ニューヨーク市立図書館の地図室は12時開室なので午前中は地下鉄に乗って「110th駅」へ。昨日の成果であるwest111通りの8階建てのアパートを求めて、歩き出す。駅からは15分ほどの道のり。111通りは古いアパートが建ち並ぶ住宅街であるが、番地の番号が大きくなるにつれて、高級感が増してくる。 弘の手紙-111th
そして問題の528番地、532番地、536番地に到着した。この3つのアパートは同じ8階建てで、建物の外観や意匠も似ている。532番地の建物がだけがやや幅広である。相当年期は入っているけれど、廻りのアパートに比べると3つとも高級感がある。
 エントランスは現代的に言えばオートロックになっていて、横にそれぞれの部屋の呼び鈴がある。中に入るには、呼び鈴を押して、それぞれの部屋の住人から解錠して貰うシステムだ。呼び鈴はそれぞれの部屋番号とともに住人の名を書いたプレートが貼ってある。3つのアパート共に同じ構造である。そしていずれのアパートにも43号室があり、4階の部屋である。つまり<弘>が<43番地>と書くのは43号室の事ではないか。そうだとすると、<弘の手紙>の中の記述と辻つまが合う点が少なくないのだ。例えば、<弘>が日課にしている散歩コースはリバーサイドパークであるが、ここからは目と鼻の先の距離だ。また<弘>がニューヨーク入りして、最初に下宿を訪れたとき、110駅からタクシーに乗っている。実を言うと、110駅から43番地は徒歩2,3分の距離で、車で行くには近すぎるのだ。しかしここなら車でも5分くらいは掛かる。歩けない距離ではないが、ニューヨークに到着した日だから、大きいな荷物を抱えていただろうし、車に乗った事は十分考えられる。
さてここまで来たら3つのアパートから1つを特定するにはあと一息だ。その方法は前日司書の方から伝授して貰った。それは1922年のニューヨーク州住所録から下宿人の名前を探し出すというものだ。残念ながら名前からの検索しかできないが、住所の他、職業や生年月日、家族構成などが分かる場合もある。
 <弘>は大家を<マックス・セルホルン>と記す。スペルが不明なのが辛いところだが、本日の午後はマイクロフィルム化された1922年の住所録をひたすら捲ることになるだろう。地図室の開室まではもうしばらくあるので、その前に鋭気を養うことにしよう。
 
 110th駅まで戻り、セントラルパークを59丁目まで縦断することにした。セントラルパークは平日の午前中であったが、この日は天気がよかったせいか割と人がいる。そしてランニングをする人の多さにも驚かされる。湿度が低いとはいえ、気温は30度以上だから、皆さん汗だく。ご苦労なことである。
弘の手紙-たわん inセントラルパーク
 セントラルパークの中にある人工湖はかつては貯水池として利用されていた。この周回は1周2・5キロなので、人気のあるランニングコースになっている。実際ランニングしながら行き交う人が多く、写真を撮るのにも一苦労した。公園としての敷地面積を増やすため、この湖を埋め立てるという計画もあるらしい。
 
 一度書いたことがあるが、このセントラルパークは規模の大きさもさることながら、その特徴はすべてが人工であるということ。芝生はもちろんのこと、深い森と見まがう木々も、そして湖もである。最初は摩天楼が続く大都市の中に公園があるので感心していた。その成り立ちを知るにつれて、何だか落ち着かなくなる。ここから眺める摩天楼の風景と同化され、自然の中に居るような気がしないのである。
 
弘の手紙-たわん inセントラルパーク2
 さてそろそろ時間だ。複雑な気分で、ニューヨークの摩天楼を眺めつつ、90年前のニューヨークの一端を明らかにすべく、ニューヨーク市立図書館へと向かう<道楽息子>であった
 <弘の手紙>の記述から<道楽息子>はその下宿先の住所を<43 west 111th>と考え、前回のニューヨーク滞在中の時に現地を訪れたのだった$弘の手紙-パブリックスクール該当地は公立学校であった。正確に言えば、その学校の校庭付近が43番地である。その時は90年前には現在は校庭となっている場所に下宿先のアパートが存在したのだろと判断して、それ以上の調査は諦めた。ところが今回ニューヨーク市立図書館の地図室で90年前の地図を出して貰うと、弘の手紙-90年前の地図当時から、既に公立学校であった事が判明した(第170公立学校。現在は第208公立学校になっている)。通りを挟んで正面に44番地(赤で囲んだ数字)はあるが43番地は地図にはなく、番地としても登録されていない。マンハッタンのwest通りは西に向かって番地の番号が大きくなり、通りの左側が偶数、右側が奇数であるのが原則だから、少なくとも111通りの43番地にはアパートは存在していないのである。
 以上から分かることは、下宿の住所を<弘>は<西区43番地>と書くが、この番地の表記が間違えであった可能性が高いと言うことだ。<弘>の記述、「111丁目」を111通りと解釈したわけだが、もちろんそれが間違っている可能性もある。しかしグランドセントラルから、「110通り駅」で下車して下宿先に向かったと記述しているので、111通りというのは、間違いなさそうである。しかも111通りは<弘>が書くようにアパートが建ち並ぶ<住宅街>である。ただし、おそらくその当時からほとんどのアパートが建て直されていないので、相当古びて入るけど。

 困ったときには<弘の手紙>に立ち返るのが鉄則だ。シカゴからニューヨーク・グランドセントラル駅に到着し、下宿へと移動する記述を確認してみよう。


 八階のアパートメント。独逸人でもう十余年も米国に住い、かって日本にも二年ばかりおったという人の家庭である。夫婦に男の児が一人。自分等二人と他に英国人が一人下宿しておると云ふ。そこの第四階までエレベターであがり、自分等の室に通された(大正10年11月13日付)

 先の90年前の地図は、番地が分かるだけではない。情報の宝庫なのだ。例えば「PUBLIC SCHOOL No170」の正面に「150」の文字が見える。これは番地ではなく「150フィート」(約45㍍)を意味し、学校の横幅を表している。また赤く囲んだ「44番地」の後ろに「5B」とある。これは「5階建てのアパート」を意味する。そこで<弘>が記述する<八階のアパートメント>を地図から探す。すると111通りには、「八階建て」の建物は、3つしかない。住所でいうと、528番地 532番地、536番地である。もし<八階>というのが正しければ、そして<111通り>というのが正しければ、この3つに絞られるわけだ。問題は、なぜそれを<弘>が<43番地>と表記したかである。これは現地に行ってみなければ分からない。間もなく閉館の時間が近づいているので、いや、正確に言えばビールを飲まねばならない時間が迫っているので、本日はここまでにしよう。明日は図書館が開館する前に現地に行へ行こうと決めた。さて次の仕事に取りかかる。グランドセントラル駅名物オイスターバーに移動だ!
 やっぱりニューヨークは楽しいな。 
 約2ヶ月ぶりのニューヨーク。日本ほどではないけれど、イギリスに比べれば暑い。前回は初めてニューヨークで舞い上がってしまったけれど、今回は滞在期間も限られているし、目的もはっきりしているからのんびりしていられない。ニュージャージーのニューアーク空港に早朝到着。マンハッタンへならジョンエフケネディ空港よりも近く、電車を利用すればペンステーションへは30分くらい。ペンステーション近くのホテルに荷物を置いた後は、地下鉄で、ニューヨーク市立図書館に移動した。前回、ここで調べものをしたが、<道楽息子>の英語力では限界がある。まあ、最初から分っていたことなのだが。そこで、今回は通訳を頼んだ。色々なツテを頼りに、ニューヨーク在住の日本人で某大学大学院生のMさんを紹介してもらった。Mさんは、ドキュメンタリーの手法について勉強して、<道楽息子>が調べている内容にも興味を示してくださった。しかもニューヨーク市立図書館でのアルバイト経験もあり、知り合いも多い。何処で何をそして誰に聞けばよいかを熟知しているとの由で、心強い限り。
 待ち合わせたのは、図書館前。挨拶もそこそこ、早速調査に入る。はっきり言って<道楽息子>より気合が入っている。「まずはお茶でも」という提案を「時間がもったいない」という一言で、あさっり却下して、地図室を一目散に目指す。前回結局わからなかった<弘>の下宿先を特定するのが、最初の作業になる。地図室に入るとMさんが鼻息荒く、司書に用件を切り出す。互に顔見知りらしく、ファーストネームで呼び合っている。そのやり取りを呆然と見守る道楽息子である。
弘の手紙-ニューヨーク市立図書館
 <弘の手紙>の中で自分の下宿先について<紐育市西区第百十一町目 四十三番地 マックス・セルホルン方>と書く。以前ニューヨーク入りした時、この住所を<43 WEST 111ST>と解釈して、該当地を訪ねると公立学校であった(<弘の手紙その28>参照)。そのときはそれ以上の調査を諦めたが、今回はまずその確認からはじめる。そこで90年前の住宅地図を出してもらう。1916年と1924年の地図が存在するとの事なので、両方とも出してもらった。そして前述の住所を確認。やっぱり公立学校になっている。さらに司書の方から衝撃の発言が飛び出す。「WEST 111ST(通り)には43番地が存在しない」。
ああ・・・・振り出しに戻った・・・
 唐突であるが、かつて植草甚一という人がいた欧米文学やジャズや映画に造詣が深く、それらの評論家と位置づけられているが、そのような既成の一つの枠には収まらない人物である。死後30年以上経過しているのに、そのエッセイというか随筆には未だに熱烈なファンがいてその全集は現在でも新刊で手に入れることができる。出版サイクルが年々短くなる中、例外的な事象であるだろう。植草甚一は独自の世界を持ち、新しい物に対する好奇心も旺盛であったが、その言葉には思いのほか軽薄さがない。彼の根底に明治生まれのインテリが持つ教養があるからなのだろう。それが熱烈な読者を生む源泉になっていると思う。そしてと言うべきか、だからと言うべきか彼の評論は玄人受けする。独自の世界であるから、万人が入り込めるわけではない。しかし一旦その虜になると抜け出すのは難しい。彼のファンは植草を偏愛する。だから2007年に世田谷文学館で開催された「植草甚一/マイ・フェイヴァリット・シングス」と題したディープな展覧会も可能になる。その展覧会では彼の愛用品(ブローチや腕時計)や友人に宛てた絵葉書、手がけた雑誌の表紙などが展示された。おそらくマニアは例えばその中の古びたラド-を見つめ、その腕時計を手に入れるまでの彼のエッセイを思い返し、「5番街の、お気に入りのあの店で買ったものだな」とつぶやきながら、一人悦に入ることになるのだ。こういう展覧会が成立すること自体、植草らいしといえるし、ファンが何を望んでいるかが分かる。そうなのだ、作者も読者もひと癖もふた癖もあるので迂闊には近づけない。
 前置きが長くなった。再びニューヨークへと向かう機内で、日本から持参した植草甚一の「ぼくのニューヨーク地図はできるまで」を紐解く。映画やジャズ、文学を通して、ニューヨークについてはかなりの知識を持っていた植草であるが、1974年、初めてニューヨークの地を踏む。その時の滞在は3ヶ月半に及んだ。一旦帰国したが翌年もまた3ヶ月以上滞在し、ニューヨークに関する発言が多くなり、注目を集めることになる。その中の1冊が「ぼくのニューヨーク地図ができるまで」だ。ニューヨーク滞在中に古本屋や骨董品屋を廻る中で、植草独自のニューヨーク地図を作り出す。その過程が彼お気に入りの店主やニューヨーカーとの交流や、彼自身の文学・映画・ジャズなどに関する知見を交えながら披露される。植草の魅力が詰まった1冊だ。ブリティッシュエアラインのエコノミーで供される赤ワインは正直あまり美味しくはないが、この1冊があれば、そんなことは忘れられる。

 
 さて、「前置きが長くなった」と書いてからも既に長いが、ようやく本題に入る。
 <弘>は大正十年から1年間欧米を廻ったわけであるが、その旅程の内訳を改めて確認してみる。1年間の内、船や鉄道で移動している時間が約3ヶ月。イギリス・フランス・ドイツを中心としたヨーロッパに二ヶ月半。そしてアメリカには六ヶ月半滞在したことになる。そして<弘>の足跡を地図にするのが今の目標だ。題して「<弘>の世界地図ができるまで」。その地図は平面ではなく、90年という時を超えているので、四次元空間となる・・・などと書くと、バカがばれるというか中途半端な知識で書いていることがバレルので、この辺で止めておこう。間もなく再びニューヨークに到着する。まずは「<弘>のニューヨーク地図」を完成させるべく、がんばりつもり。大丈夫かな?・・・・
 ニューヨークへの移動を前にして、堅苦しい話は抜きにして、ロンドンの感想をあれこれと。

 3年前のラグビーワールドカップフランス大会の折、初めてイギリスの地を踏んだ。いや、正確にはアムステルダム経由でウエールズに入り、飛行機で、エジンバラに移動した。その後は飛行機でボルドーへ。そうなのだ、わざとロンドンを避けて、旅程を組んだ。ロンドン経由にした方が旅費は安く済むのだけれど。

 <道楽息子>には、友人と呼べる外国人が二人いる。一人は誇り高きウエールズ人、そしてこれまたプライド高き、スコットランド人。性格は全く異なる二人であるが、いくつか共通していることがある。その一つが、奥さんが日本人で、日本語が堪能なのこと。二つ目は際限なくビールを飲むこと。そして三つ目がとにかくイングランド嫌いであることだ。彼等二人の薫陶を受けた<道楽息子>も勿論イングランド嫌いである。旅費が安いからと言ってイングランドに一円でも落とすのは我慢ならんということで、前述のような旅程を組んだ。その報告のため、3人でアイリッシュパブに集結し、大いに気炎を上げたのであった。
 そんな過去を持つ<道楽息子>であるから、ロンドン上陸は躊躇した。ところが一旦ロンドンを巡ると今ではすっかりイギリスというか、ロンドン贔屓である。ゴメンね、マクリーン&デービス。読んでないと思うけど。(笑)
$弘の手紙-ハンプトンコート
 ロンドンでよかったのは、王室関係の施設。イギリス王室が歴史的産物ではなく、現役であると言うことが、大きいと感じた。保存と言うより、維持しているという印象。フランスのような歴史的施設ではないから、気合いが違うのである。特にウインザー城とハンプトンコートが印象に残っている。
$弘の手紙-ユニストン湖
 そして何と言っても湖水地方。2泊3日の慌ただしい旅程だったのは何とも残念。ここはハイキングや、ボート、読書や家族や友人との語らいなどを楽しみながら過ごすのが正しい過ごし方なのでしょうな。実際イギリスのお金持ちは特に夏の間そのように過ごしているようだ。
$弘の手紙-ラスキン邸
 そして今回のイギリスの旅で、痛感したのは、その歴史を知らないこと。高校時代は、世界史選択だったので、おおよその概略は知っているつもりでいたけれど、その知識がほぼ役に立たず。忘れていることも多い。知らないといえば、この国から輩出された思想家や文学者についての知識も欠乏している。日本語のガイド本でも湖水地方に縁のある文学者や思想家として、ワーズワース、ビアトリクス・ポターそしてラスキンが紹介されいる。知っているのは名前だけで、1冊も読んだことがない。「ピーターラビット」を読まずに湖水地方に行くのは掟破りかもしれない。しかし一番今回心を惹かれたのは、ラスキンだから、必ず手にとってみようと思っているのだが。
 恥を晒すついでと言っては何だが、最後に告解を。ロンドン行きの飛行機の中で知り合った日本語のメチャクチャ堪能なイギリス人に「高慢と偏見」を勧められたのだけれど、手に入れて驚いたのは、作者のジェイン・オースティンが女性であるということ。バカはいやですね。


業務連絡
 あばあさま、お母様、そして、先日お目に掛かった、<弘の手紙>友の会(?)の素敵なおばさま方。本日大変結構なものを頂戴しました。ありがとうございました。こんな形で、お礼を申し上げるのは、どうかとお思いのことと存じます。しかし本日の夕飯は丁度炊き込みご飯にしようと思っていたところでしたので、あまりのタイミングの良さに思わず書き込んでおります。何とぞ無礼をお許し下さい。そして今後ともご愛読よろしくお願いします。