千葉は房総の真ん中(?)、大多喜にやって来ました。
現在ではいすみ鉄道しか通っていない大多喜ですが、かつては徳川家の重臣である本多忠勝の支配領でもありました。
房総の真ん中というと、現在の海岸周りルートからすると交通が不便そうですが、かつては千葉の三陸海岸に行くには大切な街道だったのでしょう。
さっきの門を反対側から。
どうやら観光的には、山の中の小江戸という雰囲気を出したいようです。
実際には、市街地にある駅から、歩きに歩いてやっと到着しました。途中、川なんか渡ったりしちゃって。
こんなに街中から離れた山城、泰平になったら不便なんじゃ……?
さらに川から離れて山道を登った末に、
やっと着きました、大多喜城。
そして、これがその内部の……
江戸時代(初期)当時を再現したジオラマだ!
……って、やっぱり当時も市街地(宿場町)と行政区(城下町)が離れてるぅぅっ!
こ、これって、戦国時代は「守りやすく攻めがたい理想的な砦」だった山城を、そのまま居城にしたら平和になったら使いづらくてしかたがなかった、ってパターンではっ!?
一国一城令でこの城を残したのは失敗だったんじゃないでしょうか……?
各方面から検証してみましたが、やっぱりこの配置は行政に不便そうです。
主要な産業要素である街道から城と城下町が隔離されてますよ。連絡取り合うだけで苦労しまくりですよ!
その影響はいまでも続いています。
こちらは大多喜城から見たかつての街道があった方面。いまでも旧街道に沿う形で街は発展していっているようです。
やっと城の麓までそれが届いた感じです。学校や市民プールなど比較的面積を取る公共機関が多いのは、ここが広い場所を確保できる一帯だったからだと思います。
ようするに、人がいないところに後から大規模な施設を造ったというところでしょう。
これは反対側。いまでも山と森です。かつての構成をそのまま引き継いでいます。
むしろ、ここに城があることで、これ以上街が広がるのを阻害しているのでは? と思うのはさすがに邪推ですね。
城の概要を見ると、何度か改修の指示が出ていますが、結局修復されなかったことからも、ここが行政機関としては使いづらい城だったことが判るような気が。
……本多忠勝は徳川重臣の中でも屈指の猛将でしたが、行政能力はそうでもなかったのかな?
とはいえ、彼がここを治めていたのは一時的なこと。たいして出来ることはなかった可能性も大いにありますけどね。
その後に治めた領主たちも、平和で発展していく世の中でこの不自由な城に手を焼いたのでしょうか?
……とか、完全にこの城を不便認定してますね、自分(苦笑)。