卒業シーズンに思う | PTAはPTA

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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2月に入ると「卒業」という言葉を聞く回数が増えてくるのと同時に、学校やPTAの話題を見聞きする回数も増えてきますね。

自分の卒業式と保護者として参列した卒業式、あるいは来賓として参列させてもらった卒業式、それぞれの卒業式の記憶はどのくらい残っているでしょう?
皆さんどうですか?

自分の卒業(園)式の記憶
保育園の卒園式の記憶が恥ずかしながら全くありません。
思い出すのは、路線バスの定期券で通園していたこと近所の一つ上の人たちに子分のようにいつもくっついていたこと。
年長の時、交通事故で半年通園できなかったこと。
発表会の白雪姫で七人のこびとのまとめ役をしてほめられたこと。

小学校の卒業式
体育館がなかったので、隣接の公民館の講堂で卒業式
これまでは代表の答辞だったのが、全員分担制によるお別れの言葉に変わったこと。
余計な音を出すことが憚れるほど厳粛だった印象があること。
他には健康優良児の表彰をしてもらったこと。
卒業証書授与は壇上、授与の際に校長先生が一人ずつコメントを述べてくださったのが印象的。
また、卒業前に2~3人グループと校長室で一緒に給食を食べながらの将来について懇談してくださったことが、保護者となりPTA事業「校長室へ行こう」企画の原点となったこと。
引っ越しで違う中学に通う女の子が教室で卒業証書を受け取るときに大号泣したこと。
卒業した3日後、友だちのお父さんが急逝され、クラスみんなでお葬式に参列したこと。

中学校の卒業式
卒業式が体育館の竣工記念(こけら落とし)でリハーサルと本番の2回使用したこと。
一旦帰宅後、母校(小学校)で第2ボタンを渡したこと。
公立高校入試の2日前だったこと、式典内容の記憶はほとんどありません。

高校の卒業式
優秀賞で表彰してもらったこと。
彼女(同じクラス)や後輩たちと昇降口で何枚も写真を撮ったこと。
担任含めクラス全員と喫茶店で卒業ランチをしたこと。
まだ、大学入学試験があるにもかかわらず友人宅で夜遅くまで騒いだこと。
彼女とまともに話せず、その後別れを告げられ、失意のどん底で大学に入学したこと。

大学の卒業式
いつもの仲間と高速式典会場の本部(本校)までドライブ気分で行ったこと。
式典会場には入れず、学部ごとに教室で待たされたこと。
学校・学部順位まで入った成績表を初めてもらったこと。
いつもの仲間と少し足を延ばして湖畔のヴィラで夕陽を見ながらディナーをしたこと。
友だちが下りるインターチェンジを間違えて合流までに時間がかかったこと。

小・中・高・大、いずれも自分中心で、小・中・高は母親が参列してくれていましたが、小学校の行き帰り以外は自宅まで顔を合わすことも言葉を交わすこともなかったと記憶しています。悪いコトしちゃったかな。

あの頃、あの時代は、親と一緒にいることが恥ずかしくて、部活の試合も見に来ないでって感じでした。実際、親は仕事を休むことも難しくて、参列すること自体がとても大変だったと思います。
でも、高校最後の大会は私に見つからないように見に来ていたと後で聞きました。

自分の子どもたちはどんな行事も基本「見に来てほしい」だったので自分とは全く真逆ですね。
交通指導員さんや授業や行事でお世話になった地域の皆さん、駐在さんなどが式に参列してくれたことを喜んでいました。子どもたちとはお互いが顔を覚えるくらいの繋がりがあり、知らぬは親ばかりって感じでした

子どもたちの卒業(園)式の記憶
幼稚・保育園、小・中・高までは長子の高校以外は夫婦揃って参列できました。

幼稚・保育園、小学校は、自分たちの頃に比べると、厳粛さを残しつつも式典というより発表会的、全員参加型なので一人ひとり役割もあって、成長した姿が目の前で確認できました。会場も壇上を使わず、より身近に感じる平面型でした。

中・高は代表による答辞だったので、卒業証書授与の場面だけ。区切りとしての式典行事という印象でした。
私自身は中学時代が自分史の中で一番の暗黒時代だったこともあるのか、特に長子は友人が不慮の出来事で突然いなくなった影響で2学期は全く登校していなかったので、卒業式後の学校での別れ・余韻も微妙、それを見た私がとてもモヤモヤしていたことを思い出しました。

卒業という節目で自分が当事者の頃は、式典関連でPTAに関する記憶はほとんどありません。
保護者になって、祝辞を考える立場になって、卒業生の時とは全く違う視点で式典を見ている自分に気づきました。


自分がもらった英和辞典や印鑑などどこから(市教委?PTA?学校?)いただいた卒業記念品なのかは、申し訳ないけど全く意識もしていませんでしたが、どちらもとても重宝し、印鑑に至っては今も現役で愛用していて、記念品をもらえたことは素直に嬉しかったです。


卒対(卒業対策委員会)はなく、最終学年のクラス委員がクラスごとに謝恩会の可否を含め企画する形だったので、卒対って何をするの?っていうのが私の率直な感想で、その役割が大変かどうかも正直分かりません。

また、よく話題に上がるコサージュ・胸花ですが、小・中・高いずれも自分がつけた記憶すらないんですけど、我が子の小・中学校では在校生がペーパーフラワーで作成していたので、自分たちの頃もそうだったんだろうと思います。ごめんなさい。
入退場口や会場内の装飾も在校生の手作り、指導や原材料の供給、原材料費をPTAが負担する形、学校もしくは児童会とPTAの共催とも取れます。

PTAからの卒業記念は子どもたちが総合の授業で上絵を描いたマグカップ。これも原材料費と焼成費、技術指導料をPTAが負担しているので、PTAと学校の共催事業とも言えますが、統合校になった今はどうされているかは分かりません。

焼成失敗を想定して余分に素地は仕入れるし、顔料や指導料、焼成費はざっくりなので、この費用を会員・非会員で区別するほうが難しいんですよね。

こうやって記憶を呼び戻してみると、私の暮らす地域では色々なことを子どもたちが自分たちの手作りでやってきて、長い間受け継がれていることが分かります。

私たちの頃は土曜日も授業があったので、時間的に余裕があったんでしょう、小学校の卒業アルバムは先生が撮った写真(モノクロ)を買って、自分たちで自由に貼って作るオリジナルアルバムだったし、中学はクラスや部活のコーナーは子どもたちが写真を選定、アルバムの表紙は美術の時間に木版画で作成していました。

5日制やゆとり教育の導入で、主要5教科以外のコマ数が減っている今、そこまで子どもたちが時間をかけて作成するのは物理的に難しいでしょう。

教職員の人数法律で決められているので、全学年単学級の小規模校だと校長・副校長を除くと10人前後、児童生徒数が少なくても行事に係る最低人工は必要なので、教職員だけで実施するには無理があったり、全く余裕がない行事が出てくることが、全体を俯瞰してみると見えてきます。

いや、行事に参加していれば見えてくるはずですが、なかなか見ようとしない、あるいは見て見ぬふりという現実があると言ったほうが正しいかもしれません。

 

学校サポーター制度が導入されたのもこの頃だった気がします。
やりたい人がやればいいとは違う意味で、私は気づいた人が手を貸したり、手伝ったりと、できる人ができることをすれば、もっと円滑に行事ができると思っていて、自分はそうしてきましたが、自分の意思よりも他人の目が気になってしまうのか、気づいても頼まれなければ手が出しにくい、指示してほしい、おせっかいと思われたくないという人は多かったと思います

 

また、事業や行事運営にかかわったことがなければ、何に手を貸せば、何を手伝えばいいのかわからないという人は多いと思うんです。


だから指示が欲しいというのは協力したいけど何をすればいいのか・・・という人が一定数いらっしゃる反面、指示すれば「やらされた」「強制だ」「同調だ」と口にする人必ずいらっしゃいます。

 

お願いさえも強制と言われてしまうことがありますから、本当に難しい時代になりましたね。

 

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