この世においては、因果応報の法則が成り立っており、良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起きるのが、神の法則である。だから、幸福になりたいのであるなら善い行いをすることが最も手っ取り早い方法である。それは人相にも現れ、優しい行いは優し気な表情を、その人に与え、その人相によっても、この世を生きやすくするものである。自分の人相に不満がある人は、とかく自己卑下しがちであるが、これも因果応報の法則によって、良い人格をその身に宿していなかったがために起こる不幸なのである。だから、自分の人相を変えたいと思うのであれば、まず内面を改善しなければならない。ここにおいても、やはり、善い行いをするということが必要になってくる。

 しかし、正義が己の信念となり、誇りと自信に漲る正義の士とまでなると事情は違ってくる。本当に内面を改善したいのであれば、辛い経験によって、聖書の言う苦しみの炉で錬られなければならない。だから、神は因果応報の報いとして、その人に幸福ではなくて不幸を送ってくるようになる。

 人生を楽にして、楽しく送りたいというのであれば、この道はお勧め出来ない。あくまで平凡の人生を幸福に過ごしたいのであれば、ほどほどに善人でありさえすればよい。そうであっても釈迦や孔子のように神からも人からも愛される人にはなれるのである。このように幸福であり、人生を楽しむことも、また可能である。我々はそれを否定しない。

 しかし、我々はあえて言う。神の道を歩みたまえ。因果応報の最上の報いは耐えがたいまでの苦しみと不幸である。その人生は屈辱と軽蔑にまみれることになる。しかし、本当の自己の改善とは、この道にしか見出されない。我々は如何なる罪を許されない。少しでも、怒りを抱くこと、少しでも、恨みを抱くこと、少しでも、妬みを起こすことを許されないのである。そのためには、あまりにも苦しい運命を、神に導かれて歩いていかなければならない。

 ここで問題となるのが、来世の問題である。あくまで、この世のことを全てだと考える人にとっては、死ぬということは恐怖の王である。善人として生き、幸福に、この世を送ったとしても最後は絶望して死ぬのである。我々はこの生き方を否定はしない。なぜなら、神の道はあまりにも苦しすぎるからである。我々としては、いかに平凡であったとしても、この世を幸せに生きてもらいたいのである。

 しかし、あえて神の道を選ぶというのであれば、間違いなく来世に対しては希望が見出される。聖書でいう、生前では悪いものを受けたのだから、来世では慰められるのである。こうなれば、死とは新たな生活への入り口に過ぎず、それを恐れる必要はまったくないのである。

 また、この神の道には一つ特色がある。それは、やがて全ての人に物を教える人になるために、全ての苦しみを味わう、ということである。全人類の指導者として、そして、なりより神の友として、そしてまた、人類の恩人として、苦しみを受けるのである。その人は預言者となり、神の代弁者となる。

 これは単純に神の恵みである。その人にとって教えを説くということが、そのまま喜びとなるであろう。それまでは、しばらくの間、患難を耐え忍ばなくてはならない。その人を受けるのは、屈辱と軽蔑とであって、尊敬と賛美ではないのである。

 確かに、トマス・ア・ケンピスの言う通り、「この世をさんざ楽しんでおいて、天上でもキリストと首座を分かつ」(1)ことは不可能なのかもしれない。この世においては、悪いものを受けて、なんとかこの世を最後まで凌ぎきるしか方法をないのかもしれない。それでもなお、この道を歩く事には価値がある。それは、神の力をこの世において証明するためである。それはまた、幸福なことであるだろう。

 また、その人は、真理を得て、魂の渇きが満たされるであろう。平凡な人生を送る人は、どこかしら、不満足なものを抱えており、それは真理によってでしか満たされない。苦しみを苦痛が、その道の正しさを証明するものであり、その苦しみによって得た洞察によって真理を得て、その魂の飢えも満たされるのである。

 最後に、因果応報の法則によって、善事を為し、幸福になりなさい。しかし、願わくば、神の道を歩いて、神の力をこの世において証明する、信仰の勇者となりなさい。この信仰の道こそがあるゆる道の中でも王道を呼ばれるものである。しかも、誰でも、それを願うのであれば、この道を歩けるのである。それでは、皆さん、また会う日まで御機嫌よう。

 

(1) トマス・ア・ケンピス 呉 茂一 永野藤夫訳 イミタチオ・クリスティ キリストにならいて