お互いに愛を持って人と接する時、心から感謝に満ち溢れるものである。これは「隣の人を自分のように愛せよ」(1)という命令の意味である。だから、愛し合いなさい。心からの感謝でもって、人と接しなさい。一度、この隣人を愛することの出来る、神への愛が芽生えたのであれば、その愛を増し加える以外のことは気にかけてはならない。

 だから、この世で力を得て、尊ばれることは断念しなさい。喜んで蔑まれる人になりなさい。これが「人に尊ばれる者は、神から忌み嫌われる」(2)という聖書の言葉の意味である。喜んで人に仕えなさい。この世では力という力、能力という能力は決して持つな。愛の心に従って互いに愛し合い感謝しなさい。

 しかし、愛の心がどこまでも、あなたを偉大な者にするだろう。その時に限り、あなたは偉大なる父の心で人と接しなさい。無限の感謝は神に行い、人には決して期待するな。それ以外には礼儀を尽くしなさい。

 重ねて言うが、この世では力など持つな。傲慢な慢心の元になるばかりか、人から尊敬されてしまうからである。あなた自身は、この世の中で一番小さな人なのだという確信を心から持ちなさい。尊敬されるなどということよりも、愛し合いなさい。自分が弱いということに誇りを持ちなさい。何も持っていないということに価値を見出しなさい。

 愛し合い、感謝しあうということは、何よりも心を満足させるものである。このような言い方が許されるのであれば、一度、この味を知ったならば、人から尊ばれようなどとは二度と思わないだろう。

 確かに、この世は楽しいものだ。自分が力があり、能力を持っているのであれば。それはアリストテレースの「人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある。」(3)という言葉の通りである。だから、人間の仕事をする分野において、能力を持ち大いに働くということは、この世の最上の娯楽である。

 しかし、我々はこの言葉には同意しないのである。人生とは、楽しむためにあるのではなく、喜ぶためにあるのである。この言葉の意味がわかってもらえるかどうか、我々は心配である。つまり、人生とは幸福になるためにあるのであり、刹那的な享楽のためにあるのではない、ということである。

 だから、喜んで仕えよ。下の立場に甘んじなさい。喜んで感謝して人に尽くしなさい。自分を最も低い者だという確信をしっかりと持ち、決して偉ぶろうなどとしないことだ。その方が、どれだけ心を満足させるか知れない。重ねて言う、力と能力と富には警戒しなさい。それは間違いなく人を腐らせるものだ。

 あなたの義務はただ善良であることだけである。いや、それすら必要ないのかもしれない。神から送られる三位一体の霊である聖霊をその身に受けて、その霊に従うこと、本当に必要なことは、ただ、それだけである。その霊は、希うだけで神から与えられる。だから、確たる信仰心など持っていなくても、ただ憧れ待つだけでも良いのである。

 我々に必要なことは多くはない。ただ神への憧れ、それだけで良いのである。利己的な努力など捨て去ってしまいなさい。あまりに単純簡明すぎて、物足りないと感じるかもしれないが、それで良いのである。

 では、この拙文はここまでにしておいて、終わりの御挨拶を。読者の皆さん、御機嫌よう、あなたの人生に幸あれ!

 

(1) 聖書 新改訳

(2) 聖書 新改訳

(3) ショーペンハウアー 橋本文夫訳 幸福について -人生論-