いまさら書くことでもないが、<弘>の足跡を辿る旅は、既に終わり、9月半ばには帰国している。当初、旅の間はほぼタイムラグなく、ブログをアップすることを目標としていた。しかし現地での調査が思うように進まず、中々はかばかしい成果が上げられない。するとブログの更新が億劫というか、書く事が限られるようになり、徐々にその頻度が少なくなる。そうこうするうち、旅は終わりを告げ、帰国してから時間がかなり経っているのに、その報告は中途半端なままだ。意志薄弱なのである。これではいかん、フンドシを締め直すことにしよう。そんなときは<弘の手紙>の原本に立ち返ることに限るのだ、と空元気を出してみる。

 <弘の手紙>の原本は、友人Zが書斎として使用しているマンションの一室にある。90年の時を経て、かなり劣化しているので、<弘の手紙>の翻刻を依頼してきた友人Zが出した唯一の条件はこの原本をこの一室から出さないことであった。もちろんコピーは厳禁だ。その代わり、この書斎を自由に使い、翻刻作業をする許可を得た。有り難いことである。作業は昨年末より、スタートして、途中少しのブランクを経て、春先に一応終了した。そしてこの作業を通じてすっかりその魅力に取り付かれた私は、5月末から、<弘>の足跡を辿る旅に出たのである。まずはアメリカへ。一旦帰国して、今度はヨーロッパへ。ヨーロッパの途中で、再調査のためニューヨークへもう一度立ち寄り、ロンドン経由で帰国したのが前述したように9月半ばである。(既に11月だ・・・涙)。
 
 <弘>の書く文字は味わいはあるが、癖字で、読みにくいところが少なくない。その読みづらい原本を翻刻し、誰でも読めるようにワープロソフトでパソコンに入力するのが、友人Zから受けた最初の依頼であり、そして私が行った最初の作業でもあった。<弘>の癖字はワープロソフトの明朝体となって画面上に蘇り、ずいぶんと読みやすくなった。そして兎にも角にもパソコンさえあれば、どこででも<弘の手紙>を読めるようになったのだ。印刷すればもっと手軽に読むことができる。当然ながら、旅の途中も折に触れてと言うか、毎日のように<弘の手紙>をパソコンの画面上で確認するのが日課となる。調査が思い通りに進まないだけに、「困ったときには<弘の手紙>へ」という原則に従った。何かヒントやきっかけを貰うべく、まるで<弘>の声を聴くかのように、<弘の手紙>を何度も読み直した。<弘>が何かヒントを呟かないかと文字通り耳を澄ませながらのだ作業だ。しかし画面上の文字にいくら耳を近づけても<弘>の声が聞き取れない。確かに何かを呟いているのだ。でもその声はあまりにも小さかった。90年という時間がその声を小さくしていると感じていた。

 帰国してから、友人Zに旅の報告をすべく再会した。旅のエピソードを語る中で、友人Zが「おまえが、翻刻した<弘の手紙>はずいぶん間違ってるぞ」と指摘された。実を言うと翻刻作業は一応終了したが、読めない字も少なくなく、「て・に・を・は」レベルの間違いもあると感じてはいた。意味の通りにくい箇所もある。ただ大勢に影響はないとどこかでたかを括っていたのだ、<弘の手紙>の価値は少々の間違えでは変わらないと。大馬鹿である。

 もちろん間違いは少ない方が良い。友人Zの指摘を受け、再び、例の一室を使わせてもらう事にした。久し振りに<弘の手紙>の原本と再会したのだ。時間は限られているので、早速照合作業に入る。確かに友人が指摘するように間違いがいくつも見つかる。単純な打ち間違えだと思っていた「て・を・は」でもその間違いで文意が変わってしまう場合もある。今更ながら、自分の認識の甘さに頭を抱える。
 それ以上に驚いたことがある。それは<弘の手紙>の原本とパソコン上の本文とはたとえ翻刻の間違えがなくとも等価なものではないということだ。両者は表面的には同じ文字が並んでいるが、それを読んで入ってくる情報は全く異なる。
弘の手紙-弘の手紙原本
 とにかく<弘の手紙>の原本は五感に訴えるのだ
 まずは嗅覚。今まで意識していなかったが、鼻をクンクンさせると文字通り紙とインクの匂いが立ち上ってくる。そうなのだ、<弘>の匂いだ。実際には<弘>に会ったことはない私であるが、なぜか懐かしさを感じさせる匂いである。
 そして触覚。紙の劣化が進んでいるから丁寧に<手紙>を捲る。すると<弘>の文字を確かに手に感じることができる。パソコン上の画面では決して味わえない感覚だ。さらに「ここには<弘>の指紋も残っているに違いない」とバカなことも考えて、一人悦に入ってしまう。 
さらに聴覚。パソコンからは聞こえなかった<弘>の声が確かに聞こえる。例えば大正11年1月1日。新年をニューヨーク州ロチェスターで迎えた<弘>は市内在住の日本人宅で過ごしている。そこで日本人7名が集合し、新年会を催している。餅を堪能しつつ、スキヤキに舌鼓を打つ。当時のアメリカは禁酒時代であったが、当然お屠蘇も入り、メートルは上がる一方。すると自然に「何か余興を」ということになり、<弘>の番が回ってきた。

<自分は鴨緑江節と安来節とをやった。アメリカと云ふ土地で日本歌は一寸変だがモチを喰って歌を歌へばこれで正月も満足にすませたわけである。>(大正11年1月1日付)。

 鴨緑江節は俗謡の一つで鴨緑江に出かせぎに行った筏師(いかだし)に歌われて日本各地に伝わり、大正年間、流行歌として親しまれたものだ。<弘>の次女(友人Zの母)によれば、<弘>はかなり音痴だったらしい。だから私には<朝鮮と、ヨイショ支那の境のアノ鴨緑江流す筏は、アラよけれども、ヨイショ雪や氷にヤッコラ、閉ざされてヨ>と歌う<弘>の声が文字の間から調子外れに聞こえてくる。その後に始まる日米を巡る議論では、<弘>の声が一番力強く聞こえてくる。
 もちろん一番重要なのは視覚だ。パソコン上の文字は明朝体できちんと並んでいる。当然ながら、原本の文字はそういうわけには、いかない。大きさも異なれば、その濃淡も異なる。丁寧に書いてある箇所もあれば、書き急いでいる箇所もある。先のロチェスターの新年会は余興の後、前述したように徹夜の議論となるのであるが、そこの文字の筆圧が他の箇所よりも明らかに高い。日米関係が微妙な時期で、話題の中心は日本の対米政策。その日の参加者7名の口角泡を飛ばす議論が彷彿させるかのように、一段と小さな文字でビッシリと書き込まれている。途中で、インクを入れ替えたこともわかり、内容が深まるにつれ、文字が濃くなっている。その様子から<弘>の興奮が伝わってくる。<弘>が日米関係の将来を憂慮していたことが、文字そのものからわかるのだ。残念ながら、その時の<弘>の憂慮は20年後に現実になってしまうのだが。
 
 このように<弘の手紙>の原本は90年の時を経ても確かに迫ってくる何かがある。内容は何一つ古びていないのだ。<弘の手紙>の原本に触れ、改めて、<弘>の思いを理解したような気がする。わからないことはたくさんあるし、調べるべき事も少なくないが、気持ちを新たに大阪をあとにしたのだった。