封印された超古代史「古史古伝」の謎:その41
竹内文書によれば、、インドから戻ってきた「釈迦の墓」があるという。青森県の青森市と五所川原市の境に位置する「梵珠山」(ぼんじゅさん)という山である。モーゼの墓にイエスの墓、さらに「釈迦の墓」まで日本にあるという。もはやないのはマホメットの墓だけである。本当に釈迦が日本に来て、日本で亡くなったのか。それにはまず、「釈迦」とはいったい何者だったのかを改めて見ていく必要がある。
◆「釈迦族」と「米」
釈迦の正式な名前はサンスクリット語の発音に基づいた表記では「ガウタマ・シッダールタ」、パーリ語の発音に基づいて「ゴータマ・シッダッタ」とされる。「釈迦」というのは一族の名前「シャーキャ」のことで、よって「釈迦族」と言われる。現在もネパールには釈迦族(シャーキャ族)の末裔が住んでいるが、カースト制におけるクシャトリア階級で、仏像や祭具を作ったり、政治の要職にも就いているという。
釈迦と弟子たち
紀元前6~前5世紀頃、インドの地には大小さまざまな国がひしめいていたが、釈迦族(シャーキャ族)はカピラヴァストゥに都を置き、そこは現在のインドとネパールの国境地帯にあたるヒマラヤ山麓にあったとされる。釈迦族は西隣の「コーサラ国」のオッカーカ王の末裔とされるが、ガウタマ・シッダールタの父であり国王だった「スッドーダナ」は漢字表記では「浄飯王」とされる。この「飯」とは「米」のことで、サンスクリット語の「オーダナ」とは「米」を意味する。そして一族にはシュクローダナ、ドロトーダナなど、「米」の名を持つ者が多数いる。このことから、釈迦族の主食は「米」だと考えたのは、仏教学者の中村元氏である。
当時のアーリア人の主食は「麦」だった。つまり、釈迦族の主食が米だったのなら食習慣が違う。欧米人がパンを主食にし、日本人が米のように、民族が異なると食文化も異なる。と考えると、釈迦族はアーリア人ではなく、「モンゴロイド」だったのではないのか。実際、ネパールの人たちは、インド・アーリアとは人種が異なり、かなりモンゴロイドが混じっている。そして現在も残る「釈迦族」の人たちの容貌も典型的なリーリア人ではない。
釈迦の祖父である「師子頬王」(ししきょうおう)には、四男一女がいたとされる。浄飯王(じょうぼんのう)・白飯(はくぼん)・斛飯(こくぼん)・甘露飯(かんろぼん)・甘露味(かんろみ、Amṛtā)。この名前を見ると、「米=飯」がついた名前ばかりで、さらに「甘露」の名前がついた人が2人もいる。この「甘露」(かんろ)とは、旧約聖書「出エジプト記」第16章に登場する食物のことで、イスラエルの民が荒野で飢えた時、神がモーゼの祈りに応じて天から降らせた「マナ」である。
「また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。 14その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。」」
(「出エジプト記」16章13〜15節)
「イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。それはコエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。」(「出エジプト記」16章31節)
イスラエル人に食べ物「マナ」を与えたたのは絶対神ヤハウェである。釈迦の一族の名前にことごとく「マナ」の暗合が隠されているのならば、「釈迦族」はもともと絶対神ヤハウェを信仰する一族だったということである。さらに仏教の経典では釈迦族は「日種」とされる。つまり、「太陽信仰」を持った一族だったということでもある。太陽を最高神として崇めるのは日本人も同じである。よって、日本の僧侶の間では釈迦は日本人ではないかという噂もあったのだ。竹内巨麿や山根キクは、まさにそれが事実だったと主張したことになるのだが、それを日本の仏教界が認めたわけではない。しかし、興味深い研究報告がある。それは「釈迦族」のDNAについてである。
人間が持つY染色体のDNAを分析したところ、日本人特有の遺伝子が見つかっている。お隣の朝鮮半島や中国ではほとんど見られないもので、「ハプログループD」と分類されている。実は東アジアでは、日本だけが孤立した状態で、なぜか中国の内陸部、チベット、ネパールでも発見されているのだ。そして、「釈迦族」からも発見されているのである。ということは、これまでは珍妙な説とされてきた「釈迦=日本人説」というのは、嘘とは言えない状況となっているのである。
◆「釈迦=スキタイ」の意味
釈迦族は西隣の「コーサラ国」のオッカーカ王の末裔とされるが、コーサラ国のヴィドゥーダバ王子は、コーサラ国のプラセーナジット王と釈迦族の女性との間に生まれた子である。ヴィドゥーダバ王子は、ある時「シャーキャ国」の都カピラヴァストゥを旅していたが、その時釈迦族のなかに心ない陰口を言う者がいたという。「ヴィドゥーダバ王子の母親というのは、釈迦族指導者マハーナーマンが召使に生ませた娘だ」などと釈迦族の者が馬鹿にするように話すのがヴィドゥーダバ王子に聞こえ、それをきっかけにしてヴィドゥーダバは母親・父親・釈迦族を憎み、いつか釈迦族に復讐してやると心に決めた、という。やがてヴィドゥーダバは父であるコーサラ王プラセーナジットから王位を奪い、プラセーナジットは失意のうちに死去。王になったヴィドゥーダバは大軍を率いてカピラヴァストゥに攻め込み、釈迦族を老若男女関わらず皆殺しにしたという。
釈迦族は釈迦の晩年の時期、コーサラ国の「毘瑠璃王」(びるりおう)の大軍に攻められ皆殺しにされたと仏教文献には伝わるが、これには異説も有り、完全に根絶やしにされたのではなく、四人の王族が生き残りヒンドゥー教に改宗して釈迦族は存続したという伝承も存在するのだ。釈迦族で生き残った4人の男子は、それぞれ他の国へ行って、皆その国の王になったと伝える説もあり、インドのウッタル・プラデーシュ州南部には釈迦族を自称する一族が現在も住んでいる。また、ネパールのパタンにはネワール族の「サキヤ・カースト」という職人たちが存在している。このサキヤ・カーストは、コーサラ国によって滅ぼされた釈迦族の末裔だと信じられているという。そしてこのサキヤ・カーストは仏像や彫刻を彫ることで、古代仏教の伝統を今に伝えている、というのだ。
謎を説くカギは「名前」にある。釈迦族の素性を探るには、その名前に注目せなばならない。まずは「シャーキャ:釈迦」とは、サンスクリット語で「力ある者」という意味である。一説に「シャーキャ樹」という樹木の名前に由来するというのだ。仏教ではもともと偶像崇拝が禁じられていたため、原始仏教では釈迦を樹木で表現している。
釈迦が悟りを開いたとされる菩提樹
ネパールでは釈迦を「シャーキャ」といい、西方のガンダーラでは「サキャ」、イランに行くと「サカ」と発音する。だが、イランと同じインド・ヨーロッパ語であるギリシャ語では、「サカ族」のことを「スキタイ」と呼ぶのである。この「スキタイ」という名称は、もともとは中央アジアの黒海北部の地名を指したが、そこを拠点とした遊牧系騎馬民族を「スキタイ」と呼んだのが始まりとされるのである。「スキタイ」はアーリア系とされてはいるが、実のところ様々な民族の集合体であった。なぜなら、騎馬民族というのは民族・人種にはこだわりがなく、領土を拡大するにあたって、圧倒的な機動力と武力をもって他国を侵略、冨を略奪する。そして抵抗するものは皆殺しにし、従えば配下へと組み込んだ。中でも女性は「戦利品」として拉致され、その結果として「混血」が進み、その文化も国際色豊かなものになっていった。
「ガウタマ・シッダールタ」が誕生したとき、釈迦族はマガダ国の支配下であったコーサラ国の王族であった。しかし、スキタイから見れば「本流」ではない。多民族国家の体であったスキタイから分かれた一派であり、独自の宗教観を持っていた。それはアーリア系のインド人が信仰していたバラモン教ではなかった可能性が高く、だからこそ釈迦は当時のバラモン教の教えに疑問をいだき、シッダールタ太子は王子でありながら身分や財産、家族をも捨てて出家したのではないのか。そうなのである、釈迦族のルーツは騎馬民族の「スキタイ」だったのである。
<つづく>