続 大人たちの課題 これからどうするの? | PTAはPTA

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私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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再雇用になり以前に所属していた部署に異動して間もなく一年、取引先も顔なじみでほっとした半面、決裁権はなく職責は現役当時と同等、給料激減、培ってきた知見の再活用と言われましたが、自分も、そして同じ部署の現役の皆さんもどう振る舞い、どう扱ったらいいのか困惑の一年だったと思います。

他社の友人や諸先輩に聞くと、概ね同じような感じ、大企業だと定年直前に系列会社への出向もあるようでした。

私の会社は今年度から5年かけて65歳定年とする制度にしましたが、60歳で役職定年になるようです。当面の間は、現役、現役役職定年、再雇用役職者、再雇用社員と様々な立場の人たちが混在する過渡期が続くため、困惑度は増すだろうと懸念します。

私個人の再雇用でのスタンスは「見守る」に主軸
一線を退いたので部署の方針決定には原則口を挟まない、アドバイスはする、取引先との繋ぎ役に徹する、必要なら職責から前面に立つ。作業などの労力は惜しまない。

こうした振る舞いや扱いは、職場に限らず、例えば部活やサークル、PTAなどの団体やグループ、関わった行事など様々なところで当て嵌まると思います。

特に自分が企画したり、立ち上げた事業、変革した団体のことなどは、意図や目的が明確かつ思い入れが強い分だけ、一線を退いた後もその動向がとても気になるものです。

自分の思いや意図と同じ方向ならいいんですが、違う方向に向かうことは往々にしてあり、それを簡単に受け入れられないのが人の心情だったりします。
自分の主張や思いが正しいと思えば思うほど、口を挟まずにはいられないみたいです。

当時の意図が伝わっていない、間違った解釈をされていると感じたことは私にもあって、在籍時なら、経緯含め意図を改めてお伝えはしますが、最終的な判断・決定には、口は挟みません。ましてや会員OB・外部なら論外。

人は時間とともに関心や満足感が減少する、「飽きてしまう」いきものらしいので、大小問わず何かしらの変化を求めるのは自然なふるまい。

また、当初は意義あったものも、関わる人の入れ替わりや経年によってその意義も存在自体も薄れたり変わっていくのも、ある意味自然なこと。

制度や仕組み、組織が疲労を起こすと改善を図ろうとしますが、それが場当たり的でその場を繕うような改善だと、むしろ事態を悪化させ改悪となります。理念を忘れ、新しい理念もないのに対処療法的な修正をすると、疲労は一気に高まってしまいます。

逆にずっと変わらず同じ方式、形態、内容で、傍からは形骸化しているように見えても、関わる人たちの意識が全く違ってきていることもあります。ちゃんと話を聞いてみないと外からではわからないことが多かったと感じています。

外部やOBが意見をいうことは全然いいと思いますが、継続含めどうするか、どうあるべきかは当事者の皆さんが自分たちで決めること、OB・外野は当事者間がしっかりと議論するのを見守ること、アドバイスすることくらいしかできないと私は思います。

しかし、リアルでもネット上でも黙ってられない人はいらっしゃるようで、以前は活動や運営をとても熱心に、懸命に取り組まれただろう人たちゆえに、第一線を退いた後も、気になって仕方ないのでしょう、口を挟まずにはいられないという人の発信割合が結構高いように感じていました。
正直、現役世代にとってはありがたさを感じつつも鬱陶しかったでしょうね、反省です。

地域性もあると思います。
私が現役の頃も何年も前のOBの声が聞こえてきたことがありました。
児童数も会員数もその頃の3分の1程度まで減少している現実を考えずにだったので、実情をお伝えし、できる範囲で取り組んでいくとお答えした記憶があります。

最近は、これは私の感覚ですが、
先に述べた人たちの発信は減り、過去に組織運営や事業運営などに関わり大きな変革をもたらした人たちや、ご自身が所属した(させられた)PTAや自治会、子ども会に不信感からか否定的な人、あるいは自らそこから離れて久しいと思える人たちの発信が増え、それは現役世代の発信よりも多い気がします。

中にはそれはいつの(何年前の)話?って思えるデータや画像を貼り付けての発信も散見され、各団体の過去も現在も未来もごっちゃ混ぜになってのネガティブキャンペーン的な発信や、それぞれの現実を無視したご自身の掲げる理想論と比較してのダメ出し発信の割合が高くなったように感じます。

人は変われど変革時と変わらぬ思いで継続的に活動している団体や事業もあれば、全く違う方向へ舵を切った、または団体や事業自体がなくなった、一から違う団体や事業を立ち上げた、変革後に元に戻った団体や事業など様々です。

どれも当事者の皆さんがよく話し合って決めたことなら、それぞれにとってベターな選択で決定だと思います。

しかし、よく話し合いもせず、会員の納得感もないままに、場当たり的な、あるいは運営側の強い言葉や強権発動的な行動で舵を切っての決定だと、比較的短い期間で揺り戻しが起きる、そんなケースが多いように感じました。

唯一無二の正解などない中で、過去の成功例や自身の変革がベスト、もしくは自身の理想論を正論にすり替えて、○×批評をされている人も結構いらっしゃいます。

ネット上での発信だけならいいんですけど、まさかリアル現場にちょっかい出していないですよね、ってちょっと心配。

百歩譲って地域性も現状も内情もご存じのリアル現場ならまだしも、もし全くご存じないリアル現場にちょっかいを出されているなら、私なら、めっちゃ怖いので、多分全力で防御します。

時代の流れは早くて、学校関係でいえば、法律で設置が努力義務化されたので、これからは全国的にコミュニティスクール(学校運営協議会は教育行政による協議体、地域学校協働本部は社会教育に関する実働部隊)が増えていくと思われますが、本当に実働可能でしょうか、形式だけに終わってしまわないでしょうか。

民主党政権時代に「新しい公共」を宣言してから15年余が経ちましたが、時代が逆戻りしたかのように最近では、教育のみならず日常生活に関わる大半は官(公助)で賄うべきで、少しだけ個(自助)が補う、皆で人々を支え合う共助という考えがあまりない発信をよく目にするようになりました。諸外国とは真逆の発想だなって思います。

官(公助)と個(自助)だけではできない、または格差が広がることは分かっているはずなのに。

子ども周辺だけ見ても
働き方改革を唱えても、保護者は仕事が忙しいを理由として、主体的に関わったり協力することが難しいという。
個(自助)でできるから共助の必要性を感じない。やらなくていい。
そんな声がある一方で、
職場の若い世代の同僚たちと話していると、私たちとは違って、学生時代も家庭内でも、もちろん職場でも性別に関係なく役割分担をしているように思います。

通学路の旗当番や学校行事、地域清掃など以前より男性の姿を多く見かけるようになったのは、そういうことか、決して気のせいではなかったんですね。

労働人口の減少、定年延長に伴い、地域活動を担う皆さんの年齢がより高齢化、人数も減少傾向
心情的には子は地域の宝、現実は子でも孫でもない子どもたちへの協力には消極的な人が増加傾向
教職員の負担過多は避けたい。

絶対的にマンパワーが減少していく中で、どうしたらいいのでしょう?

勉強以外の行事や活動の縮小・削減・廃止の方向へ進み、学校は勉強するだけの場所となっていくかも。
総合や生活、部活動含め社会教育・社会生活的な経験は学校の外で、地域の外で、各家庭の責任において行うことになっていくかも。

個(自助)での対応は持てる者にとっては可能ですが、持たざる者は対応(経験)できないことが増えていき、格差は広がっていくばかりのような気がします。

それでいいのでしょうか?若い世代も子どもたちもそれを望んでいるのでしょうか

政治が悪い。
国や行政、自治体が悪い。
制度が問題だ
国民性が問題だ。

そうかもしれません。
だとしても
私は?
貴方は?

誰かの、巨大な仮想敵の責任だと言っていれば解決に向かうのでしょうか。

私たち世の大人たちに突きつけられた、とても大きな課題だと思います。

 

 

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