気になる言葉、こだわり | PTAはPTA

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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PTA関連の話題の中でいくつかこだわりを感じる言葉があります。

例えば「総意」と「代表」

「総意」は全員の一致した意見・考えと辞書には書かれているので、保護者や住民の総意という言葉を使うと「全員じゃない」と敏感に反応される人たちがいらっしゃいます。

確かに全員じゃないかもしれませんね。
でも、例えば憲法第19条で「思想及び良心の自由」を保障し、第96条で憲法改正は国会で3分の2、国民投票の過半数の賛成で決せられると規定しています。
であるならば、第1条にある国民の「総意」は、必ずしも「すべての国民の統一した意思」という意味ではないと言えますし、もともと憲法を草案するときに国民に問いかけられたわけでもないですからね。

「代表」も多数の人に代わって、他に意思を表示するという意味を持つので、仮に全員ではなくても、曖昧ですが多数が支持すれば保護者の代表と使ってもあながち間違いとは言えないように思いますが、全員じゃない、私は賛同していないと強く反応される人もいらっしゃいます。

拘るのはその言葉の定義を共有しないと議論にならないからだと言われる人もいらっしゃいますが、「PTA」に関して言えば、そもそもの定義を共有しないまま、「PTAとは」と他者の発信に意見している人がとても多いように感じます。

戦後の教育改革を決定づけたのは米国教育使節団の勧告
GHQの・・・といわれるのはPTAや学校開放など社会教育の重視がその勧告に含まれていて、根底には日本が戦前の軍国主義・全体主義に戻らないように、民主主義の考えを根付かせるための成人教育という思惑があったと言われています。

ただ、占領軍の中からも日本に民主主義が根付かせるには時期尚早という声がある中で、導入に踏み切ったため、当時から制度・形式だけの導入、名前が変わっただけで体質は戦前と変わりないという批判が町内会・自治会ともどもあったようです。

ご説ごもっともで、発足当初はまだまだ戦後の混乱期、当時の日本人の多くが町内会・自治会の発足を望んでいたように、PTAもそれぞれの前身の○○教育会や◇◇後援会をベースにしたというのは間違いないと資料や諸先輩の話を聞いて思いました。

母校の歴史をひも解くと寺子屋から始まり、民家を借りて転々とした後に小さな校舎建設、実業補修学校や裁縫補習学校などを併設したことで手狭になり、村所有の木を売り、土地を売り、村民に頭を下げて新校舎建設までこじつけたことが資料からわかりました。

そして、大正14年に○○教育会が設立
目的は「教育の普及上進を図り、併せて学校との提携を密にし、児童教育の発展向上につき講演をなす」とありました。地区居住者は一口20銭の会費を納めると通常会員になれるとあるので、保護者に限定せず、村を挙げて学校を支えていこうという意思がわかります。

少し前のPTCA、今でいうコミュニティスクール、地域学校協働本部の内容にアメリカPTAのように物的・金銭的支援が加わった、まさしく「おらが村の学校」を支える母体だったと思われます。

自分がPTAについて調べ始めた頃は、まだPTA関連の論文や書籍はほとんどなく、所属PTAの歴史をたどる、近隣のPTA関係者と意見交換するにとどまっていましたが、その後ネットの普及で検索が容易になり、加えてPTAの実体験者による著書の発刊や体験者の取材を基にしたドラマなどが制作され、いくつかのメディアも取り上げるようになり、多くの情報が比較的簡単に得られるようになりました。

とはいえ、古い資料や諸先輩の話も、PTAというより学校の成り立ち、地域の歴史を垣間見ることができて、私はとても面白かったです。

どこのPTAも学校も地域も、それぞれに特徴のある歴史があると思うので、お時間があれば、一度ひも解いてみることをお薦めします。

書籍については体験を基に書かれたものですから、それぞれにリアリティがあります。
しかし中にはPTAを奉仕と修養の国家プロジェクト、その前身が国防婦人会や大日本連合婦人会などの戦前の母の会だと指摘している書籍もあり、将来的には戦争や軍国主義、日の丸君が代を崇拝、天皇のために戦死する子どもを育てることに繋がる、加えてPTAのままでは国の統制を許すことになるため廃止すべきで、必要なら国や自治体と直接対峙できる保護者組織であるべきとの主張がされています。

確かに会長など役員は男性、現場の実働は女性という構図は、ずいぶん変化してきているとはいえ、今も根強く残っていることは否めませんが、奉仕と修養という主張はかなり偏っていて、一昔前、私が子どもの頃の左派に似ていると感じました。今の時代、戦前の日本に戻りたいと思っている人がどれくらいいらっしゃるのでしょうか。

ただPTAに関するいずれの書籍や報道記事もPTAとは何か、何が問題視されているのかなどを学ぶには、とてもわかりやすくまとめられていると思います。

拝読して改めて思うのは、任意団体や法人、あるいは自治体など行政だって、どんな組織でも完璧な組織はなく、ましてやPTAや自治会・町内会など法的根拠のない任意組織ならなおのこと、それぞれが手探り状態の中で、試行錯誤、暗中模索しながらも継続してきたのが現状、だからこそおかしいと思えば組織内の会員同士で議論するしかなくて、仮に外野からとやかく言われても気にせず、自分たちで考え、自分たちが実践していくしかないと思うんですが、外圧が気になってしまうのも人の性なんですよね。

ネット上には「PTAとは」を語られている人がとても多い印象を受けていて、個人として、または個々の単位PTAとしてそれぞれの考えがあるはずなのに、日本全国数多あるPTAすべて、同じ趣旨、同じ目的、同じ内容の運営体制じゃなきゃいけないと思っている人が多いように感じますが、本当に同じじゃなきゃいけないんでしょうか。
法的根拠のない任意団体なので同じじゃなくても全然いいと思うんですよね。

また昨今乱用されて拘っておられる「違法」という言葉
契約(入会申込)も委任行為も、意思確認は必須でも書類作成は必須じゃないので、書類がなくても違法とは言えない。もちろんあったほうがトラブルになりにくい、意思確認の証として分かりやすいのは確かです。

また「入退会自由」というなら、入会する側だけでなく、団体側にも「入会を拒む」「退会してもらう」なども含めて周知されて初めて言えるんじゃないかと思います。

最近では、既存の組織ではなく、必要があれば保護者が作ることが正しい、あるいは目的に沿った活動をする、学校にも地域にも縛られないNPOなどのほうがふさわしいとPTAを変えてきた人たちまでPTA維持を勧めているだけと批判する発信も増えてきました。

目的別(志縁)団体と地縁団体はなかなか相容れない現実がありますが、そのような団体が簡単に作れるのか、全国に数多ある小中学校をカバーできるのか、できたとして民主的である、民主的であり続ける保証はあるのは甚だ疑問だし、志同じくして集まった集団だって、皆同じ考えで同じ方向を見て活動しているわけではないんですけどね。

こうしたPTAを巡る争いは、すでにして国民の分断の表れではないか、という鋭い指摘もありますが、そんな印象は確かに受けますね

PTAのお金や活動を学校があてにするから予算がつかないとか、教育格差が生じる可能性があるとかという発信も目にしますが、そもそも自治体の財政力の違いで学校施設の充実度や維持管理にかける度合いも全然違うし、同じ市内でも建築年次よって設備の充実度なんかはずいぶん変わってきます。新しいほど施設も設備も充実していますよね、当事者からすれば羨ましい限りで、格差だと訴える人もいるんじゃないでしょうか。

それは公費で賄うべきと、べき論も大切で未来をそのようにしていくことための活動も必要ですが、現場が求めている今、目の前の事案をどう解決するかも必要じゃないかと思います。比較してどっちがいいとか悪いじゃないんですよね。

「できる」だって能力的にできると時間的にできるがあります。

自分が体験的に知らないことを軽視して簡単なものだと侮っていいわけじゃない。

他にも団体のおそろいのTシャツとネット上でのおそろいのアイコンの違いは何?

相手が反論しないのは主張を認めたことという一択の結論、実は相手にしていないだけかもしれないですよ

 

 

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