明治39年(1906年)に産声を上げた南満州鉄道株式会社は日本が敗戦を受け入れた8月15日から約1ヶ月後、その看板を下ろした。ほぼ40年の歴史は、一つの会社の歴史としては、長いとは言えないかもしれない。しかし満鉄が日本近代史に与えた影響を鑑みれば、単に時間的な長さだけで、その評価を下すことはできないだろう。
よく指摘されるように南満州鉄道株式会社は単に「一鉄道会社」という範疇に収まらないスケールを持った極めて特殊な会社であった。鉄道付属地内の土木・教育・衛生に関わる行政にも関わり、そのための必要費用を徴収するという一種の徴税権をも認められていた。つまり、満鉄は付属地内の上下水道や出電気・ガスを整備しただけでなく、公園を作り、学校・図書館を建てるなどインフラ整備に力を注いだ。最盛期には80以上の関連企業を持ち、最大40万人の職員を抱えていたのである。昭和15年版の職員名簿は840頁に及ぶという。こういう点からも満鉄が非常に特殊でしかも大規模な会社であったことがわかる。
一般的には関東軍の手先となり、中国大陸に於ける日本の植民地経営のお先棒を担いだと評価されることもある満鉄である。そういう一面があったことは、否定できないであろう。しかしその様相は<関東軍の手先>と一言で片付けられるほど単純ではなかったように思われる。何せ40万人の職員が居たのである。必ずしも一枚岩とは言えなかった。しかも職員は日本人ばかりではない。満州国の建国理念である「五族協和」(=日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を建前にしろ満鉄も掲げていたので、民族的な背景も異なっていた。また、日本人にしても実力さえあれば、内地での前歴、例えば逮捕歴などもあまり問題にしなかったので、様々な思想を持つ人たちがいた。例えば1942年と1943年には満鉄の代名詞の一つである調査部から44名の逮捕者を出している(満鉄調査部事件)。容疑は当時禁止されていた共産主義の活動に関わったというものであった。現在ではこれは事件そのものが関東軍憲兵隊によるでっち上げであるとされている。しかし前述したように満鉄は日本国内での経歴を問題にしなかったので、この時の逮捕者の多くに共産活動の前歴があった。諜報活動に従事し、時には関東軍の先棒を担いで、より積極的に様々な情報を関東軍にもたらしたとされる「満鉄・調査部」だが、調査部員の中には大陸における日本の帝国主義に反対する立場を取る者も居たのである。この一例からも満鉄が大陸で果たした役割には、様々な側面があったと想像されるだろう。
前置きが長くなった。問題は<弘>の事だ。何度か書いたが、大正2年(1913)に満鉄に入社した<弘>は主に電気畑、特に信号部門を歩くことになる。理科系出身者にとって、鉄道会社の花形部門は車両関係でああろう。事実、調査部を除けば満鉄を有名にしたのは「アジア号」の存在だ。そういう意味では、「信号畑」はあまり脚光を浴びることのない部門ではある。
しかしだからこそと言うべきかもしれないが<弘>は誇りを持って<信号屋>を自称する。<弘>の事を調べ始めてから、元満鉄の<信号屋>に何人か会ったが、よい意味で誇り高き男達であった。例えばある講演会でお話を伺った元満鉄社員で哈爾浜電気区の信号係であった田伏正七氏は次のように私に語る。
「鉄道の一丁目一番地は、<早く>でも<大量に>でもない。<安全に>だ。そのために何より重要なのが<信号>なのです」と。
実際大きな事故は信号に起因するものが少なくない。例えば約20年前に42名の死亡者を出した「信楽高原鉄道列車衝突事故」は信楽駅の信号不具合などいくつもの信号を巡るトラブルが事故原因とであることがわかっている。この路線は当時「信楽高原鉄道」と<JR西日本>が共同運行していた。事故の遠因は両会社の意思の疎通が不十分であったことと、両者の信号システムが異なることにあったという。我々素人が想像する以上に鉄道の安全運行に於いて信号が重要な役割を果たしているのである。
<弘>が欧米留学を命じられたのも将来の大量輸送時代に備えて新たな信号システムを構築するための調査・研究であった。<弘>の留学成果が実るのはかなり後になってからであるが、<弘>が中心となって、満鉄各線の信号システムは構築されたのだ。つまり<弘>は<満鉄の信号屋の親分>であったのだ。
これは私の言葉ではない。前述の田伏氏の言葉だ。「竹口さんをご存知ですか?」という私の質問に田伏氏は「竹口弘さんですね」とフルネームで応じた後、「満鉄の信号屋の親分は竹口弘さんです。親分の名前を知らない子分は居ないでしょう?」と言われたのだ。満鉄が消滅してから65年が経過し、齢90才を超えた田伏氏にとって<弘>は今でも<信号屋の親分>として心の中で生きているのだ。
前述したように満鉄は最大で40万人の職員を抱えていたのでとても一枚岩とは言えない。しかし鉄道の安全運行に於いて職員の結束は何より重要だ。そこで各部署で親睦団体が作られることになる。<信号屋>の親睦団体は<満鉄信号会>といい、昭和9年(1934)に結成された。単なる親睦団体ではなく、会報も発行されるなど、メンバーの信号知識の向上も目的の一つとなっていた。本部は満鉄大連本社鉄道部電気課内に置かれた。

私の手元に一枚の写真がある。そこには「信号会第一回座談会、6-23/1934年」と記されている 。開催場所は「大連満鉄クラブ」とある。 「大連満鉄クラブ」とは大連本社から数分の所にあった(建物自体は現存する)満鉄社員の娯楽施設で、バーや柔剣道場なども備えていたという。真ん中に座る蝶ネクタイの人物の内、左が<弘>だ。自信に溢れた様子が写真からも伺える。それもそのはず、<弘>はこの年の11月、総局の電気課長に昇進したのだった。
その後この「満鉄信号会」は昭和15年に発展的解消をし子会社の<信号屋>も加え<大陸信号会>となった。もちろん会報も発行されるなど、さらに大規模になり、会員数は2240名に達した。会長は何と我らが<竹口弘>である。<弘>は14名の<名誉会員>の中の一人でもあった。つまりこの年<弘>は文字通り、<満鉄の信号屋の親分>となったのである。
よく指摘されるように南満州鉄道株式会社は単に「一鉄道会社」という範疇に収まらないスケールを持った極めて特殊な会社であった。鉄道付属地内の土木・教育・衛生に関わる行政にも関わり、そのための必要費用を徴収するという一種の徴税権をも認められていた。つまり、満鉄は付属地内の上下水道や出電気・ガスを整備しただけでなく、公園を作り、学校・図書館を建てるなどインフラ整備に力を注いだ。最盛期には80以上の関連企業を持ち、最大40万人の職員を抱えていたのである。昭和15年版の職員名簿は840頁に及ぶという。こういう点からも満鉄が非常に特殊でしかも大規模な会社であったことがわかる。
一般的には関東軍の手先となり、中国大陸に於ける日本の植民地経営のお先棒を担いだと評価されることもある満鉄である。そういう一面があったことは、否定できないであろう。しかしその様相は<関東軍の手先>と一言で片付けられるほど単純ではなかったように思われる。何せ40万人の職員が居たのである。必ずしも一枚岩とは言えなかった。しかも職員は日本人ばかりではない。満州国の建国理念である「五族協和」(=日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を建前にしろ満鉄も掲げていたので、民族的な背景も異なっていた。また、日本人にしても実力さえあれば、内地での前歴、例えば逮捕歴などもあまり問題にしなかったので、様々な思想を持つ人たちがいた。例えば1942年と1943年には満鉄の代名詞の一つである調査部から44名の逮捕者を出している(満鉄調査部事件)。容疑は当時禁止されていた共産主義の活動に関わったというものであった。現在ではこれは事件そのものが関東軍憲兵隊によるでっち上げであるとされている。しかし前述したように満鉄は日本国内での経歴を問題にしなかったので、この時の逮捕者の多くに共産活動の前歴があった。諜報活動に従事し、時には関東軍の先棒を担いで、より積極的に様々な情報を関東軍にもたらしたとされる「満鉄・調査部」だが、調査部員の中には大陸における日本の帝国主義に反対する立場を取る者も居たのである。この一例からも満鉄が大陸で果たした役割には、様々な側面があったと想像されるだろう。
前置きが長くなった。問題は<弘>の事だ。何度か書いたが、大正2年(1913)に満鉄に入社した<弘>は主に電気畑、特に信号部門を歩くことになる。理科系出身者にとって、鉄道会社の花形部門は車両関係でああろう。事実、調査部を除けば満鉄を有名にしたのは「アジア号」の存在だ。そういう意味では、「信号畑」はあまり脚光を浴びることのない部門ではある。
しかしだからこそと言うべきかもしれないが<弘>は誇りを持って<信号屋>を自称する。<弘>の事を調べ始めてから、元満鉄の<信号屋>に何人か会ったが、よい意味で誇り高き男達であった。例えばある講演会でお話を伺った元満鉄社員で哈爾浜電気区の信号係であった田伏正七氏は次のように私に語る。
「鉄道の一丁目一番地は、<早く>でも<大量に>でもない。<安全に>だ。そのために何より重要なのが<信号>なのです」と。
実際大きな事故は信号に起因するものが少なくない。例えば約20年前に42名の死亡者を出した「信楽高原鉄道列車衝突事故」は信楽駅の信号不具合などいくつもの信号を巡るトラブルが事故原因とであることがわかっている。この路線は当時「信楽高原鉄道」と<JR西日本>が共同運行していた。事故の遠因は両会社の意思の疎通が不十分であったことと、両者の信号システムが異なることにあったという。我々素人が想像する以上に鉄道の安全運行に於いて信号が重要な役割を果たしているのである。
<弘>が欧米留学を命じられたのも将来の大量輸送時代に備えて新たな信号システムを構築するための調査・研究であった。<弘>の留学成果が実るのはかなり後になってからであるが、<弘>が中心となって、満鉄各線の信号システムは構築されたのだ。つまり<弘>は<満鉄の信号屋の親分>であったのだ。
これは私の言葉ではない。前述の田伏氏の言葉だ。「竹口さんをご存知ですか?」という私の質問に田伏氏は「竹口弘さんですね」とフルネームで応じた後、「満鉄の信号屋の親分は竹口弘さんです。親分の名前を知らない子分は居ないでしょう?」と言われたのだ。満鉄が消滅してから65年が経過し、齢90才を超えた田伏氏にとって<弘>は今でも<信号屋の親分>として心の中で生きているのだ。
前述したように満鉄は最大で40万人の職員を抱えていたのでとても一枚岩とは言えない。しかし鉄道の安全運行に於いて職員の結束は何より重要だ。そこで各部署で親睦団体が作られることになる。<信号屋>の親睦団体は<満鉄信号会>といい、昭和9年(1934)に結成された。単なる親睦団体ではなく、会報も発行されるなど、メンバーの信号知識の向上も目的の一つとなっていた。本部は満鉄大連本社鉄道部電気課内に置かれた。

私の手元に一枚の写真がある。そこには「信号会第一回座談会、6-23/1934年」と記されている 。開催場所は「大連満鉄クラブ」とある。 「大連満鉄クラブ」とは大連本社から数分の所にあった(建物自体は現存する)満鉄社員の娯楽施設で、バーや柔剣道場なども備えていたという。真ん中に座る蝶ネクタイの人物の内、左が<弘>だ。自信に溢れた様子が写真からも伺える。それもそのはず、<弘>はこの年の11月、総局の電気課長に昇進したのだった。
その後この「満鉄信号会」は昭和15年に発展的解消をし子会社の<信号屋>も加え<大陸信号会>となった。もちろん会報も発行されるなど、さらに大規模になり、会員数は2240名に達した。会長は何と我らが<竹口弘>である。<弘>は14名の<名誉会員>の中の一人でもあった。つまりこの年<弘>は文字通り、<満鉄の信号屋の親分>となったのである。




