字は、このエジプトで発生したようです。プトレマイオス朝のエジプトでは、「ギリシャ文字」 は、エジプト語 (新エジプト語後期) そのものを書くのにも使用され始めており、のちにエジプト語 (コプト語) を書き表す 「コプト・アルファベット」 に結実します。



   げたにれの “日日是言語学”-コプトアルファベット

    コプトアルファベット



〓紀元1~2世紀、このギリシャ文字のアンシャル体 (丸味を帯びた字体) は、『新約聖書』 を記すのに用いられました。

〓そして、この 『新約聖書』 に用いられたギリシャ文字は、9~11世紀になると、ギリシャ周辺に南下してきたスラヴ人によって、キリスト教とともに採用され、「古代教会スラヴ語」 (≒古代ブルガリア語) を書き表せるように改変されました。


〓のちに、ロシア人がキリスト教を採り入れたときに、この 「古代教会スラヴ語」 を書き表していた


   改編されたアンシャル体のギリシャ文字の体系


も採用されました。それが、こんにち、「ロシア文字」 (キリール文字) と呼ばれているものです。


〓それゆえ、エジプトのコプト語 (エジプト語の末裔) を書き表す文字は、ロシア文字とそっくりなんです。起源をたどれば驚くほどのことでもありません。




げたにれの “日日是言語学”-コプト文字とキリール文字の比較
4世紀、パピルスにコプト語で書かれた 『マタイによる福音書』。11世紀、古教会スラヴ語によってロシアで書かれた 『オストロミール福音書』。 



〓アンシャル体のギリシャ文字は、古典期のギリシャ文字といちじるしく違うわけではありませんが、特徴的に異なる文字があります。すなわち、主として以下の3文字です。


   Ε → Є  エプシロン
   Σ → C  シグマ
   Ω → Ѡ  オメガ


〓実は、18世紀にピョートル大帝による文字改革が行われるまでは、ロシア語の Е Є という字体でした。ピョートル大帝は、ロシアを西欧並みの近代国家にする、という野心を持っており、印刷用の文字の字体を西欧のものに近づけたんです。つまり、


   Є → Е
   є → е


です。ところが、西欧に対応する文字のない Э, э はそのままになってしまいました。


〓本来、ЄЭ とは対になった文字だったんです。


   Є, є [ je ] イェー
   Э, э [ ɛ ] エー


という硬母音・軟母音のペアだったんですね。現代でも э という文字を


   э оборотное [ ' エー アバ ' ロートナヤ ] 「裏向きのエー」


と呼ぶことがあるのは、そのためです。



〓紀元1世紀のコイネーでは古代ギリシャ語同様に 「分かち書き」 をしません。だから、どこが単語の切れ目なのかは読む者が判断しなければなりません。また、アクセント記号・気息記号は、まだ一般化していません。だから、アレクサンドリアのカップには文字に何も付いていないんです。


〓カップに刻まれた文字を分かち書きするなら、


   ΔΙΑΧΡΗCΤΟѴ ΟΓΟΙCΤΑΙC
            ↓
   δια Χρηστου ογοισταις


となりそうです。






  【 紀元1世紀のエジプトのギリシャ語 】


〓ここで、紀元1世紀のエジプトのギリシャ語音がどのようなものだったかベンキョウしませう。


〓まず、子音については、有声閉鎖音の摩擦音化が始まっていますが、教養のある階級に至るまで完全に浸透するのは4世紀です。


   β …… / b / → / β /
   γ …… / ɡ / → / ɣ /    / a, o, u / の前で、まず、摩擦音化した。
   δ …… / d / → / ð /    / i + 母音 / の前で、まず、摩擦音化した。


〓しかし、エジプトにおける有気無声閉鎖音 θ [ tʰ ], φ [ pʰ ], χ [ kʰ ] はビザンチン初期でも、まだ、摩擦音化していませんでした。


〓母音は以下のとおりです。



   ――――――――――――――――――――
   【 エジプトのギリシャ語音の歴史的変遷 】

     ※以下に挙げる音は 「紀元前3世紀中葉」 → 「2世紀中葉」 → 「ビザンチン初期 (5世紀初期)」
     ※ [ ] は狭い [ e ]。 つまり、口の開きから言うと、 [ ε ] > [ e ] > [ ] > [ i ] となる。
     ※ * を付けたのは現代ギリシャ語音。 / y / → / i / が最後の仕上げであった。



   α  …… / a / → / a / → / a /
   αι  …… / ai / → / e /  → / e /
   αυ …… / au / → / aw / → / af, av /
   ᾱ  …… / a: / → / a / → / a /
   ᾱι  …… / a:i / → / a /  → / a /

   ε  …… / e /  → / e / → / e /
   ειV …… / e: / → / ẹ / → / i /
   ειC …… / i: /  → / i / → / i /
     ※V はあとに母音が続く場合。
      C はあとに子音が続く場合、および、語末。
   ευ …… / eu / → / ew / → / ef, ev /

   η  …… / e: / → / ẹ / → / i /
   ηι  …… / i: /  → / i /  → / i /
   ηυ …… / e:u / → / iw / → / if, iv /

   ι  …… / i /  → / i /  → / i /
   ῑ  …… / i: /  → / i / → / i /

   ο  …… / o / → / o / → / o /
   ου …… / u: / → / u / → / u /
   ου  …… / u / → / u / → / u /
   οι  …… / oi / → / ø / → / y / → */ i /

   υ  …… / y / → / y / → / y / → */ i /
   ῡ  …… / y: / → / y / → / y / → */ i /
   υι  …… / yi / → / y / → / y / → */ i /

   ω  …… / o: / → / o / → / o /
   ωι …… / o:i / → / o / → / o /
   ――――――――――――――――――――



〓古典ギリシャ語をカジッたヒトなら ει の音が / e: /, / i: / なのが意外かもしれません。 ει がラテン語で ī と転写されるユエンがここにあります。 ει は、きわめて古い時代 / ei / [ エイ ] という二重母音でしたが、音が融合して長母音化したんですね。
〓日本のギリシャ語学では、おそらく、 ει  η の区別をつけるために、 ει を 「エイ」 と読む、という約束にしたのだろう、と思います。



〓では、上の一覧を2世紀中葉の “音” で並べ替えてみます。



   / a / …… α, ᾱ, ᾱι
   / e / …… ε, αι
   / ẹ / …… η, ειV
   / i /  …… ι, ῑ, ειC, ηι
   / o / …… ο, ω, ωι
   / ø / …… οι
   / u / …… ου
   / y /  …… υ, ῡ, υι
   / aw / …… αυ
   / ew / …… ευ
   / iw / …… ηυ



〓長母音がなくなっていますね。これは、高低アクセントだったギリシャ語が、ここに至って、強弱アクセントに変化したことを物語っています。すでに、現代ギリシャ語のアクセントと同じになっているのです。
〓音韻の上で、意味のある母音の長短はなくなりましたが、強弱アクセントに変化した言語では、アクセントのある母音が自然に長く発音されます。


〓さあて、上の一覧表が大事ですよ。紀元1世紀ころの発音は、だいたい、これらの音とみなしてよろしい。少なくとも、この変化を超えることはないわけです。では、解読、行きましょう。






  【 紀元1世紀のギリシャ語を読む 】



δια Χρηστου から始めます。


〓まず、


   διὰ dia [ ðja ] [ ディ ' ア ]


というのは前置詞で、そのあとに置く名詞は 「属格」 (ぞっかく=所有格) になります。意味は、英語の through 「~を通過して (経由)、~を通じて (手段)」、by 「~によって (行為者)」 をあらわします。


〓そのあとの


   Χρηστοῦ khrestú [ kʰrẹs 'tu ] [ くレス ' トゥー ]


は、


   Χρηστός khrestós [ kʰrẹs 'tos ] [ くレス ' トス ]


の属格です。文法的に問題はありません。辞書に載っている単語です。この語の意味は、とりあえず置いておきます。


〓問題は、


   ογοισταις ogoistais [ oɡøstes ] [ オゲステス ]


という単語です。この単語は、辞書を引いてもカゲもカタチもないのです。


   -αις というのは、
     -ᾱ, -η -ā, -ē に終わる女性名詞の複数与格
     -ᾱς, -ης -ās, -ēs に終わる男性名詞の複数与格



の語形です。「複数与格」 というのは、「~たちに、~たちへ (与える)」 という意味の語尾です。英語で言えば、“to children” というような表現です。カップの反対側に刻まれた文字が 「クレストスによって」 ですから、意味はうまく合います。おそらく、このカップは、


   「クレストスから、オゲステ(ス)たちへ」 贈られた


のでしょう。


〓主格形を復元するなら、


   ογοιστη ogoistē [ oɡøstẹ ] 「オゲステ」 女性名詞
   ογοιστης ogoistēs [ oɡøstẹs ] 「オゲステス」 男性名詞


のいずれかです。辞書に見つからないので、アクセントの位置はわかりません。


〓語頭の ο が冠詞である可能性はありません。複数与格の冠詞の形は、


   男性 τοῖς tois [ tøs ] [ テス ]
   女性 ταῖς tais [ tes ] [ テス ]


だからです。


〓すでに申し上げたとおり、上記のような単語はおろか、似ている単語もないんです。実は、語末の


   -της -tēs [ -tẹs ] は 「~する人」 という接尾辞


である可能性があります。英語の -ist の t の部分にあたります。だとすると、その前半は、


   ογοίζω ogoizō [ o 'ɡøzo ] [ オゲーゾ ]


という動詞になります。ところが、これも見当たらない。


〓ここで登場した -ίζω -izō 「イゾー」 というのは、英語の -ize に当たるもので、ギリシャ語の場合、


   “ある動詞から、少々意味の異なる別の動詞をつくる場合”
   “名詞・形容詞から動詞をつくる場合”


に用いられました。すなわち、 -ίζω -izō の語形をとる動詞は、


   ογοιδ- ogoid-       動詞の語幹
   ογοιγ(γ)- ogoig(g)-  動詞の語幹
   ογο-


などからつくられる可能性があります。しかし、これも存在しません。


〓紀元1世紀のエジプトのギリシャ語では、 -αι- -ai- という綴りは [ e ] と発音され、これは -ε- と同じ音ですね。ことによると、


   ογοιστες ogoistes [ oɡøstes ] [ オゲステス ]


の綴りまちがいかもしれません。ギリシャ語では、子音語幹の名詞の複数主格の語尾が -ες -es になります。
〓「 語幹名詞」 と呼ばれる “語幹” (ごかん=変化語尾を除いた部分) が -τ -t に終わる名詞には、 -στ -st に終わるものも “ありえないことではない” ようです。だとすると、単数主格形は、


   ογοις ogois [ oɡøs ] [ オゲス ]


となります。しかし、こういう単語も、これに似た単語も存在しません。






  【 ゴディオ博士はどう言っていたか 】


〓「世界ふしぎ発見!」 では、フランク・ゴディオ博士が、「魔術師」 というような解釈をしていましたが、おそらく、


   ὁ γόης o goes [ o 'ɣoẹs ] [ オ ' ゴーエス ] 「呪文を唱える者、魔術師」
      ※ ὁ ho は定冠詞。この時代には、語頭の [ h ] はすでにない。


という単語でしょう。これの変化形は、以下のとおりです。


   ὁ γόης o goes [ o 'ɣoẹs ] [ オ ' ゴーエス ] 「魔術師は」
   τοῦ γόητος tu goetos [ tu 'ɣoẹtos ] [ トゥ ' ゴーエトス ] 「魔術師の」
   τῷ γόητι to goeti [ to 'ɣoẹti ] [ ト ' ゴーエティ ] 「魔術師に」
   τὸν γόητα ton goeta [ ton 'ɣoẹta ] [ トン ' ゴーエタ ] 「魔術師を」
   ὦ γόης o goes [ o 'ɣoẹs ] [ オ ' ゴーエス ] 「魔術師よ」
   ――――――――――
   ὁι γόητες oi goetes [ ø 'ɣoẹtes ] [ エ ' ゴーエテス ] 「魔術師たちは、魔術師たちよ」
   τῶν γοήτων ton goéton [ ton ɣo'ẹton ] [ トン ゴ ' エートン ] 「魔術師たちの」
   τοῖς γόησι tois goesi [ tøz 'ɣoẹsi ] [ テズ ' ゴーエスィ ] 「魔術師たちに」
   τοὺς γόητας tus goetas [ tuz 'ɣoẹtas ] [ トゥズ ' ゴーエタス ] 「魔術師たちを」



〓単数主格/単数呼格だと、 o goes で近いですが、語末の -tais がアブレてしまいます。


   ὁι γόητες [ ø 'ɣoẹtes ] [ エ ' ゴーエテス ] 「魔術師たちは、魔術師たちよ」 と
   ογοισταις [ o 'ɡøstes ] [ オ ' ゲーステス ] 「?」


は近いんでしょうか? 若干こじつけのような……


〓つまり、「魔術師たち云々」 というゴディオ博士の解釈は、上のような “すり寄せ” をして、初めて成立する説です。



〓ところでですね、カップに刻まれた文字をもう一度よく見ると、それが、


   勢いのある達者な書体で、文字を書き慣れた人の手になるもの


ということがわかります。それだけ文字を書き慣れている人にしては、“書き間違いがひどすぎる” とは思われないでしょうか。






  【 カップに刻まれているのは、ほんとうに、「キリスト」 か? 】



〓ここで、もう1つの問題です。最初に戻りますが、


   Χρηστός khrestós [ kʰrẹs 'tos ] [ くレス ' トス ]


という単語です。


〓実は、この単語じたい、必ずしも 「キリスト」 とは読めません。



   χρηστός khrēstós / khrestós
      [ kʰre:stós / kʰrs 'tos ] [ くレース ' トス / くレス ' トス ]
      <形容詞> 使いやすい、便利な、さい先のよい、頑健な、勇ましい


   χρστός khrīstós / khristós
      [ kʰri:stós / kʰris 'tos ] [ くリース ' トス / くリス ' トス ]
      <形容詞> 聖油で清められた



〓つまり、先入見なくして判断すれば、この 「クレストス」 という単語は、キリストとは関係がなく、単に 「頑健な、勇ましい」 という形容詞を名詞化した男子名である、ととらえるほうが自然です。


〓現代ギリシャ語では、η ι [ i ] と発音し、区別がありませんが、一般的に、この区別が失われたのは、すでに見たとおり、紀元5世紀初頭のビザンチン初期からと考えられます。パピルスに記されたテキストでも、「キリスト」 の名前の綴りまちがいが現れるのは3世紀からです。

〓ですから、「キリストの名前が刻まれたというカップ」 が紀元1世紀のものだとすると、両者は同じ音ではなかった、と言わざるをえません。


〓もし、初心に返って、素直に解釈するならば、カップの表に書かれているのは、歴史に名を残していない一介のアレクサンドリア市民であり、


   「クレストスによって」


と書かれている、と解釈できます。すると、裏に書かれているのは、


   「オゲステスたちへ」


という、そのままの意味とは言えないでしょうか。つまり、


   ΟΓΟΙCΤΗC 「オゲステス」 というエジプトの普通名詞、あるいは、固有名詞


だった。ギリシャ語で解けないのなら、歴史から忘れ去られたエジプト語起源の単語かもしれません。




〓大山鳴動で蚊が一匹というような感じ、ですが、う~ん、どうでしょう。キリストの名前とは言えないような。