ゼロリスクを求めますか | PTAはPTA

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私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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日経平均株価の終値が史上最高値を更新、新NISAのスタートを迎え投資熱が高まっています。

投資ではハイリスク・ハイリターンとよく言われますが、投資する側としてはリスクを極力減らしたい、誰もがローリスク・ハイリターンを望んでいると思いますが、近年はあらゆることで慎重路線、堅実的、もっと言えば、リスクが全くない状態、100%安全を追求するゼロリスク思考が増えてきているように感じます。

日々の暮らしの中で、あるいは原発問題やコロナワクチンの副作用など、事故・災害・疾病などの可能性や危険性を、限りなくゼロに近づけたいというのは共通で、どの分野も日々努力を続けておられると思いますが、絶対安全(リスクがゼロ)というの残念ながら現代社会ではあり得ないのも紛れもない事実、そのことは誰もが十分頭で理解されていると思います。

しかし、人というのは欲張りなのか、リスクゼロ以外のコトは認められない、ちょっとでもリスクが残っていると、「こういうケースがある、この時はどうするんだ」「リスクを放置していいのか」と憤る人がネット上でもリアルでもとても多い気がします。

ただ、全てのことにおいてゼロリスクを求めているかと言えばそうでもなくて、私にとっての、あるいは私の感じるリスク、または自分のお気に召さないことに対してのみ求めるなどに対してと、限定されているようにも感じます。

そういう人たちは、リスクがあることはもちろん、リスクの軽減や保険のようにリスク移転をすることについてもリスクを放置しているように見えて納得できないらしいです。

完璧主義でリスクが存在すること自体が許せないのか、リスクがゼロにならないことを承知の上で主体(相手を批判したいだけなのかよくわかりませんが、特徴的なことは主体が自分ではない誰かになっていることです。

学校や子ども関連でよく話題に上がる通学路の安全確保についても同じような印象を受けます。

登下校中の通学路で事件や事故が起き、それらが報道されるたびに学校、教育委員会、そして文科省に対して安全確保の対応を求めるメディアはじめ評論家や一般の人たちを本当によく目にします。
それだけでなく、放課後の学校外で子どもたちが起こした不祥事(万引きやけんか、徘徊など)についても、学校に一報を入れ教職員に対応を求めるケースも全然珍しくなく、とても多い印象があります。

私の子ども時代から学園ドラマでもPTAの人たちが学校に対して詰め寄るシーンなどが当たり前であるかのように製作され放映されていましたので、世間一般の常識として受け止められているかもしれません。


でも、冷静に考えてみるとどうなんでしょう?
学校や教職員が対応することでしょうか?

確かに学校は法律で学校安全計画の作成と実施が求められ、通学路は各学校が指定しているので、より安全な経路を指定する責任は学校にあると思います。
でも、学校、教師の役割としては交通安全のルールを教えることや保護者・警察、行政、地域住民等と連携をすることであって、通学中の見守りや学校外での対応など日常的な安全確保までの責任があるとは記されていません。

学校での事故によるケガなどを補償する保険には、登下校中も「学校管理下」の範囲、補償の対象なので誤解されやすいですが、保険対象=学校の責任ではなく安全確保の基本は保護者にあり、広く解釈すれば地域も含め学校以外担うべき業務と整理されています。

もちろん教職員が横断歩道や通学路で交通安全を呼びかけたり、集団下校に付き添っている例もありますが、それ必須(マスト)ではなく、地域の交通安全や治安維持を担う警察、必要箇所へのガードレール設置などを担う道路管理者、そして子どもたちを見守る保護者含め地域の皆さんと情報を共有、連携して安全確保に努めることが記されています。

自分も子どもたちも小学生時代は集団登校(通学班)でした。
低学年、特に1年生は最上級性がお迎えに行ったり、特徴のあるお子さんや未就学児がいる保護者の方は、子ども一人だけ通学しないことにとても感謝されていて、直接お礼を言われたこともありました。
集団登校は異年齢交流の原点だし、みんな順繰りなんですけどね。
お子さんの背中を心配そうにいつまでも見送っている保護者の姿は今も見かけます。

外国籍の人は、子ども一人で、あるいは子どもたちだけでの登下校は考えられないようで、多くの保護者が学校まで送迎されています。

車のエンジン音や排気ガスのにおい、工場からのにおいや音、植物、カエルや蛇、カタツムリなど生き物たちに触れながら、毎日視覚だけでなく、音や香り、時には直接触れるなど日常を五感で感じながら大人なら10分弱程度の距離を30分くらいかけて歩いていたことを思い出します。鬼ごっこや缶蹴りをしながら全員揃うのを待っていて、自分たちより遠くの通学班が見えたら出発の合図だった、そんな記憶です。

当時は、旗当番や保護者の付き添い、見守りボランティアなどなかった時代ですが、途中で出会う大人の人とは挨拶を交わしていたし、ルートから外れたり、悪ふざけをしていると、容赦なくお叱りの言葉が飛んできました

そして何かあれば学校ではなく保護者に連絡をされていました。ある程度顔の見える関係で、緩く地域全体で見守っている雰囲気があったということでしょうか。

自分が保護者となり、田舎でもそういう関係性がどんどん希薄化していることに気づかされましたが、一方で何度か横断歩道に立っているうちに子供たちの顔と名前が一致していきます。全く聞こえなかった子どもからのあいさつの声が少しずつ聞こえるようにもなっていきます。
そして一人ひとりの表情からその日の体調や心情がうっすらと伝わってきます。
交通指導員さんも同じようなことを仰っていて、内容によっては保護者や学校と情報を共有されていました。

リスク管理も含め通学団の是非については様々なご意見があります。
もちろん地域性や道路・交通事情もあるので一概には語れないと思いますが、私は自分が子ども時代も保護者になってからも、そして今、毎朝の車窓の通学風景を見ていても、集団登校(通学班)はあったほうがいいと思っています。

フード付きの服はダメ、シャーペンはダメ、水筒の中身はお茶か水など、色々な規制があって自由がないと思う反面それは個ではなく全体を考えての最大公約数での様々な事故防止、リスク軽減という意味での制約だったと思います。

また、日本の若者が自民党支持で右傾化しているという説があって、これからの先行きを懸念する声があります

しかし、どうもその説は違っていて、超高齢社会の中で若者は高齢者に押しつぶされるかもと不安を抱、福祉社会をめざす(自称)リベラル政党が「保守」、ネオリベ(新自由主義)的な改革を唱える自民や維新が「革新」政党なのだそうです。

特に10~20代は、アベノミクスや憲法改正、積極外交、内閣人事局の設置や維新の大阪都構想や道州制などは今までにない、どちらも改革志向にある革新と映る一方で、その抵抗勢力である護憲派や守旧派の立憲民主や国民民主、共産党はリベラルとは逆の保守、つまり「改革派」の自民党、「抵抗勢力」の野党(立憲民主、国民民主、共産党)という構図で捉えていて私たち50代以上は自民党や維新を「保守」、立憲や国民民主、共産党を「リベラル」だと捉えているという世代間に全く真逆の、大きなギャップがあるようです。

なるほどねえ。

そういえば、本当に困っている人への想像力こそ、異なる人々の共同的な意思決定だと語っている人が、PTAなどの既存組織がなくても(個で)できる、困らない」とよく語られています。


しかし自分(の子ども)は困らない・できる=みんな(の子どもも)困らない・できるではないと思います。

 

この言葉は自己責任論にも聞こえて、本当に困っている人への想像力があるとはとても思えないんですけどね。

 

 

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