人生には善し悪しに関わらず時として<思いがけない>ことが突然割り込んでくることがある。そして<思いがけない>ことは、その<思いがけなさ>の度合いに応じて、ある人の魂を揺さぶたっり、その運命を変えたりする。大げさに言えば、昨日までの自分とは、違う人間になるのだ。って、やっぱり大げさかな。

 ここ数年の事柄で言えば私にとっての<思いがけなさ度>ナンバーワンは何と言っても<弘の手紙>だ。<弘>は、たくさんの「こと」・「もの」を私にもたらした。それら新たにやってきた「こと」「もの」のほとんどは、全く知らなかったか、考えてもみなかったことばかりだ。既に鬼籍に入って居る人も生きている人もいた。そこで魂を揺さぶれつつ、「こと」「もの」や「人」について調べたり考えたりする。するとまた知らなかったことや考え直さなければならない「こと」「もの」「人」に出くわし、さらに魂が揺さぶられることになる。このブログを書き進めているとその繰り返しであった。
 前回のブログで紹介した「ふぐちゃん」のメッセージも<魂が揺さぶられた>ものの一つだ。<弘>の帰国を調べる中で、「留用」という歴史的事実を知った。満鉄は昭和20年9月末に解散したが、鉄道が運転を止めたわけではない。そこで社員の多くは、彼の地に留まり、そのまま「留用」され鉄道の運営に従事した(させられた)。私が調べた範囲では、満鉄社員の「留用」は昭和23年までということになっている。事実満鉄最後の総裁である山崎元幹は満鉄社員留用者の帰国の目途をつけ、昭和22年10月に帰国している。(弘の帰国は昭和22年3月)
 ところが<ふぐちゃん>一家は昭和28年まで中国に留まっている。まずはこの事実に驚かされる。さらにお父様が東京での就職を断念しなければ事情を知り、その驚きはさらに増すことになる。そこでその時代の様子を少し調べてみるとレッドパージが吹き荒れた後の日本について知ることになり、あれこれと考え込むことになる。レッドパージついては表面をなぞっただけでも知らない事ばかりだ。その関連で、朝鮮戦争について調べる。そうすると「え~~そうだったのか」と池上彰ばりに叫んでしまう。と同時に、<思いがけないこと>に亡くなった父の事を考えたりする。7年前に亡くなり、昭和八年生れの父は、朝鮮戦争が起こった年に大学に入学した。レッドパージが吹き荒れ、朝鮮戦争が起こる中で、多感な時期であったろう父は何を考えていたのだろうか。
 そして再び、「ふぐちゃん」のメッセージに思いを馳せる。昭和28年に帰国した「ふぐちゃん」一家。その頃の事を「ふぐちゃん」は「家族の生活で必死でしたよ」と記す。すると再び、この頃の父の事を想像してみる。その材料として、形見となった学生時代のノーを取り出す。表紙はくすみ、万年筆で書かれた「経済学原論」の文字はよく目を凝らさないと見えない。中身は授業ノートだから、経済学の用語が並び、父の個人的な感想なり、思いは一言も記されていない。私にとってはもっとも苦手な分野の内容だし、専門家以外には無味乾燥な内容に思える。しかしこのノートはどんな品より父の匂いがするものだ。表紙を捲るとそこには確かに父が現れる。万年筆でビッシリと書かれたその文字は、決して達筆でないが、父らしい字だ。筆圧が強くやや神経質にもみえる。と同時にアドレナリンが溢れているというか、鼻息の荒い文字でもある。兎にも角にもその行間に父が蘇る。
 
 昭和30年春父は大学を卒業する。朝鮮戦争後の不況で父は就職に苦労したらしい。造り酒屋の一人息子ということも禍したのだろう。研究者になることを夢見たようだが、それを断念するまでにどんな葛藤があったのだろうかと今更ながらに考えてしまう。生前の父に対しては、ちょっと複雑な思いがあるが、殊、進路に関しては、自由にさせてくれたなあと改めて気づくのであった。

<ふぐちゃん>たちが<生活に必死で>あった頃、父は<必死に>授業を受けていた。父は経済的には比較的恵まれていたから、こういう比較は不謹慎かもしれない。しかしいずれにしても時代そのものが<必死だった>と想像するのだが、如何であろうか。

  
 このように<弘>は<弘>自身が<思いがけない>だけでなく、様々な<思いがけない><もの>・<こと>をもたらす。それは史実であったり、事実であったりする。思い出を蘇らせる事もあるし、考え直す契機になることもある。既に鬼籍に入った人が蘇ったり、もちろん生きている人を結びつけたりもする。そして<弘>がもたらした<思いがけない>ものの中でもk氏から頂いたメッセージは特に印象的だ。前回のブログでその紹介を予告したが今回の紙面は尽きてしまった。少し詳しく書きたいので次号ということで、許して貰おう・・・・
 ごく小数の読者しか持たないブログであるけれど、有り難いことに時々メッセージを頂く事がある。そんなときは感激で、更新を堅く誓うのであるが、生来の怠け者なので、その誓いが中々持続しない。困ったものである。新年に当たっての誓いとしては、<飽きっぽい>を少しでも克服することだ。と、誓ったハシから「たぶん無理」という言葉が頭をよぎる・・・・

 昨年頂いたメッセージの中で特に印象的だったのは二つ。一つは<弘>の妹の子供、つまり姪である<ふぐちゃん>から頂いたもの。
<ふぐちゃん>のお父様も満鉄社員。長く哈爾浜で暮らし、終戦もそこで迎えた。多くの満鉄社員がそうであったように、お父様も当地でそのまま<留用>された。昭和25年には家族共々北京に移住させられ、「毛沢東教育」を受けた。この事がその後、お父様の人生に大きな影を落とすことになる。
 「ふぐちゃん」一家が漸く祖国に帰国できたのは何と昭和28年。満鉄社員の留用組の中でもほぼもっとも遅い帰国である。「ウィペキディア」の「山崎元幹」(満鉄の最後の総裁)の項目には、「元満鉄社員全員の留用が終わったのは昭和23年(1948年)6月であった」とあるが、直ちに訂正されなければならない

 帰国しても祖国は「ふくちゃん」たちを暖かく迎えてくれなかった。サンフランシスコ条約により、国際社会に復帰していたとはいえ、数年前までGHQが実質的な支配をし、レッドパージが吹き荒れていた日本。
 昭和26年(1950)GHQの命令により、共産主義者及びそのシンパ者は公職を追放された。その数一万人。その年の6月に朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られていた時代だった。そしてサンフランシスコ条約が締結され、公職追放そのものが解除された後も職を追われた人達の多くは復職できず、苦労を重ねることになる。
 そんな状況だから、お父様は「北京帰り」というだけで、「革命家」というレッテルを貼られる。希望していた東京での就職は上手くいかない。仕方なく、故郷で教壇に立つことになるが、警察の尾行がついた。その頃のお父様のことを「ふぐちゃん」は「革命を起こすようなエネルギーなど、残っている訳ないのにね?家族の生活で必死でしたよ。」と書く。「全部中国へ残して帰ったのですから」とも。これらの短い言葉の中にお父様や「ふぐちゃん一家」の筆舌に尽くしがたい現実があったのだろう。それでもお父様は満鉄関連の書籍は熱心に読まれ、そこには、赤印や線が引っぱられていたという。約2年前に94歳で大往生された、お父様は、それらの書籍をどんな思いで読まれていたのだろう。そして私のブログを読んだとしたら、どんな感想を持たれただろうか。

 もう一つの印象深いメッセージはkさんから頂いたもの。その詳細は次回のブログで紹介することにする。
 満鉄という会社についてしばしば指摘されるのは、外国メディアを意識し、積極的に宣伝活動をしたということだ。ニューヨーク事務所やパリ事務所を開設し、英語とフランス語でPR雑誌を発行していたのはその一つである。また昭和9年、満鉄の代名詞の一つであるアジア号がデビューしたときには欧米メディア関係者を集め、試乗会を催している。このような欧米メディアを意識した試乗会の開催は、一つには、昭和7年に建国した、満州国の正当性をアピールする目的もあっただろう。しかし満鉄には別の狙いがあったと考えられる。それは、世界最高水準の車両を持つアジア号を導入することで、大連-新京間(翌年からは哈爾浜まで延長)の時間短縮を図れば、シベリア鉄道を経由して、大陸からは全て鉄路を利用してベルリン・パリへと向かう乗客を獲得できるというものである。実際、東京を15:00時に出発すると下関、大連、哈爾浜を経由してパリへは14日後の朝5:30分に到着することができた。1ヶ月半近く掛かる航路と比較すると約三分の一の時間短縮である。もちろん新京は満州国の首都でもあったから、日本からのアクセスを短縮することは至上命題であっただろう。しかし哈爾浜までアジア号の運行を延長したのは、前述したような、パリまで鉄路を利用する乗客を視野に入れたものであったのである。
$弘の手紙-アジア号
 こうしてみると満鉄がパリに事務所を置いたのは、PR活動と同時にヨーロッパの乗客を獲得するという目的があったように思われる。一方ニューヨーク事務所の真の目的は何だろうか。初期満鉄の車両や鉄道システムはほとんどがアメリカ製であったから、その橋渡し役としてアメリカ経済の中心地であるニューヨークに事務所を置くのは合理的であると言える。しかし前回のブログで紹介した初代紐育事務所長であった田村氏の証言によると、車両等の輸入に関して紐育事務所は全く権限が与えられていなかったという。そう言われれば、<弘>は渡米に際して「満鉄にふさわしい信号システムの選定」という社命を受けていたと考えられるが、本社とは連絡を取り、指示も仰いでいる。ある程度の決裁権も持っていたと推測できる記述もある。しかし紐育事務所では郵便や受け取ったり、遅れて郵送されてくる日本の新聞などを読みに立ち寄るくらいで、事務所長から社命について特に何か指示を受けているわけでもなく、業務報告するわけでもない。それ故か<弘の手紙>の中では事務所長である田村氏の名前がついぞ登場しない。
 このように満鉄紐育事務所が担っていた役割は今ひとつはっきりしないがその謎を解く鍵が前述の田村羊三氏の証言にある。その検証をしてみよう。

 
  大正九年初めにニューヨーク事務所長になりました。私のニューヨークへ行く一番大きな使命は、その当時満鉄は金繰りに、非常に困って(中略)私にニューヨークへ行って五000万ドルの金を借りて来いというのです。(中略) ところが(日本銀行総裁の)井上準之助さんは「アメリカで満鉄が外債を募集するのは非常によいことだ」と非常に賛成して下されて(中略)井上さんは、非常に懇切な手紙をアメリカの巨頭達に添書を下さいました。その一人はモルガンの総帥であったラセントという人(日本にも来たことのある諸君もご承知の人)で懇切丁寧な紹介状を下さいました。 >(「満鉄裏面史(四)」満鉄会報第73号昭和46年5月15日)

 $弘の手紙-満鉄パンフレット
第一次世界大戦後の世界的な不況で、満鉄もドル箱であった貨物輸送量が減り、創業以来の減益となっていた。初めての人員整理が行われたのもこの頃である。一方で、日本は戦勝国であったので、大陸に於ける拡大路線が模索されていた。満鉄もその方針の下、鉄路の拡張が計画されたが、資金繰りの見通しが立たない。そこで、アメリカ資本を導入しようというのである。そしてその最前線に立ったのが、ニューヨークに赴任した田村氏だったのである。
 紹介状を携えた田村氏は早速ラセント氏に面会する。当時モルガングループの総裁であった彼は満鉄の申し出に積極的で、モルガン系の銀行の紹介を紹介し、数行でこの融資を引き受けるよう奔走した。そうした関係者の努力により、この融資話は田村氏の言を借りれば<九分九厘まで出来た話>であったという。
 ところが最終段階になって大蔵省から次のような横槍が入った。


 その時の言い草は「数年後にクーローブの手で募集した外債の満期が来るのでそれをどう借換えるかということが問題なのだから、今モルガン系統と手を結ぶことは困る」ということでした
(「満鉄裏面史(四)」満鉄会報73号 昭和46年5月15日) 

 田村氏の証言を理解するためには少々解説がいる。少々長くなるがものしてみよう。
 
 明治37年(1904年)2月に戦火が開かれた日露戦争に於いて日本は、外債によって戦費を調達しようとした。そこで日本政府は当時日銀副総裁であった高橋是清を外債募集の特使として、アメリカ・イギリスに派遣したのである。
 先ずアメリカ・ニューヨークに赴いた高橋はニューヨークでの外債募集の可能性が極めて低い事を察知して、すぐに渡英する。そしてロンドンの銀行家を口説くべく奔走した。しかし開戦と同時に「日本不利」という国際世論の中、既発の日本外債が暴落しており、どの銀行も引き受けに消極的で、なかなか引き受け手が見つからない。それでも高橋の粘り強い交渉の甲斐があり、イギリスの銀行2行に何とか500万ポンド分の外債を引き受けて貰えた。しかし高橋が日本政府から受けた使命は「外債による1000万ポンドの獲得」である。ようやく半分の目途を付けたに過ぎなかった。ところが引き受けて貰えた500万ポンドにしても銀行側の「300万ポンド」という申し出を何とか500万ポンドまで上げさせたもので、これ以上の妥協を引き出すことは契約そのものをご破算にさせる危険があった。そこで高橋の言を借りれば「やむを得ぬと合意した」という経緯があったのである。
 歴史にイフはないが、もしこの金額で高橋が帰国していれば、日露戦争の戦局に重大な影響を及ぼしていただろう。結論から書けば高橋は、当初の目的通り「1000万ポンドの獲得」に成功する。彼の言を借りれば「偶然のことから一つの仕合わせなこと」によって残りの500ポンドを引き受けてくれる銀行が名乗りを挙げたのである。その銀行こそ田村氏の書くところの「クーローブ」(クーン・ローブ商会)であった。

 高橋が外債募集のため渡英していたとき、たまたまアメリカのクーン・ローブ商会の主席代表シフ氏が毎年行うヨーロッパ旅行でロンドン滞在中であった。シフ氏はドイツ生まれのアメリカユダヤ人であるが、歴史的にロシア国内のユダヤ人が迫害されいたこともあり、極めて日本に同情的な人物であった。そしてそのシフ氏が食事の招待を受けたイギリス人邸宅には帰国前の高橋も招待を受けていた。食卓では隣席同士となった二人は当然話をすることになる。特にシフ氏が積極的に日本の経済状態などを高橋に質問し、高橋の方でも丁寧に応答したという。その中で日本の外債募集の意向を知ったシフ氏はイギリスの銀行家シャンド氏を通じて残り500万ポンドの引き受けを申し出たのである。その辺りの事情を「高橋是清自伝」から引用してみよう。


 私はシャンド氏の言葉を聞いてそのあまりに突然なるに驚いた。何しろシフ氏とは昨夜ヒル氏の宅で初めて紹介されて知り合いとなったばかりで、私はこれまで「クーンロエプ商会」とか「シフ」とかいう名前は聞いたこともなく、従って、シフ氏がどんな地位の人であるか知る由もなかった。
 しかしシフ氏のもたらした話は耳よりのことでもあり、実際に出来れば日本政府にとって誠に結構なことであるから、私は「もしロンドンの銀行家たちが仲間に参加さしても差支えないと信ずるならば、自分は少しも依存はないから速やかに話を進められたらよかろう」と答えた。(中略)こうしてシフ氏との話がたちまち纏まって、英米で一時に一千万ポンドの公債を発行することが出来るようになった。私は一にこれ天佑なりとして大いに喜んだ

(「高橋是清自伝」下巻203頁中公文庫)

その後シフ氏は明治天皇より旭日大綬章を贈られるなど、日露戦争時の恩人として記されている。また高橋は個人的に交際続け、長女がニューヨーク留学したときには、シフ氏が3年間彼女を預かったという。
 一方田村氏の証言によれば、この時の外債の為に大蔵省の横槍が入り、満鉄への融資話はご破算になった。アメリカ資本の導入は満鉄の創業以来の課題であったから、田村氏が「今考えてみても死んだ子の年を数えるようなものですけれども、あの時に5000万ドルの外債ができておれば、どのように形勢が変わったかということを考えると残念で残念で仕方がない」と書くのは、故なしと言えない。しかし同時にこうして書きながら一つの推測が頭にもたげる。妄想の域を出ないかもしれないが、披露してみよう。
 満鉄への融資がご破算になった大正九年から十年にかけての大蔵大臣は高橋是清である。大蔵省の横槍は高橋の意を受けたもだったのではないか。高橋とシフ氏との関係の深さから十分考えられる推測であると思うが如何であろう。
 日露戦争ではその外債が日本を救ったが、満鉄との関係では、その外債の存在が障害となったと考えれる。その後の日米が辿った歴史を考えれば、一企業の融資話に留まらなかった可能性は否定できないだろう。
 何れにしても歴史には表もあれば裏もあり、正もあれば負もあるということである。何が良くて何が悪いのか、簡単には決めることが出来ない。「弘の手紙」を通じて歴史のダイナミズムを改めて痛感するのであった。
 戦後65年が経過しと書き出して改めて思うのは、「戦後」という言葉が持っていた「戦」についての共通感覚が急速に失われているのではないかというということだ。もちろん実際に「戦」を経験していない世代(私もその一人だ)の方が人数としてはかなり前から多くなっているし、「戦」に対する知識も関心も大きく異なりはする。しかし、今では「<戦>ってどの<戦>?」と言う世代が登場しているのではないかと想像する。それはこれまでとは異なる歴史感覚を持った世代が登場してきたということだろう。その事を嘆いているわけでも憂えているわけではなく、そういう世代が登場してきたことを認識するばかりである。

 満鉄の旧社員でもっとも若い方でも80歳を超えようとしている。さらに言えば、会社の事情をある程度知り、責任ある立場に立つのが30才前後とすれば、そういう人たちは90歳の半ばを超えていることになる。現在確認できる限りでは、95歳超えた旧社員で存命中の方は数名であるという。<弘>にしてももし生きていれば118歳である。つまり旧社員のお話を直接聞ける機会は限られているし、中堅社員以上の場合はほぼ不可能であるということになる。
 もちろん直接話はできなくとも、文字で残されたものは少なくない。前回のブログに書いた「満鉄信号会」を調べるに当たって、過去の満鉄会報をかなり捲った。するとかつての中堅以上の社員がまだたくさん生存していた昭和30年代、40年代の会報では、彼らの証言を多数目にすることができる。例えば満鉄予約社員第一号(後述)であった田村羊三氏は「満鉄裏面史」と題して会報で10回にわたり貴重な証言をしている。田村氏は次のように語り出す。


 私は満鉄予約社員第一号といってよいと思う。そのいわれは明治三十九年秋に満鉄ができて、後藤総裁と中村是公副総裁が決まっていただけで理事が決まらない時に、実は後藤さんの邸に押しかけて来年卒業したら是非採用してくれと言う話をしたわけです。(中略)しかし愈々四十年に卒業して、われわれが満鉄にー当時は卒業が七月で新学期が初(ママ)まるのは九月なのです。われわれ三人は八月中旬に赴任したわけです
(「満鉄会報」70号昭和45年11月15日)

 「予約社員」といういい方は一般的ではないが、会社が本格的に営業を始める前に就職の内定を受けていたということであろう。
  田村氏は満鉄の入社すると大連の埠頭事務所でそのキャリアをスタートさせた。明治43年には「満鉄第一期留学生」として渡英し、1年間の留学生活を経験している。創生期当初の満鉄幹部は、他社からの転職者か兼務者(満鉄では、他社との兼務を認めていた。これにより、内地から優秀な人材を呼ぶことができた。)であったから、最初の生え抜き社員として田村氏は、将来の幹部社員として嘱望されて人物であると考えてよいだろう。

 さて<弘>と田村氏の関係であるが、田村氏の方が入社年度が6年早く、事務畑と技術畑という違いやその後田村氏が満鉄の関連会社に転出したこともあり、残念ながらその証言の中に<弘>の名前は登場しない。一方<弘の手紙>を含めた<弘>の物した記述の中にも田村氏の名が登場することもない。しかし二人は確実に面識がある。
 大正九年満鉄はニューヨークに出張所を開設する。その初代所長は田村氏なのである。田村氏のニューヨーク勤務は大正12年まで続くので、10年~11年に掛けて、ニューヨークに滞在していた<弘>とは当然顔を合わせている。既に何度か紹介したが、<弘>が初めてニューヨーク出張所に顔を出した箇所を抜粋してみよう。


 トリミチー寺院の隣りのブロードウエー百十一番地、トリミチービルディングに入る。何十階あるのか、又幾人人間が出入りするのか知らぬがおそろしく人の昇降するエレベーターで五階の満鉄出張所に到着する。会社の人は大抵知って居るから何時きたのかとか、何處におるとか色々挨拶がすんで留学生の室に入ると、これまた同類の先生達が十名あまりもゴロゴロしてボストンに明日行くとか、何とか中々の大騒ぎだ
(大正10年11月14日付)
 

 <大抵知って居る><会社の人>の名を挙げていないのは、如何にも残念だが、田村氏は紐育所長だから<弘>が<色々挨拶>を交わしたのは間違いないだろう。それにしても二人の間ではどんな<挨拶>が交わされたのだろうか。
 ところで上記<弘>の記述で特に注目したいのは、<同類の先生達が十名あまり>ということだ。大正9年から大正11年にかけて満鉄では多くの社員を積極的に海外へ派遣して見聞を積ませている。その理由と狙いは何であろうか。
 一つには第一次世界大戦が終了し、留学の環境が整ったといことは、あっただろう。しかし大戦後の不景気で、日本の各社とも経費削減を迫られていた。満鉄も例外ではなく、創業以来の大きな赤字決算で、大量の人員整理まで断行している。それにも関わらず、前述したように社員の留学には金を惜しんでいないのだ。しかも満鉄の「海外派遣給費学生規定」によると「毎年五名以内を海外に派遣し」とあるのに、大正十年だけで34名もの社員を海外に派遣しているのである。この狙いは何であろうか。
 一つには、前述したような世界大戦終了による世情の安定があっただろう。また満鉄が、元来社員教育特に、海外派遣による社員教育に熱心であるという社風を持つ会社であったといこともあるだろう。しかしそれら以上に大きな要素はに第一次世界大戦では、日本は戦勝国となり、曲がりなりにも「五大国」と称される立場となったことであろう。なぜならドイツが持っていた大陸での権益を得て、益々の進出を目指すことになるからだ。しかしそれは同時に、同じく大陸進出を目論む欧米との利害の対立を生むことでもあった。そういう状況の中で、欧米人に負けない視野と能力を持った人材の養成が急務であったのではないか。特に中国大陸に本社(大連)を持つ、国策会社である満鉄にとっては、世界的視野を持つ人材の養成は、必要不可欠だったのではないだろうか。このような断定をするには、資料的な裏付けが必要だ。その用意が今の私にはないが、満鉄時代の<弘>を追いかけることで、その一端を明らかにできればと思っているのである。
 満鉄は昭和20年9月末解散したが、鉄道そのものが廃線になったわけではない。その路線は中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。そして旧満鉄社員の多くが、中国側の意向により現地に留められ鉄道事業を中心として従事することになったのであった。留用は昭和23年(1948)迄続いたという。また旧満鉄社員で徴兵された者の中にはシベリア送りになった人も少なくなく、それらの社員の帰国はずっと遅れた。<弘>にしても帰国直前になってソ連当局に目を付けられ、シベリアであるかは不明であるが、ソ連へ連行されそうになったという。当局は<弘>の<信号屋>としての経歴に目を付けたらしい。この時は<ヤス>の八面六臂の活躍により、当局に<弘>の帰国を承諾させ、難を逃れることができた。しかし同じ満鉄社員で調査部に所属していた<弘>の弟である<孝>は、終戦直前に徴兵され、敗戦後シベリア送りになっている。幸い<孝>は生きて日本に帰って来ることができたが、そのまま異国の地で亡くなった方も大勢いる。死者については諸説あり、日本側が作った死者名簿では約5万3千人とされている。しかしこの数字の数倍以上の犠牲者を出したされる研究報告もあり、公式記録以上の数であるのは間違いないようだ。 

 前述したように昭和23年までに多くの満鉄社員が日本に帰ってきた。敗戦により会社が消滅したので、退職金はもちろんのことそれまで積み立ててきた社内貯金、未払いの給料などもほとんど受け取ることができなかった。つまり帰国しても旧社員の多くは生計の当てもなく路頭に迷うことになる。そこで旧社員の就職斡旋や援護更正・財産権の処理促進、未帰還者の早期帰国などを目的として、昭和21年(1946)には、「社友新生会」という組織が結成されたのである。発足当時は会の維持さえままならなかったというが、満鉄東京支社の売却代金を社員に分配するなど、着実に実績を積み上げていった。そして昭和29年には「財団法人満鉄会」に衣替えし、新たな取り組みに着手し始める。例えば旧社員の満鉄時代履歴の年金加算などを推進し、大きな成果を上げることができたのは、その一つだ。(以上、「満鉄会」HP<満鉄会の歴史>より
 「満鉄会」が組織されると日本各地でもその支部が続々と結成された。<弘>は「三重満鉄会」に所属し、初代会長を務めている。また、満鉄は各部署の結束が堅い会社だったので部署ごとのOB会も組織された。鉄道総局の電気課長であった<弘>は満鉄の電気関係者が集まった「ひろの倶楽部」にも所属し、幹事メンバーの一人にもなっている。 しかし<弘>は<信号屋>を自認する男だ。かつての<信号会>が復活しているはずである。そこで「満鉄会」が発行している会報を色々と調べてみると次のような記事に行き当たった。少し長いが該当箇所の全文を引用する

  第四回 満鉄信号会の集い
 と き  十一月二十一日
 ところ 三重県湯の山温泉 ホテル向陽
 旧満鉄信号屋のOB懇親会として発足し、第一回会合を昭和四十三年秋紀州白浜温泉にて開催年一回の集りを申し合わせましたが、会を重ねて四回目を迎えました。
 今年は豊橋市在住の新田氏の斡旋で秋色酣は全山紅葉におおわれた湯の山温泉ホテル向陽で催しました。
 さきに喜寿の祝もすまされた満鉄信号の大先輩竹口弘氏夫妻も列席され、相変わらずの元気なお姿で参加者一同感激した次第です。 会場には十六時迄に東京大阪方面から全員集合お互いの健康を祝し山の湯にひたりながら懐旧談は尽ることなく定刻十八時には懇談会の祝宴の運びとなりました。
 竹口先輩の音頭にて乾杯酒宴の盛り上がったところで余興の綺麗どころとの風船割りでいいおじいちゃんが小供にかえって昔懐かしの満州の唄や軍歌がとび出すなど尽きぬ爆笑裡に宴は夜半まで続いた。
 翌二十二日はまた御互の健康を祈りつつ肩をたたき合い来年もと再会を約して散会した
青山記)
(満鉄会報78号 昭和47年3月15日)


 この記事から、<満鉄信号会>は有志の会として昭和43年に復活したことがわかる。そして昭和46年10月開催の<第四回満鉄信号会>でも<弘>の名が特に言及され、乾杯の音頭を取るなど、かつての<信号屋の親分>として相応しい扱いを受けている。そのような扱いを受けていた<弘>のことがまるで自分の身内であるかのように誇らしい気持ちになる。
 記事の中では参加者から<満州の唄>が次々と披露されたとあるが、その中には<弘>の十八番<鴨緑江節>も含まれていたのだろうか。そうだとしたら<弘>の節外れの歌声が宴席に響き、興を添えたことだろう。そして昔の<子分達>に再会した誇り高き<信号屋>である<弘>の胸中に去来したのはどんな思いだったのだろう。
 ところで、<弘>は昭和47年5月に亡くなっているので、昭和46年10月開催の「第四回満鉄信号会」は<弘>が出席した最後の信号会となった。翌年の<満鉄信号会>には<竹口ヤス>が一人で参加している。その様子もやはり会報から抜粋してみよう。


  旧満鉄信号マンの有志OB懇親会ー毎年一回開催されているが、今年も豊橋の新田氏の肝煎りで風光明媚な伊勢志摩国立公園の一角、鳥羽の浦加茂川河口赤崎海岸に面した気品豊かな純日本式建築の旅荘待月楼で催した。
 昨年は満鉄信号の大先輩竹口氏の元気な姿を迎えたが、今年は幽冥界を異にして竹口未亡人一人の御来臨を享けた。(中略)
 翌二十六日は快晴に恵まれ、三重交通の観光バスで朝熊岳スカイライン、二見浦、内宮を見物し、志摩半島の優美な景観を満喫した後、松坂市中万の竹口家菩提寺心光寺を訪れ、故竹口氏の墓前に花束を供え僧侶の読経にて焼香し、追善供養した

(満鉄会報84号 昭和48年3月15日)
 
 <親分>が亡くなったのだ。その<子分たち>が墓参りするのは当然だろう。そしてその後は<親分>の名代として<姉御><ヤス>は信号会に出席し続けたのである。当初は中部圏が中心であった開催場所も箱根や栃木鬼怒川温泉、宮城鳴子温泉、宮崎、広島などバラエティに富んでいる。確認できた参加者名簿にはほぼ毎年<竹口ヤス>の名前がみえる。<ヤス>の孫に当たる友人Zによれば「おばあちゃんは、<信号会に出席してくる>と言ってよく出掛けていた」という。
 <ヤス>は平成3年12月に大往生を遂げたが、記録で確認できる限り<満鉄信号会>への最後の出席は昭和61年奈良で行われた<第十九回満鉄信号会>である。そしてこの時の会合も会報で報告されていて
<満鉄信号の創始者竹内(ママ)弘先輩夫人は今回も元気で参加され>(満鉄会報154号昭和62年1月1日)とある。<竹内>と誤記されているのはご愛敬だが<満鉄信号の創始者>という記述には感激を新たにする思いだ。ただ会報では上品に(?)<創始者>となっているが、ここはやはり<親分>と表現したいところだが。
 

 <親分>も<姉御>もこの世を去ってから久しい。そして<満鉄信号会>そのものも平成12年(1999年)愛知県蒲郡市の三谷温泉で開催された<第32回満鉄信号会>が最後となったようだ。前回紹介した<満鉄の信号屋>田伏氏によれば、存命している<信号屋>は数名だという。それならばこのブログで駄文を物すのも少しは意味があるかもしれないと感じ始めている今日この頃である。