明治39年(1906年)に産声を上げた南満州鉄道株式会社は日本が敗戦を受け入れた8月15日から約1ヶ月後、その看板を下ろした。ほぼ40年の歴史は、一つの会社の歴史としては、長いとは言えないかもしれない。しかし満鉄が日本近代史に与えた影響を鑑みれば、単に時間的な長さだけで、その評価を下すことはできないだろう。
 よく指摘されるように南満州鉄道株式会社は単に「一鉄道会社」という範疇に収まらないスケールを持った極めて特殊な会社であった。鉄道付属地内の土木・教育・衛生に関わる行政にも関わり、そのための必要費用を徴収するという一種の徴税権をも認められていた。つまり、満鉄は付属地内の上下水道や出電気・ガスを整備しただけでなく、公園を作り、学校・図書館を建てるなどインフラ整備に力を注いだ。最盛期には80以上の関連企業を持ち、最大40万人の職員を抱えていたのである。昭和15年版の職員名簿は840頁に及ぶという。こういう点からも満鉄が非常に特殊でしかも大規模な会社であったことがわかる。


  一般的には関東軍の手先となり、中国大陸に於ける日本の植民地経営のお先棒を担いだと評価されることもある満鉄である。そういう一面があったことは、否定できないであろう。しかしその様相は<関東軍の手先>と一言で片付けられるほど単純ではなかったように思われる。何せ40万人の職員が居たのである。必ずしも一枚岩とは言えなかった。しかも職員は日本人ばかりではない。満州国の建国理念である「五族協和」(=日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を建前にしろ満鉄も掲げていたので、民族的な背景も異なっていた。また、日本人にしても実力さえあれば、内地での前歴、例えば逮捕歴などもあまり問題にしなかったので、様々な思想を持つ人たちがいた。例えば1942年と1943年には満鉄の代名詞の一つである調査部から44名の逮捕者を出している(満鉄調査部事件)。容疑は当時禁止されていた共産主義の活動に関わったというものであった。現在ではこれは事件そのものが関東軍憲兵隊によるでっち上げであるとされている。しかし前述したように満鉄は日本国内での経歴を問題にしなかったので、この時の逮捕者の多くに共産活動の前歴があった。諜報活動に従事し、時には関東軍の先棒を担いで、より積極的に様々な情報を関東軍にもたらしたとされる「満鉄・調査部」だが、調査部員の中には大陸における日本の帝国主義に反対する立場を取る者も居たのである。この一例からも満鉄が大陸で果たした役割には、様々な側面があったと想像されるだろう。

 前置きが長くなった問題は<弘>の事だ何度か書いたが、大正2年(1913)に満鉄に入社した<弘>は主に電気畑、特に信号部門を歩くことになる。理科系出身者にとって、鉄道会社の花形部門は車両関係でああろう。事実、調査部を除けば満鉄を有名にしたのは「アジア号」の存在だ。そういう意味では、「信号畑」はあまり脚光を浴びることのない部門ではある。
 しかしだからこそと言うべきかもしれないが<弘>は誇りを持って<信号屋>を自称する。<弘>の事を調べ始めてから、元満鉄の<信号屋>に何人か会ったが、よい意味で誇り高き男達であった。例えばある講演会でお話を伺った元満鉄社員で哈爾浜電気区の信号係であった田伏正七氏は次のように私に語る。
鉄道の一丁目一番地は、<早く>でも<大量に>でもない。<安全に>だ。そのために何より重要なのが<信号>なのです」と
 実際大きな事故は信号に起因するものが少なくない。例えば約20年前に42名の死亡者を出した「信楽高原鉄道列車衝突事故」は信楽駅の信号不具合などいくつもの信号を巡るトラブルが事故原因とであることがわかっている。この路線は当時「信楽高原鉄道」と<JR西日本>が共同運行していた。事故の遠因は両会社の意思の疎通が不十分であったことと、両者の信号システムが異なることにあったという。我々素人が想像する以上に鉄道の安全運行に於いて信号が重要な役割を果たしているのである。

 <弘>が欧米留学を命じられたのも将来の大量輸送時代に備えて新たな信号システムを構築するための調査・研究であった。<弘>の留学成果が実るのはかなり後になってからであるが、<弘>が中心となって、満鉄各線の信号システムは構築されたのだ。つまり
<弘>は<満鉄の信号屋の親分>であったのだ
 これは私の言葉ではない。前述の田伏氏の言葉だ。「竹口さんをご存知ですか?」という私の質問に田伏氏は「竹口弘さんですね」とフルネームで応じた後、「満鉄の信号屋の親分は竹口弘さんです。親分の名前を知らない子分は居ないでしょう?」と言われたのだ。満鉄が消滅してから65年が経過し、齢90才を超えた田伏氏にとって<弘>は今でも<信号屋の親分>として心の中で生きているのだ


 前述したように満鉄は最大で40万人の職員を抱えていたのでとても一枚岩とは言えない。しかし鉄道の安全運行に於いて職員の結束は何より重要だ。そこで各部署で親睦団体が作られることになる。<信号屋>の親睦団体は<満鉄信号会>といい、昭和9年(1934)に結成された。単なる親睦団体ではなく、会報も発行されるなど、メンバーの信号知識の向上も目的の一つとなっていた。本部は満鉄大連本社鉄道部電気課内に置かれた。
 $弘の手紙-第一回満鉄信号会
 私の手元に一枚の写真がある。そこには「信号会第一回座談会、6-23/1934年」と記されている 。開催場所は「大連満鉄クラブ」とある。 「大連満鉄クラブ」とは大連本社から数分の所にあった(建物自体は現存する)満鉄社員の娯楽施設で、バーや柔剣道場なども備えていたという。真ん中に座る蝶ネクタイの人物の内、左が<弘>だ。自信に溢れた様子が写真からも伺える。それもそのはず、<弘>はこの年の11月、総局の電気課長に昇進したのだった。
 その後この「満鉄信号会」は昭和15年に発展的解消をし子会社の<信号屋>も加え<大陸信号会>となった。もちろん会報も発行されるなど、さらに大規模になり、会員数は2240名に達した。会長は何と我らが<竹口弘>である<弘>は14名の<名誉会員>の中の一人でもあった。つまりこの年<弘>は文字通り、<満鉄の信号屋の親分>となったのである。
 いまさら書くことでもないが、<弘>の足跡を辿る旅は、既に終わり、9月半ばには帰国している。当初、旅の間はほぼタイムラグなく、ブログをアップすることを目標としていた。しかし現地での調査が思うように進まず、中々はかばかしい成果が上げられない。するとブログの更新が億劫というか、書く事が限られるようになり、徐々にその頻度が少なくなる。そうこうするうち、旅は終わりを告げ、帰国してから時間がかなり経っているのに、その報告は中途半端なままだ。意志薄弱なのである。これではいかん、フンドシを締め直すことにしよう。そんなときは<弘の手紙>の原本に立ち返ることに限るのだ、と空元気を出してみる。

 <弘の手紙>の原本は、友人Zが書斎として使用しているマンションの一室にある。90年の時を経て、かなり劣化しているので、<弘の手紙>の翻刻を依頼してきた友人Zが出した唯一の条件はこの原本をこの一室から出さないことであった。もちろんコピーは厳禁だ。その代わり、この書斎を自由に使い、翻刻作業をする許可を得た。有り難いことである。作業は昨年末より、スタートして、途中少しのブランクを経て、春先に一応終了した。そしてこの作業を通じてすっかりその魅力に取り付かれた私は、5月末から、<弘>の足跡を辿る旅に出たのである。まずはアメリカへ。一旦帰国して、今度はヨーロッパへ。ヨーロッパの途中で、再調査のためニューヨークへもう一度立ち寄り、ロンドン経由で帰国したのが前述したように9月半ばである。(既に11月だ・・・涙)。
 
 <弘>の書く文字は味わいはあるが、癖字で、読みにくいところが少なくない。その読みづらい原本を翻刻し、誰でも読めるようにワープロソフトでパソコンに入力するのが、友人Zから受けた最初の依頼であり、そして私が行った最初の作業でもあった。<弘>の癖字はワープロソフトの明朝体となって画面上に蘇り、ずいぶんと読みやすくなった。そして兎にも角にもパソコンさえあれば、どこででも<弘の手紙>を読めるようになったのだ。印刷すればもっと手軽に読むことができる。当然ながら、旅の途中も折に触れてと言うか、毎日のように<弘の手紙>をパソコンの画面上で確認するのが日課となる。調査が思い通りに進まないだけに、「困ったときには<弘の手紙>へ」という原則に従った。何かヒントやきっかけを貰うべく、まるで<弘>の声を聴くかのように、<弘の手紙>を何度も読み直した。<弘>が何かヒントを呟かないかと文字通り耳を澄ませながらのだ作業だ。しかし画面上の文字にいくら耳を近づけても<弘>の声が聞き取れない。確かに何かを呟いているのだ。でもその声はあまりにも小さかった。90年という時間がその声を小さくしていると感じていた。

 帰国してから、友人Zに旅の報告をすべく再会した。旅のエピソードを語る中で、友人Zが「おまえが、翻刻した<弘の手紙>はずいぶん間違ってるぞ」と指摘された。実を言うと翻刻作業は一応終了したが、読めない字も少なくなく、「て・に・を・は」レベルの間違いもあると感じてはいた。意味の通りにくい箇所もある。ただ大勢に影響はないとどこかでたかを括っていたのだ、<弘の手紙>の価値は少々の間違えでは変わらないと。大馬鹿である。

 もちろん間違いは少ない方が良い。友人Zの指摘を受け、再び、例の一室を使わせてもらう事にした。久し振りに<弘の手紙>の原本と再会したのだ。時間は限られているので、早速照合作業に入る。確かに友人が指摘するように間違いがいくつも見つかる。単純な打ち間違えだと思っていた「て・を・は」でもその間違いで文意が変わってしまう場合もある。今更ながら、自分の認識の甘さに頭を抱える。
 それ以上に驚いたことがある。それは<弘の手紙>の原本とパソコン上の本文とはたとえ翻刻の間違えがなくとも等価なものではないということだ。両者は表面的には同じ文字が並んでいるが、それを読んで入ってくる情報は全く異なる。
弘の手紙-弘の手紙原本
 とにかく<弘の手紙>の原本は五感に訴えるのだ
 まずは嗅覚。今まで意識していなかったが、鼻をクンクンさせると文字通り紙とインクの匂いが立ち上ってくる。そうなのだ、<弘>の匂いだ。実際には<弘>に会ったことはない私であるが、なぜか懐かしさを感じさせる匂いである。
 そして触覚。紙の劣化が進んでいるから丁寧に<手紙>を捲る。すると<弘>の文字を確かに手に感じることができる。パソコン上の画面では決して味わえない感覚だ。さらに「ここには<弘>の指紋も残っているに違いない」とバカなことも考えて、一人悦に入ってしまう。 
さらに聴覚。パソコンからは聞こえなかった<弘>の声が確かに聞こえる。例えば大正11年1月1日。新年をニューヨーク州ロチェスターで迎えた<弘>は市内在住の日本人宅で過ごしている。そこで日本人7名が集合し、新年会を催している。餅を堪能しつつ、スキヤキに舌鼓を打つ。当時のアメリカは禁酒時代であったが、当然お屠蘇も入り、メートルは上がる一方。すると自然に「何か余興を」ということになり、<弘>の番が回ってきた。

<自分は鴨緑江節と安来節とをやった。アメリカと云ふ土地で日本歌は一寸変だがモチを喰って歌を歌へばこれで正月も満足にすませたわけである。>(大正11年1月1日付)。

 鴨緑江節は俗謡の一つで鴨緑江に出かせぎに行った筏師(いかだし)に歌われて日本各地に伝わり、大正年間、流行歌として親しまれたものだ。<弘>の次女(友人Zの母)によれば、<弘>はかなり音痴だったらしい。だから私には<朝鮮と、ヨイショ支那の境のアノ鴨緑江流す筏は、アラよけれども、ヨイショ雪や氷にヤッコラ、閉ざされてヨ>と歌う<弘>の声が文字の間から調子外れに聞こえてくる。その後に始まる日米を巡る議論では、<弘>の声が一番力強く聞こえてくる。
 もちろん一番重要なのは視覚だ。パソコン上の文字は明朝体できちんと並んでいる。当然ながら、原本の文字はそういうわけには、いかない。大きさも異なれば、その濃淡も異なる。丁寧に書いてある箇所もあれば、書き急いでいる箇所もある。先のロチェスターの新年会は余興の後、前述したように徹夜の議論となるのであるが、そこの文字の筆圧が他の箇所よりも明らかに高い。日米関係が微妙な時期で、話題の中心は日本の対米政策。その日の参加者7名の口角泡を飛ばす議論が彷彿させるかのように、一段と小さな文字でビッシリと書き込まれている。途中で、インクを入れ替えたこともわかり、内容が深まるにつれ、文字が濃くなっている。その様子から<弘>の興奮が伝わってくる。<弘>が日米関係の将来を憂慮していたことが、文字そのものからわかるのだ。残念ながら、その時の<弘>の憂慮は20年後に現実になってしまうのだが。
 
 このように<弘の手紙>の原本は90年の時を経ても確かに迫ってくる何かがある。内容は何一つ古びていないのだ。<弘の手紙>の原本に触れ、改めて、<弘>の思いを理解したような気がする。わからないことはたくさんあるし、調べるべき事も少なくないが、気持ちを新たに大阪をあとにしたのだった。
 日本に於いても90年前の世界を文字の上で再現することは容易ではないだろう。まして外国の地では、語学を含めた調査能力の問題や滞在日数が限られているから調査期間という制約もある。今更であるが、90年前の<弘>の足跡を辿ることは、予想以上に難しかった。何よりも1921年のニューヨークの空気を吸った<弘>の関係者が誰も生きていないという事が、その難しさに拍車を掛ける。限られた資料であるが、調べれば調べるほど、「わからないことが多い」ということが「よくわかる」のである。<弘の手紙>の記述を手元にしながら摩天楼を巡ると同時に、ニューヨーク市立図書館では90年前の地図や、電話帳、住所録を捲りあれこれと調べたが、結局大きな成果を得られず気分はどんどん沈んでいった。
 
 満鉄最初のニューヨーク出張所が入っていたトリニティ・ビルはニューヨークのランドマークの一つであるトリニティ教会の隣にある。90年前もそして今でもテナントビルとして機能している。伝統ある由緒正しいビルであるから、何か資料が残っていると思っていた。それはニューヨーク滞在18年で、この辺りのでOL経験もある通訳のMさんもそう思っていた。しかし「90年前の資料を・・・」というと一笑に付されてしまったのだ。由緒正しいビルであっても、何人もオーナーチェンジがなされ、その度に以前の記録は少しずつ失われていったのだろう。ビルは古くとも経済が優先されるのは、変わらないのである。ニューヨークが効率と経済性が優先される場所であることはMさんもよくご存知であったはずであったが、過去を省みない姿勢に少々ショックを受けているようだ。「お役に立てずにゴメンなさい」とうなだれるMさんを慰めるのが、一番の仕事となった。
 
 確かにニューヨークの、特にダウンタウンは、築100年以上のビルがいくつも残っているから<弘>が歩いた空間を垣間見せてくれることもある。しかもその中のいくつかは「アメリカ国定歴史建造物」に指定されていて、改築・改造には大きな制限が加えられている。だから「この風景は<弘>も見た風景なのだろうな」と感慨に耽ることも可能だ。しかしマンハッタンに築100年以上のビルが存在するのは、歴史的建造物として積極的に維持保存していこうというより、経済的理由が大きいようだ。つまり摩天楼が乱立するマンハッタンでビルを改築するのは、物理的に困難な場合が多いし、たとえ可能であっても、通常よりもコストが大きく、改築しても経済的に合わないというケースが少ないという。
 それに対して、イギリスの歴史的建築物に対する方針は大きく異なる。イギリスでの<弘>の下宿先は保存的改築の途中であった(<弘の手紙>62)。それはできるだけ建築当時の材料を使い、建築同時の図面に従って再建築するというものである。このように歴史的意義が見えにくい建物についても、何らかの価値を認めた場合には、積極的に保存・維持していこうとするのがイギリス流である。つまり、イギリスでは経済性や効率よりも伝統や格式が重視される。そして両者の違いは歴史に対する認識の違いにあると思われるが、如何であろうか。いずれにしても旅が進むにつれ、<弘>は<伝統>と<格式>を重んじるイギリス文化に強く惹かれていくのである。

 アメリカが、特にニューヨークが何よりも経済性を重んじるのは、何も今に始まったことではなく、<弘>の時代もそうであった。滞在期間が長くなるにつれ、<弘>は手紙の中で、しばしば<アメリカは何より金子を重視する国だ!>と批判的に繰り返している。それでも最初は「摩天楼」(<弘>は<摩天閣>と表記する)群に行き交う人と車の多さやネオンのまぶしさに驚き、圧倒される。例えばその当時「飛ぶ鳥を落とす勢い」であった実業家「フランク・ウールワース」が建てた「ウールワースビル」ついて興奮気味に次のように書く。弘の手紙-ウールワースビル
 ブロードウエーに出でて、10セント店をひやかす。何を買っても10セント以下で、これには全く驚いた。それが又大きな店で大連あたりにこう云ふのがあれば家の器具を買ふには頗る便利。何でもある。紐育は一体どう云ふ所か見当がつかぬ。馬鹿に大きな高いものがあると思へば又、こうした安物ばかりの所もある。佐々木さん安い安いで大分買物をする。ドアの引手から化粧品は勿論、薬物まである面白い店だ。この店のオヤジと云ふのは所謂、有名なウオルスビルディング(59階造りの大建築物)のオヤジで、この10セントストアからあれ丈けに成功したもので、紐育人の成功談には必ず引き合ひに出される人だ。10セントストアは紐育市中にも数個所、其他大都市には支店をたくさん持って居るそうだ(大正10年11月15日付) 

 90年前のアメリカでは現代的に言えば「100円ショップ」が存在した。<馬鹿に大きな高いものがあると思へば又、こうした安物ばかりの所>を<弘>は<10セントストア>と書くが、正式には「ファイブ・アンド・ダイムストアー」という。前述のフランク・ウールワースがペンシルヴァニア州ランカスターで始めた店である。その特徴は何といっても全ての商品が5セントから10セントであることだ。これが大ヒットし、全米展開していった。薄利多売の極致であるが、こうした商売で巨万の富を得るということは当時のアメリカの資本主義が今までどの国も経験したことのない新しい段階に入っていたことを意味するだろう。その結果としてウールワースは1930年まで世界一の高さを誇ったビルのオーナーとなったのだ。しかもその建設費1350万ドルを現金で払ったという。弘の手紙-自由の女神
 
 最初は摩天楼に感心し、圧倒されていた<弘>であるが、徐々に批判の対象となっていく。マンハッタンという狭く、地価の高い土地では、経済性を重視すればビルの階数は高くならざるを得ない。それは経済性と効率性を何よりも重視することである。そのことに気付き始める<弘>はニューヨークを去る直前に、自由の女神を見学しつつ、次のように呟くのである。

 (自由の女神像の)胴中を登ってみてから、下におりて更に見上げると米国へこの像を佛国から寄贈した頃の米国と現在の米国とに大きな相違がある。像の中身が空洞であった如く米国は内的の文明を来さずして物質のみの文化を第一とし、そしてこの像よりも高い摩天閣文明を築き上げたのである。自分はこの像の中身を登ってみて、マンハッタンから遥かに望んだ自由の像に対する感じよりは甚だしく違った観念にとらわれた。それはあたかも米国そのものを意味する中身ということだ。これが米国に対する自分の感情である。大正11年5月20日付

  <弘>が海外での研修をを命じられた大正10年を前後して満鉄では多くの社員が海外出張や研修で欧米を目指している。第一次世界大戦が終了し、ヨーロッパの世情が一応安定したということもあるだろう。それ以上に日本がアメリカ・イギリス・フランス・イタリアと共に戦勝国となり、五大国と称されて戦後の指導的な立場になったということが大きかったように思われる。大戦前、日本は、債務国であったが、大戦後は債権国となり、大きな犠牲を払ったヨーロッパに比べると、果実だけを得た格好になった。それまで極東の小国に過ぎなかったが日本が実質的な世界デビューを果たしたと言えるだろう。そんな中、国策会社であった満鉄は、満州の一企業から国際的な企業を目指していていた。まずはパリとニューヨークに出張所を構え、若手・中堅社員を中心に欧米へと送り込んでいる。留学期間は、目的により、かなり異なり、3年近くに及ぶ社員もいた。鉄道技術者に限らず、駅舎の設計を担う、建築家なども含まれていた。<弘>とロサンゼルスまで同行し、その後ワシントンやヨーロッパなどでも同行した<盛>は、大連の満鉄病院の副院長である。彼は医者であったが、満鉄社員でもあったのだ。当然留学の目的は、医学研究であった。その後盛氏は、昭和に入り、母校京大医学部の教授に転出している。
 このように多くの社員が様々な目的を持って、海外に学んでいる。特に満鉄の車両や鉄道設備の殆どがアメリカ製だったこともあり、留学先としてはアメリカが一番多かったようだ。そしてアメリカ経済の中心はニューヨークであるから、勢い留学生達はニューヨークにまずは集結することになる。その様子を<弘の手紙>から確認してみよう。大正10年11月13日にニューヨーク入た<弘>は翌日の14日、留学生でごった返す、満鉄のニューヨーク出張所を訪ねている。


 第百十二丁目の下宿に居る木村君が誘いに来てくれたので、会社の出張所へ初めて出掛ける。昨夜おどかされた地下鉄道で西も東もわからぬが案内してくれる通りにタイムス通、ペンシェルヴァニア通を経てポカンとなげ出された所はウオルス通の停留所。馬鹿に高い建物で地上がうす暗いほどの通りをぬけトリミチー寺院の隣りのブロードウエー百十一番地、トリミチービルディングに入る。何十階あるのか、又幾人人間が出入りするのか知らぬがおそろしく人の昇降するエレベーターで五階の満鉄出張所に到着する。会社の人は大抵知って居るから何時きたのかとか、何處におるとか色々挨拶がすんで留学生の室に入ると、これまた同類の先生達が十名あまりもゴロゴロしてボストンに明日行くとか、何とか中々の大騒ぎだ。ヤレヤレ紐育と云ふ所はこうも気がせわしい所かと相かわらず自分はノンキなことを考へる大正10年11月14日付


 満鉄のニューヨーク出張所は、<弘>がここを訪れた前年大正9年、トリニティ・ビル5階に開設され、社員4名で業務を開始した。当初は出張所という扱いであったが、大正11年には、「ニューヨーク事務所」に昇格している。その後ニューヨーク市内を移転しながら、昭和11年までは、その存在を資料としては、確認できる。ただ、どんな任務を担っていたかは、よく分かっていない。前述したように、初期満鉄の車両や鉄道設備は殆どアメリカ製であったから、その取引は確かに重要である。しかし技術的な事はともかくとして、鉄道会社との交渉は三井や鈴木商店などの商社の役目であった。実際、<弘>もニューヨークでは仕事らしい、仕事をせず、そこから600㌔離れたロチェスターにあった信号会社の工場で研修を受けている。
 弘の手紙-トリニティ教会
 ところで、トリニティ教会もトリニティ・ビルディングも現存する。勿論ウォ-ル街も90年前と変わらず、ニューヨークビジネスの中心地だ。<弘>の足跡を辿る旅であるから、<ブロードウエー百十一番地>を目指す。できれば満鉄の事務所があったこのビルの5階を見学したいが、「9・11」以降、この地区のセキュリティーは厳しくなっている。1度目は一人で受付に行って、来意を告げたが、門前払いを喰らった。今度はMさんという強い味方がいるので、何とかなるかもしれない・・・と勢い込んで受付へと向かった。
弘の手紙-ビルの説明書
 Mさんは、相当粘ってくださったが、全くダメ。受付の写真もNG。それならと、90年前に入居していた会社のリストや、資料があるかと尋ねたが、受付氏は信じられないという表情をして、「90年前?おい、おい、冗談はやめてくれ。この20年でも、オーナーは何人も変わっているんだぜ」の返答。ガッカリしていると、気の毒におもったのか、ビルの説明書(DVD付)を見せてくれた。やや機嫌を直し、「これを買えないか?」と頼んでみたが、受付氏は「これは売り物じゃない。このビルを買う気があるならあげるけどね」の返事。今から思うとだが、「買う気がある」と答えたら、貰えたのだろうか・・・・。
 約束の時間ギリギリに辿り着くとMさんは、ニューヨーク市立図書館のライオン像の前でジリジリしながら待っていた。のんびりやって来た<道楽息子>にやや呆れながら、早速資料室に移動する。Mから担当司書の紹介を受け、簡単な挨拶をした後、1921年と1922年のマイクルフィルム化された住所録を書庫から出して貰う。そしてやたらに愛想のよいその司書からマイクロリーダーの使用方法の説明を受けた後、早速Mさんと二人で手分けして大家マックス・セルホルンの検索を始める。マックス・セルホルン氏は<独逸人でもう十余年も米国に住い、かって日本にも二年ばかりおった>大正10年11月13日付)と紹介されゥ人物である。
 検索をするに当たってまず問題となるのは<マックス・セルホルン>のスペルだ。ラストネームでしか検索できないので<セルホルン>のスペルを確定しなければならない。事前にドイツ人の姓について調べた範囲では<セルホルン>は<sellhorn>というスペルらしい。ここは四の五の言っても始まらない。とにかく始めることにしよう。しかし二人ともすぐにマイクロリーダを操る手が止まる。なぜならsellhorn>では一人も登録されていないのだ。そこで<セル>はミドルネームと考え、<ホルン>でも検索したし、他のスペルも色々と試してみた。結論から書くと、それから3日間、時間のある限り、マイクロリーダーを操り続けたが、結局手掛かりは得られず、目がショボショボするだけに終わった。翌日の調査ではしびれを切らしたMさんが別室に勤めるドイツ系アメリカ人を無理矢理連れてくる。二人がスペルの可能性を「あ~でもない、こ~でもない」と言い合ってその度に大騒ぎしながらマイクロリーダーを操る。19世紀初頭には多くのドイツ人が移民としてニューヨークにやって来ているから、ドイツ系と推測される姓は確かに多い。しかしお目当ての住所である肝心の<w111th>の該当番地に住む人物は探し当たることはできなかった。姓ではなく、住所から検索できれば簡単なのだが。 
 
 話はそれるが、アメリカは第一次世界大戦(1914年~1918年)に1917年になって参戦した。アメリカはモンロー主義を掲げ、ヨーロッパの戦闘には関与しないという方針を長年堅持していた。実際開戦当初のアメリカ政府はイギリスからの再三の参戦要求にも関わらず、対岸の火事とばかりその戦況を静観していた節がある。ところが1915年、イギリス船籍の客船ルシタニア号がドイツのUボートにアイルランド沖で雷撃を受け、沈没するという事件が起き、乗客・乗組員1000名以上が犠牲となる。その犠牲者の中には128名のアメリカ人旅行者が含まれいたため、、アメリカに於ける反独感情に一気に火が着いた。アメリカ世論は「参戦」に大きく傾いたのである。実際にアメリカが参戦したのは、2年後であるが、この事件が伏線となり反独感情が常に燻っていたという。
 <弘の手紙>の記述によれば、<マックス・セルホルン>氏は、在米<十年余>とあるから、第一次世界大戦中もアメリカに住んでいたと推測できる。<弘>の書きぶりでは、国籍はドイツのママであるようだから、大戦中はずいぶんと肩身の狭い思いをしたことだろう。先に書いたようにニューヨークには多くのドイツ系住民がいるが、この時期相対的に発言力が低下していたらしい。大戦後の1919年からアメリカでは禁酒法が施行されるが、この法律が施行された背景には、長年禁酒法に反対してきたドイツ系アメリカ人に対する見せしめ的な要素もあったという。尤も自家製ビールは認められていたようだ。<弘>も下宿に着いたその日に主人からセルホルン家特製ビールを振る舞われている。

  ところで<弘>は約二ヶ月後の大正10年12月19日この下宿を去って、ロチェスターにある信号会社の工場へと向かった。その工場で満鉄に導入予定であった信号機の研修を受けるためである。下宿を去るに当たって、<弘>は何かと世話になった大家の奥さんに挨拶をするため、病院を訪れている。主人の奥さんは心臓病を患い、入院中であった。

 下宿に帰ると家のおかみが子供に一度お目にかかりたいからと云ってよこす。勿論一度、暇乞いをするつもりでおったのだ。オカミは日頃から、気の毒にも心臓病で病床についたなり働けないのだ。面会にゆくと想像しておったのよりさらにやつれて、以前の元気な姿の見るかげもない。自分は「今夜ロチェスターに行く」とは言いかねる位気の毒な感じがする。オカミは「気をつけて行きなさい、又お目にかゝることもあろうから」と云って細い腕を出して握手をする。それも子供が手伝って半身をおこした。自分はこの病室で子供とオカミとにサヨウナラを云った時は胸がつまる様な哀れさを感じた。あの元気よく何かと世話をしてくれたオカミがこの気の毒な有様と見た時、さすがに心がうしろに引かれる様な気がする。人情のいづこに至るともかわらざること、アゝ人の辿るべき道はたヾ一つ、神よ願くばこの家庭の上に祝福をたれ給え大正10年12月19日付

 <弘>は翌年の4月ニューヨークに戻ってきた。しかしその時下宿先として選んだのは<マックス・セルホルン>家ではなかった。元の下宿とは少し離れた場所で、一人娘がいる年老いた未亡人が切り盛りしていた。<弘>は下宿先を変えた理由は一切記していないが<何かと世話をしてくれたオカミ>は看病むなしく、亡くなってしまったのだろうか。