本日の話題は広島でボランティア隊を結成して、被災地で活動しようという件。

 個人で被災地ボランティアに参加したが、かえって足手まといになったような気もする。
多くの被災地はいまだライフラインさえ十分ではないし、避難所生活をされている方も少なくないから
ボランティアを受け入れる余裕のないところもある。山田町も釜石市もボランティア対応の職員の方々がニーズをマッチさせるために奮闘していらっしゃった。各地区のボランティアニーズを把握し、そこへ人を派遣する場合、団体の方がいろいろな意味でスムーズに行く。山田町では定期的に盛岡からボランティアバスを出している。個人であってもこのようなシステムであれば団体として活動できる。ただしこのバスの費用はおそらく岩手県社会福祉協議会から出ているのだろう。そうだとすれば、ボランティアのシステムとしては少し広がりに欠けるように思うが如何であろうか。
 私としては東北からは距離がある西日本に住む個人が集まって、5名~10名くらいの団体となって東北へとボランティアに駆けつけられるシステムを作りたいと思っている。
 
 少し考えればわかることだが、「山田町・釜石市」といっても広いのである。基本的に車での移動となるが、その車自体が足りないので、各自治体とも個人対応はとても出来ない。しかも県外から車で多くの個人が駆けつけたら、限られたルートであるから、肝心の支援物資や工事関係車両に支障をきたす可能性がある。また個人であると日々のボランティア人数が読めず、仕事の割り振りも難しくなる。だから多くの被災地が基本的に5名以上の団体(ただし10名以下という人数を制限する条件を出している所も少なくない。少なくても多くてもいけない)で、出来れば長期(1週間以上)という条件を出しているのである。寝袋と食事を持参すれば宿泊場所を提供するという自治体もあるが「宿泊場所は近隣に自前で確保」がほとんどである。

 前回のブログにも書いたが釜石市や山田町で「もう一度ここへ来る」と誓った。今度は足手まといにならず、そして少しだけでも役に立つよう、5名~8名くらいのでと考えた。そこで旧知の一文字弥太郎氏に相談すると、自身が運営するついツイ生だし広島ラジオ(http://www.ustream.tv/channel/ついツイ生だし広島ラジオ 毎週火曜日23時~)で告知してあげるとのことだったので℡をつないでもらった(17日、46回目)。
 その時点で、ほとんど何も決まっていなかったので、私のささやかな体験と思いを話し、ボランティア隊を結成したい旨を宣伝してもらった。大変有り難かったが、何も決まっていないのに、思いだけを語って視聴者の方も困惑されたことと思う。申し訳なかった。
 反省を込めてそして何とか実現するために本ブログで企画を練り、そしてボランティアを募り、アイディアや意見も募りたいと思う。どうぞよろしくお願いします。

 1回目は現段階で考えていることを書き連ねたい。

1 企画内容  広島から岩手(釜石)でボランティア活動。主な活動は被災家屋の清掃・泥だし、仮設住宅への引っ越し手伝いなど。基本的に力仕事。応募者の資格などによってはその能力を発揮できる内容にニーズがあるか釜石社会福祉協議会に打診します。また皆さんからの「こんな事出来る」や「こんなことやってみたら」の意見も受け付けます。番組の許可が下りれば、名称は「つい生ボランティア隊」としたい。
2 目的 ・被災地でのボランティアを体験することにより、抽象的思考になりがちな「自分できること」を具体的に実現させる契機とする。
・番組を通じて呼びかけることで幅広い人達の支援と英知を結集させる。
・広島から被災地へボランティア派遣のための仕組み作りに少しでも寄与する。
         
3 移動手段  
 車。バルコムUSTスタジオ(西区大芝)から釜石のボランティア受付所があるシープラザ釜石まで1374km。土日の高速道路特別料金を利用する。通常26250円 →5510円(片道) 往復11020円
4 日程    6月中。出来れば6月11日(広島発)~6月19日(広島着)※予定
5 宿泊    釜石周辺の格安施設を考えています
6 人数    5名~8名募集
7 応募資格 
・18歳以上の男女(原則男性)
・健康で体力に自信がある方
・期間内は同一行動の出来る方
・交通費や宿泊費・食事代などを一部負担できる方.
・広島市社会福祉協議会などでボランティア保険「天災Aプラン」(490円自己負担)に加入すること
・誓約書を提出できる方(後述)
・応募者は必ず事前に面接します。応募多数の場合はお断りすることもあります。

8 その他   
・ボランティア派遣に掛かる費用として私が50万円を提供する。
・このお金は参加者の交通費等にも使うが、出来るだけ節約し、余剰金は釜石市に寄付する。
・上記の理由によりボランティア参加者にも2万円を目安にして負担をお願いしたい。ただし特別の理由があれば負担金を免除することもある。
・ボランティアを不特定募集する際は、多くの場合誓約書の提出を義務づけている。ただし、本ボランティアでは応募者・参加者と話し合いながら誓約書の内容を決めたい。
・ゴールデンウイークが終わり釜石市のボランティアはかなり少なくなっている。一方で、被災した個人住宅での泥だし・後片付け、仮設住宅への引っ越し手伝いなどの需要は高まっている。釜石市社会福祉協議会からの条件として「5名以上の団体・ 1週間程度・自家用車で移動・宿泊は近隣で各自」が出ている。この条件に合うよう1~5について配慮した。
9 お願いなど  
・本企画に参加する意志のある方は本ブログのメッセージを使って連絡を下さい。その際、1お名前 性別 連絡先(メールアドレス) 2 ボランティア経験の有無 3運転免許の有無、その他資格・得意分野など 4 応募動機 などをお願いします
・「自分に出来ること」はボランティアをするだけでありません。経験談やアドバイスなどもお願いします。
・差しあたりヘルメットやスコップ出来れば一輪車なども自前で用意したいと思っています。提供してくださる方や貸して頂ける方も本ブログのメッセージで問い合わせ下さい。こちらから返信します。

 以上。     

         
          

 続いて釜石でのボランティア活動について少し

 岩手県内陸部から三陸海岸沿いに入るための交通手段が限られている。公共交通機関に限定するならまずはバスだ。盛岡発のバスが一日数本三陸方面に向けて出ている。しかし元々ルートは限られるているし、道路は基本的に1車線であるから、平時であっても三陸方面に行くのに2時間は優にかかる。現在は復興のための車両で交通量が増えているから、一部区間では渋滞となり、3時間くらいにはなる。さらに本数も限られているので、盛岡を拠点にして往復するのは簡単ではない。
 列車の場合はさらに制限をされる。山田線は盛岡-宮古間が復旧しているが、運転本数は限られているのでスケジュールが上手く立てられない。そもそも宮古-釜石間は、復旧の目途さえ立っていない。山田町に入ったとき山田線の状況を目撃したが、大きく歪曲した線路が散乱し、どこかに流された線路もある。駅(陸中山田駅)も駅の体をなしていないという(http://ameblo.jp/taku14/entry-10884871112.html 参照)。ここの復旧に手を付けるには素人目にも(或いは素人目には)相当の時間とお金が掛かると思った。また三陸各地を結ぶ三陸鉄道も大きな被害を受けていて、一部が営業運転をしているに過ぎない。
 唯一釜石線だけは全線再開し、平常運転をしている。盛岡6:05分発の始発列車に乗れば、9時前に釜石に到着する。帰りは17時40分釜石発の列車があるので、盛岡を拠点にして釜石へ日参することも一応可能だ。そこで山田町の翌日は釜石線に乗って釜石へ行くことにした。ボランティア活動の内容については前々回のブログで触れたので省略するが、考えた事を記しておきたい。
 
 釜石のボランティア受付の横にプレハブの施設があり、そこはボランティアの休憩場所になっている。昼時にはカップラーメンなどのインスタント食品が提供される。私もここでカップ麺を啜った。普段カップ麺を食することは皆無ではないけれど、避難所の方々は長くこういう食事が続いたのだと気づかされた。こんなものを(失礼!)3食続けていれば、体がおかしくなると思うのは不遜だろうか。その時点では物資の調達は進んだと聞いていたが、避難所での調理方法は限定されているだろうから、好きな品を自由にというわけにはいかないだろうことに今更ながら思い到ったのだ。
 
 ボランティア活動が終わり、釜石駅に向かった。少し時間があったので、待合室に腰をおろす。すると30代と覚しき男性がビールを飲んでいた。当然ながら(?)触発された私も少し飲もうと、近くのコンビニ(駅前のコンビニは営業していた)へ行き、ビールを買い、グビグビやっていた。すると先ほどの男性が声を掛けてきた。話を聞いてみると家が流されたので、避難所暮らしだという。「避難所では飲酒が禁止なんですよ。だから夕方はここに来てちょっとやってます」と照れながら話してくれた。つまみとして、竹輪を頂いたので、お返しにビールを追加で買ってきて提供した。心ならずも(ウソ)酒盛りとなり、色々と話をすることになった。
 彼の名は仮にAさんとしておく。メートルが上がるにつてAさんの話は深刻になる。今回の震災で自宅が流されただけでなく、同居していた両親が犠牲になったという。両親を助けられなかったことを相当後悔しているようで、自分を責めている。別の場所に住む弟からは「兄貴がいながらどうして助けられなかったんだ!」と責められることも自責の念を強くしている。掛ける言葉がない。しかし途中で気が付いた。Aさんにお酒を飲ませてはいけないのだ。お酒がAさんの自責の念を強くしているように感じた。楽しいとまでは言えないまでも気分転換になるお酒になるならそれもよいだろう。しかしこの飲み方は良くない。私自身にも酒にだらしない方だからわかるのだ。
 列車の出発時刻になったので、挨拶して別れた。広島にいるときには「被災地のためになにができるか」と考えていたが、この時以来「例えばAさんのために何ができ、何をするのがよいのか」と発問が変わった。そして盛岡へと帰る車中であれこれ考えた。上手く考えはまとまらなかったが少なくとももう一度ここに来ようと決めた。幸い(?)解約した定期のお金はまだ残っている。釜石市に支援金として一部を寄付したが、被災者の方に直接お金を渡すことはできなかった。例えばAさんにお金を渡せば、アルコール代となるのは目に見えている。それでは彼のためにならない。最初はお金を渡せば何かの足しになると思っていたが、お金の渡し方一つにも芸というか技がいることに気が付いたのだ。
 
 被災地復興のためには様々なモノ・コト・ヒトの支援が必要だし、場所によって、段階によってその内容は変わっていくだろう。現地の方が口にするのは一応食料品や生活支援物資は揃ったという。場所によってはインスタント食品などは2年分もあり、保管場所に困っているほどある。
 支援物資については岩手福祉協議会職員の方(佐々木さん)から聞いた話を特に附記しておきたい。 品数は揃ったが生活物資の質は十分ではない。協議会では支援物資として「新品またはそれに準ずるもの」と呼びかけている。それにも関わらず、ボロボロになった衣類などがクリーニングもせず送られてくる。衛生面を考えてもこういったものは、廃棄処分にせざるを得ない。それでなくても足りない人手が足らなくなる。さらにひどいのは「靴が片方だけとか、壊れたオモチャとか」も送られてくるそうだ。佐々木さん曰く「衣類は原則新品で(特に下着類)。最低でもクリーニングしたモノを」。肝に銘じたい。
 
 被災地共通の悩みは瓦礫の撤去だ。瓦礫を撤去した後は泥だしが待っている。機械である程度は片付けられる。しかし最後は人海戦術となる。スコップで泥を書き出し、一輪車で運ぶ。そしてスコップででもすくえなくなったら、手で書き出し、一輪車へ。他に仕事はたくさんあるから、工事関係者(プロ)にこんなこと(しかし大事な仕事だ)をやらせるわけにはいかない。よっし、決めた。残ったお金でボランティア隊を結成しよう。屈強な若者(自称可)をスカウトして少なくとももう一度ここに来るのだ。
 待合室で飲んだビールが盛岡へと向かう気動車の振動で増幅され、あれこれと妄想していると、列車がある駅で停車した。車窓から見るともなくホームに目をやると「土沢駅」の看板が見える。これは後から調べたのだが、この駅は花巻駅の管理下にあり、駅員は常駐していない。
 そんなローカル線の寂れた駅に過ぎないが、「当駅の周辺施設案内」の看板を見て思わず声をあげてしまった。「萬鉄五郎記念館 徒歩8分」とあったからだ。
弘の手紙-萬鉄五郎萬の絵を最初に見たのは、東京竹橋にある国立近代美術館で。特別展として「ゴーガン展」(それにしてもいつの間にゴーガンに?私の学生時代は「ゴーギャン」だった)を開催中の折、会場2階の常設展で目にしたのだ。正直言うとゴーガンよりも萬の方が印象的だった。大好きなマティスの影響が明らかであるのも好ましいと思った。その萬の出身地が岩手県だとは不覚にも知らなかった。記念館は彼の生地に建てられたものだ。昼間だったらこの駅で飛び降りるところだが、すでに夜も8時を廻り、そうもいかない。しかしこれでここにやって来る理由がまた一つ増えた。
もう少し被災地ボランティアの話を。

 意気込んで広島からやって来たが5日間の滞在中ボランティアに参加したのは、山田町と釜石市の各1日のみ。役に立ったというレベルではなく、仕事に慣れる間もなく、広島に帰ったので、単なる足手まといである。それでも現地に分かったこともあるので、少し書き連ねてみたい。

 まずは山田町から。山田町は今回の震災で行方不明者を合わせると800人以上の犠牲者を出した。いや現時点での正確な数字を出しておこう。山田町役場のホームページによると死者は566名、安否不明者は266名である。平成22年の国勢調査では町の人口は18625人だから、町の約5%の方が犠牲になられたことがわかる。数字だけを出すとかえって上手く想像できないかもしれないが、これは大変な数字だろう。
 ボランティアバスが山田町に入ると今までの風景画一変する。沿岸部は瓦礫の山が散乱し、住宅地と覚しき場所のほとんどの住宅が流失している。少し大きな建物は辛うじて残っているが骨組みがむき出しになっており、とても施設としては使えない。今更ながら津波の激烈さを痛感した。ところがバスが沿岸部を通りすぎ、一旦高台の方へ入ると、再び風景は変わる。外観からは、全く被害を受けていない家々が続くのである。当たり前のことであるが同じ被災地と言っても被害は一様ではないのだ。 しかし被害を受けていない家屋であってもそこに住む人達が平穏無事というわけではない。電気水道などのライフラインはまだ完全には復旧していない。途中落雷などもあり、一旦電気が通ったところも再び停電になった地区もあるようだ。水道にしても漏水が多発しているようで、現段階ではとても元の生活というわけにはいかないだろう。さらにいえば、町の中心は沿岸部にあったから、生活物資が手に入らないという状態が長く続いたという。5月17日の段階で山田町の避難場所は29箇所、2594人の方が避難している。その他食事の支援を受けている方が1004名。避難している方々はもちろん、その支援に携わっている方の披露はピークに達しているだろう。430名の自衛隊の方が復旧に向けて努力されていることも附記しておきたい。

 バスは再び沿岸部に入り、目的地である山田北小学校へと到着した。校舎は少し高い場所にあるので、津波の被害は免れた。しかしグランドには様々なものが流れ込んできたという。私が来た段階ではグランドの大きな瓦礫は全て片付けられ、後は細かいゴミや泥出し作業をするという段階であった。最初からここのボランティアに参加していた人達によると、最初は校庭の木にイカが引っかかっている状態だったらしい。ここは海からは数キロ内陸部に入った場所であるにも関わらずである。また学校前の住宅地はほとんどが跡形もなく流されているが、川伝いに津波が押し寄せこのように大きな被害となったのだった。
 私が山田町に入ったとき山田北小学校は避難場所になっていた。校舎裏の体育館には被災者の方が避難されていて入り口前には洗濯機が数台稼働していた。その横にはなんと土俵があった。相撲の盛んな地域なのだろうか。ただし、その土俵は被災者の方の洗濯干し場になっていて本来の役目を果たしていない。まずは土俵が相撲を取る場所になること。そのためにも何度でもここに来ようという思いを強くするのであった。
メチャクチャ久しぶりの更新。言い訳をしていたら、それだけで終わりそうなので、早速始める。

 更新が滞っている間に、震災があった。地震の自体ももさることながら、それに伴う津波の被害が特に甚大で、原発事故が被害を更に大きくしている。戦前生まれの人達は東北の現況を終戦直後の焼け野原になった日本の状況になぞらえる。その比較が正しいかは「もはや戦後ではない」時期に生まれた私には判断できない。しかしテレビから映し出される被災地の映像があまりにも凄惨なので、年配の人達がその種の発言をするのが理解できるような気になる。私の母も義理の母も戦前の広島生まれであるが、東北の現況から原爆直後の広島を思い出すようで、映像を正視できないという。

 とは言いながら、西日本の現状は同じ日本とは思えないほど平穏である。テレビの映像は我々の胸を痛めるけれど、テレビを消した後は、何も変わっていない。もちろん同じ日本人として心を痛め、何が出来るかと自問自答して支援物資や支援金の準備をしたりした。しかしテレビから流される映像が凄惨であればあるほど、かえって人間の想像力を奪うような気がする。私には何をどうすれば良いか、上手く考えがまとまらなかった。一方でテレビや新聞では「自分たちにできることをやる」の大合唱だ。私もその一人だから偉そうなことは言えないのだけれど、多くの人の「自分たちに出来ること」はあまりにも矮小ではないだろうか。例えば震災直後にチェーンメールで「節電を」が飛び交ったが、東日本ならいざ知らず、西日本での効果は疑問である。もっと出来ることがあるだろうと思いつつ、何となく3月が過ぎていった。

 4月になってあるジャーナリストの文章を目にする機会があった。その人は震災直後にすぐに東北に入り各地にを廻って被害状況を確認し、文章を物している。その際、旧知の零細企業の経営者複数にかなりの金額を提供したという。本人の言によれば「預金残高が8万円になった」という。その後そのジャーナリストがツイッター上で「100万円持って東北を廻り、肉親も家も、思い出も失った人達に静かに置いてこい」「お金は直接届けるのが基本」とつぶやいているのを目にした。丁度その頃日本赤十字社の義援金分配方法が問題になっている時だったので、「自分に出来ることはお金を直接届け、少し片付けのお手伝いをすることだ」と思い込んでしまった。
 一旦思い込むと私の行動は早い(しかし冷めやすい)。早速銀行に行き、定期を解約し、色々調べて飛行機で秋田へ飛び、岩手へ移動することにした。4月18日広島空港を出発し、4泊5日の日程である。まだ東北新幹線も全線復旧しておらず、行動範囲は限られるから盛岡から岩手各地へ出ているボランティアバスに参加することにした。
 盛岡に着いてみると既に落ち着きを取り戻していて、広島と何も変わらない。駅には人が行き交い、市内至る所に散見される「がんばろう、東北」の幟がなければ、地震の痕跡を探すのは難しい。震災直後は盛岡市内でも数日間電気が止まり、4月上旬の余震でもかなりの被害があったそうだが、私の行った時期には、日常を取り戻していた。岩手県は北海道についで面積の広い県だそうで、内陸部の盛岡から三陸海岸各地にはどこへ行くにも2時間以上掛かるという。地震の被害は決して小さくはないが、今回は津波が沿岸部に大きな被害をもたらしたことを改めて痛感した。
 到着翌日からは山田町、釜石市のボランティア活動に参加した。山田町へは盛岡から出発するボランティアバスに乗り釜石へはJR釜石線を利用した。滞在期間が短いので、活動は限定される。それでも山田町では山田北小学校のグランド整備を担当した。4月21日の学校再開に向けてグランドに積もっている泥を掻き出すのだ。スコップで一輪車に泥を盛ってグランド脇へひたすら運ぶ。その繰り返しだ。その日は午後からみぞれ交じりになるほど、気温の下がった日であったが、わずか5分の作業で目に汗が入る程になった。単純作業だが、この種の経験がほとんどない私には非常にきつい作業だった。それでも始まる前に、校長先生から「明後日の学校再開に間に合わせてほしい」という要望があったので、張り切らざるを得ない。フーフー言いながら、不慣れな
非常にきつい作業だった。それでも始まる前に、校長先生から「明後日の学校再開に間に合わせてほしい」という要望があったので、張り切らざるを得ない。フーフー言いながら、不慣れな手つきで一輪車を操っていると、
も始まる前に、校長先生から「明後日の学校再開に間に合わせてほしい」という要望があったので、張り切らざるを得ない。フーフー言いながら、不慣れな手つきで一輪車を操っていると、同じボランティアの参加者で阪神大震災を経験した大阪の植木職人のおじさんが私の肩に手をかけた。そして言った。「おまえ、張り切り過ぎや。そんなペースで運んでいたらすぐ倒れるで。倒れたら何しに来たんかわからんようになるで」。

  釜石へは列車で移動した。盛岡市発でも釜石へは9時近くに到着。山田町で泥出しのコツも少しわかったので、ヘルメットをかぶり、長靴を履き、スコップをというフル装備でボランティア受付所へ行く。
ところが運悪く、泥出しの割り当ては既に満杯だという。しかしこのまま帰るわけにはいかない。そこで臨時釜石市役所となっている「シープラザ釜石」で事務手伝いという私の格好からしたら、最も遠い仕事を割り当てられた。
 しかし結論から書けばここでの経験も非常に勉強に(こういう書き方が適当であるかは迷うが)なった。私の担当は被災者の生活支援のための申請書類や必要書類をコピーしたり、申請の順番を待っている被災者の方の案内をすることである。釜石市では肉親を亡くした方には250万円~500万円、家の被害についてはその状況に応じて、300万円までの支援金が支給される。お金ですべてが解決できるわけではないが、少しでも早く、お金を支給したいと思いからか、釜石市職員の方はその時点で1ヶ月間休日なしで、申請手続きを受け付けていた。しかも自身も被災者なのである。申請内容も非常に重たいものだから、書類をコピーする私がヘラヘラしているわけにはいかない。申請書類に必要な預金通帳のコピーも私の仕事であったが、二つに一つの割合で、通帳は泥で汚れ、水をかぶっていることが明らかだ。そのことが私を更に緊張させる。格好はともかくとして、私なりに姿勢を正して仕事を続けた。
 結局ここには8時間いたが、30分の昼食休憩を取った他は約8時間立ちっぱなしであった。泥出しならば、自分のペースでやっても誰も咎めないが、ここでは気を抜くことは出来ない。見た目よりもずっときつい仕事だし、そしてまた大事な仕事でもあることがわかったのだった。
 
 また更新の間隔が空いてしまった。これついてあれこれ言い訳をしていると、本題に入れない可能性があるので、早速k氏のメッセージについて始めることにする。

 私のブログである<弘の手紙>をみたK氏からメッセージを頂いたのは、昨年末。調査に行き詰まっていた頃で、更新は1ヶ月以上滞っていた。そんなとき思いがけないメッセージを頂いたのだから、とても有り難かった。
 頂いたメールの件名には「<弘>さん渡米記録にご興味ありませんか?」とあった。興味がないはずがない。むさぼるように内容を読み進める。K氏は西洋音楽史に関心があり、船上のオーケストラを一つのテーマに掲げて、長年研究されているとの由。<弘>が乗船した<春洋丸>も守備範囲で、多くの資料をお持ちだという。<春洋丸>には、デビュー当時から楽団が乗船していたのである。さらにK氏は続ける。大正10年10月13日出港の<春洋丸>(この便に<弘>は乗船した)には、5名の楽士が乗船しており、それはワシントン公文書館の米国入国資料で確認できるという。それならば当然<弘>の入国資料も見つかるはずだから調べてみましょうかというのがK氏のメッセージの要旨だ。
 調査が行き詰まっていた頃だったので、渡りに船とばかり早速お願いをした。年末でお忙しい時期にも関わらず、すぐに調査結果の返信を頂いた。米国入国記録と英国入国記録が見つかり、それらの記録の画像を添付してくださった。
 画像を参照して頂きたい。資料のタイトルには
「RIST OF MANIFEST OF ALIEN PASSENGER FOR THE UNITED」とある。タイトルの下に「Sinyo Maru,Passenger sailing from Yokohama,October 13, 1921」とあり、<弘>が乗船した春洋丸の入港記録であることがわかる。果たして「8」に「Takeguchi Hiroshi」の名前がみえる。職業欄には「Clerk Ry Manchuria」とあり、「Ry」は「railway」の略号であるし、「Manchuria」は「南満州」の英名であるから、この記録が<竹口弘>のものであるのは間違いない。既に分かっていることだが、年齢は「29歳と3ヶ月」であることがこの記録からも確認できる。興味深いのは、「the name and complete adress nearest relative or friend in country whence alien came」の欄に妻の「安子」ではなく、本家の当主(<弘>の叔父)である「礼三」の名を記していることである。
 本家「竹口家」は江戸時代から深川永代橋近くに「ちくま味噌」という商店を構え、現在に至っている。弘の手紙聞きかじりなのだが、「ちくま味噌」は由緒正しい商家だという。明治18年初演の歌舞伎狂言「四千両小判梅葉」の中で「道理で味がいい 。味噌は ちくまにかぎるのう」と言う台詞場面が登場するほどだ。
 <弘>はアメリカに旅立つ前日から、「麹町1番町」の「竹口本家宅」に宿泊した。出発当日は朝8時に本家を出て、東京駅を経由して、横浜港に向かうことになるが、東京駅まで、当主の見送りを受けている。そして入国記録では一種の保証人として、本家の当主の名を記す。本家に対する<弘>の複雑な思いを読み取るのは穿ちすぎであろうか。

 多くの人にとってこの入国記録は何の価値もないだろう。<弘>の足跡を追っている私にしてもたった1行の一資料に過ぎないともいえる。しかし、この一見無味乾燥に思われる1行から確かに<弘>が現れ出るのだ。例えば年齢。30歳を前にして「欧米への留学」の夢が実現した<弘>。出発の日には本家の当主の見送りを受け、米国入国に際しては保証人(?)の欄にその当主の名を記す<弘>。この一枚の記録から、<弘>の気負いが読み取れるように思うのだ。そしてさらなる空想が広がっていき、横浜港を出港した日に港まで見送りに来た親友堀木克三のことに思いが至るのである。

 <弘>がアメリカへと旅だった1921年より先立つこと8年前。1913年(大正2年)<弘>は満鉄に入社した。勤務のため満州に赴く前に、宇治山田中学校以来の親友である堀木克三と横浜に遊んだことがあった。克三とは中学時代に同人誌を発行した仲である。外地へ赴けば気軽には会えなくなるので、旧交を温めつつ、痛飲しようという魂胆である。果たしてへべれけになった二人であるが、酔い覚ましに港へと足が赴く。千鳥足で港へ辿り着いてみると、アメリカへと向かう商船が丁度出港するところであった。先程までろれつが良く廻らなかった<弘>であるがその船をジット見つめると、急に正気に戻ったかのように「いつかアメリカというところに行ってみたいなぁ」とつぶやくのであった。その言葉に「そうだな」と短い言葉で応じて頷く克三。その後二人の間に沈黙が流れたのは、その実現がかなり難しく、<弘>の言葉を借りれば「夢のまた夢」であることをよく知っていたからだった。
 それが8年後「思いもかけず」実現したのである。上記の入国記録は単なる年齢の数字ではなく、行間から、長年の夢を実現させつつある、鼻息の荒い<弘>が登場するのだ。一度紹介したが、その有頂天ぶりは<弘の手紙>の中で次のような記述にあらわれている。

<これで初めて米大陸の土を踏んだわけだ。幾年も以前より夢に見ておった亜米利加、其アメリカの土を今ふむのかと思ふとうれしくて靴のかゝとがおどる様な気がする>