居場所というと、物理的に人がいる場所のことで、住むところや活動の場を指しますが、最近では、住むところや活動する物理的な場所はあるのに、自分の「居場所がない」と感じる人が多く、「心の居場所」といった精神的なことを指すことが多くなったと言われています。
心の居場所は、心の拠り所となる関係性が保たれている、安心感がある、ありのままの自分が受容される、自分の役割がある場という定義がされているようです。
調査によると、一人でいる空間が自分の居場所だと答える人が結構多く、近年ソロキャンプ、ひとり映画、ひとり焼肉などがポピュラーな日本はおひとりさま天国と呼ばれています。
心理学的に見ると、自分自身としっかりと向き合って理解でき、自分の軸を持つことができる「一人でいられる力」は大人になる過程では必要で、そのおかげで人と関わることも心地よく感じられるのだそうです。
会社や学校、集団(グループ)など社会の一員として自分以外の人と関わっていくことは避けられない中、どこかに、何かに属し、誰かと一緒に過ごす姿を傍から見ると居場所があるように映っていても、本人は居場所がないと感じていることが結構あると思います。
ありのままの自分を出すと嫌われてしまうかもって不安を感じ、自分らしさを表に出せず、結果、自分の存在が認めてもらえず、自分もそこを居場所と感じられない。
その場所から離れられるならいいのですが、学校、学級、職場などは離脱することがなかなか難しいですよね。
逆に集団(グループ)の中で全く目立たなくて、傍には居心地よくないのかなって映っても、そこに身を置くことで自分は静かに過ごせていられる、集団の中だからこそ一人でいることに安堵感があり、自分の居場所はそこにあるという人もいらっしゃいました。
いずれにおいても、集団(居場所)に身を置く場合、自分にとって居心地いい環境が最初から用意されていることはまずなくて、環境や他の人が自分の機嫌がよくなるように都合よく働きかけてくれるなんてこともないですよね。
居心地って、誰かが作ってくれるものでもなく、誰かに委ねてもよくなるものではなくて、居心地よくするのは自分の振る舞い次第じゃないかと感じていて、その振舞いをお互いが認め合っているからこそ居心地よく過ごせるのだと思います。
存在を認め合うっていうのがキモですね。
小学校の1学年2クラスから中学では1学年6クラスになり、毎年クラス替えを経験して漠然と思うようになりました。
自分の意思とは関係なく与えられた居場所から離れられない時、居心地がいいかどうかは、他と比較するのではなく、自分もその環境(居心地)を作っている一人なので、居心地がよくなるように自分がどう振舞うか、どう気持ちを整えるかっていうことにかかってくるのではないかと。
時々、居心地よく感じるのは周りの人がいい人ばかりだから、人に恵まれたからという声を耳にすることがありますが、古参のボスが牛耳っていて雰囲気最悪といったような特殊な例は別にして、多くの場合、自分の接し方がよければ、その環境も徐々に自分にとって心地よくなっていくし、接し方が悪ければどんなにいい人の集まりでも居心地のよい環境にはならないと思うんです。
人に恵まれたと言える人は、総じてご本人が周りとよいコミュニケーションをとれるよう努めているからだと感じています。
誰に対しても分け隔てなく、感じよく接していると、例外はあるものの周囲も徐々に感じよく接してくれるようになるし、逆に自分からは挨拶をちゃんとしない、顔を合わせて話もしない、ニコリともしない。必要なコミュニケーションを自分からは取らないのに、思いどおりにコトが進まなければ不満そうな空気をだせば、仮にそれが正論であって、周囲がみんないい人だったとしても、周囲は好意的に接してくれなくなると思います。
居心地いい環境は、最初から用意されているものでもなく、誰かが作ってくれるものでもなく、自分で作っていくものっていうのはそういうことなんだと思うんですよね。
また、居心地のよさは人によって違うので、現状の雰囲気や流れに乗っかるのもよし、自分の考えを主張するもよし、どうしても馴染めなければ一人でいるもよし、可能ならば離れることがあってもいいと思います。
でも、だからと言って、自分の居心地のよい理想の環境(居場所)を作るために、現状を頭ごなしに否定して自分のイメージをいきなり押しつけたって、賛同してもらえるどころか反発が起こるだけだと思います。
現状の環境を築くまでには、長い年月と変化を経てきているので、それを理解しようとしないまま全否定し、新しい方法をぶつけても、よい方向に向かうどころか一層自分にとって悪い方向へ向いてしまうのが現実なんですよね。
どこかに、もっといい居場所あるのではないか?
今の居場所を居心地がいいと思っているのは、勘違いではないか?など
人はいつも、いつの時代も、学校でも社会でも、いくつになっても自分の居心地のいい居場所を探しているんだなって感じています。
それを青い鳥症候群だと指摘する人もいらっしゃいます。
そうかもですね
学校や会社に行けなくなってずっと家にいたり、家にも居場所がなくて街中や繁華街を彷徨っていたりするなど、自分の居場所を、居心地のいい場所を一生懸命探しているんだろうなと自分の経験や子どもが学校へ行けなくなったこと、後輩はじめ身近な人たちの経験談を聞いて痛感しています。
中には現代らしく、ネットやSNS上に自分の居場所や居心地のいい場所を求め、居場所を見つけた人もいらっしゃると思います。
居場所というのは社会の中に答えがあり、居心地は自分の心の中に答えがあって他人が決められるものではなく自分で感じるもの。
何に喜びや安心を感じて、何にストレスや不安を感じるかは人によって違うので、すべての人にとって居心地のいい居場所は「ない」と思いますが、逆にそれぞれが自分の内面に目を向けてきちんと向き合い、居心地についても理解し、それを周りと共有できれば、どこでも居心地のいい場所にできる可能性があると思います、簡単なことではないですけどね。
居心地とリンクするのが、子どもの頃から大人になってもなくならない普遍的な問題「仲間外れ」ですが、違うのは居心地は自分の工夫で対応できるけど、仲間外れは「いじめ」なので工夫では何ともならないこと。
人は知らず知らずのうちに相手との関係を定義していて、定義に従って相手に期待するらしく、期待に沿っている間は居心地がよく、そのバランスが崩れると相手への不信感や攻撃的な気持ち、悲しい気持ちを抱いてしまうらしいです。
また、定義を間違えて過剰な期待や、ずれた期待をしてしまうことも多いらしく、結果的に意に沿わない言動が増えていき、許容ラインを超えると仲間外れなどに移行していくらしいです。
不平不満や攻撃的な言葉ばかり発しているのは、度を超えた、あるいは間違った期待をしているからなのかな?って思った今日この頃。