こんにちは。

旧約聖書の一巻、コヘレトの言葉について思ったことを書いていきます。

今回なぜコヘレトの言葉について記事をあげようと思ったかといいますと、私は高校生の頃に何か楽しいことがあったり、友達らとさわいだりした後に家に帰りふと考えた時に、少し前の賑やかさとの差も相まって「さっきまでさわいでたけど、なんか空しいなぁ」と特に落ちこんでいるわけでもないのですが、そんなことをふと思う時がありました。そして二十年近く時がたち二年前に聖書を読みだし、コヘレトの言葉を読んだ時に一巻を通してこの肉の世の空しさについて触れられており、当時の記憶が甦ったことがきっかけです。

まずはこのコヘレトという人は誰なのかを考えてみます。冒頭でいきなり「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあります。ダビデの子であってエルサレムの王となると、やはりソロモンが思い浮かびます。しかしこれだけでは根拠に乏しいので、聖書をみてみます。「知恵を尽くして調べた(コヘレト一章十二節)」、「わたしは知恵を深め、大いなるものとなった(コヘレト一章十六節)」、「わたしの心は何事も知恵に聞こうとする(コヘレト二章三節)」など、コヘレトには知恵があるものと強調されています。ソロモンもイスラエルで王となった者たちの中で、知恵に満ち溢れた者であったと記載されています。「今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない(列王記上三章十二節)」、「あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさにきいた全世界の王侯のもとから送られてきて、その知恵に耳を傾けた(列王記上五章十四節)」とあり、コヘレトもソロモンも共通して知恵に満ち溢れた者であったことからも同一人物である可能性が考えられます。またこのような共通点もあります。「かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさってわたしは大いなるものとなり(コヘレト二章九節)」と「ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し(列王記上十章二十三節)」です。コヘレトもソロモンも大いなるものとあり、二人共が生前その地で名を馳せた人物であったということです。これらの点からコヘレトとソロモンは同一人物なのではないかと私は思っております。また、「コヘレト」にはヘブライ語で集める者という意味があるようで、集会の場所などで民に語る役割も担っていたと思われます。

ここからはコヘレトの言葉よりいくつかを取り上げ、どのような意味があり読者になにを伝えようとしてるのかを私なりにですが考えてみようと思います。


・コヘレトの言葉 一章九節

かつてあったことは、これからもありかつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。


これはまさに今の日本の状況を、表しているように思えます。紀元前九百年頃ソロモンの背信(列王記上十一章)によりイスラエル王国は北の十部族と南の二部族に分断され、その後紀元前七百年頃に北イスラエル王国がアッシリア帝国の侵攻により捕囚(列王記下十七章)となり、十部族が離散させられました。その一部が日本列島に移住してきております。詳しくはミカエル氏の過去記事「日本は多民族国家、日本人の一部は古代イスラエル人」をご参照ください。そして紀元前六百年頃に南ユダ王国がバビロン捕囚(列王記下二十五章)に合い、王国としてのイスラエルは崩壊しました。この歴史的事実が現代イスラエルである日本にも起ころうとしています。ここ最近の日本政府の動きは、売国を隠そうともしないくらいに堂々と外国人を高待遇で受け入れ、その人数を増やし続けています。埼玉県の川口市では日々クルド人問題が報道され、犯罪が横行し地元住民の安全が脅かされています。そして問題なのが、外国人が犯罪を犯しても不起訴として扱われていることが増えてきたことです。起訴され有罪判決となり、前科がつくことは多少の犯罪の抑止力となるはずです。しかし外国人犯罪が不起訴として扱われるということは、再犯罪を助長しているようなものであり、もはや外国人街となった地は不法地帯と化します。海外での犯罪率の高さは周知の通りで、その価値観の違う外国人が日本に住むということは当然犯罪が増え、しかも被害を受けるのはその土地の日本人です。これに加えこちら(YouTube)の通り日本は少子高齢化、実質賃金の減額、非正規雇用の拡大、物価高騰に増税など追い込まれるばかりで、納税の対価である福利も碌に受けられていません。これではどんどん未婚化が進み、家庭を持とうとする人も減り、日本人口は減少する一方です。そして今後さらにその人口減少を加速させるのがワクチン接種です。河野太郎氏やWHOのテドロス氏は「ワクチン接種するかは個人の選択であり、推奨などしていない」などと言っていますが、間違いなく推奨していました。特に日本人は右へ倣えの考えが強く、メディアで煽りまくり、打たない人は非常識かのような空気感さえありました。今回のコロナワクチンの恐ろしさはこれからであると思います。遅効性の毒のようにじわじわと効いていき、そして5G電波と相まって(詳しくはミカエル氏の過去記事「コロナウイルスと5G」をご参照ください)今後目にみえて被害が出てくるのではないでしょうか。そして日本人口が爆発的に減ったところで日本人と移民との均衡が崩れ、土地を奪われ仕事を奪われというようにどんどん立場が弱くなり、終いには古代イスラエルのように国を負われるようになるかもしれません。聖書(パウロ書簡を除く)に偽りはないので、かつて起こったことは、これからも起こると書いてある以上、上記に似た事態が起こると思われます。


・コヘレトの言葉 一章十一節

昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることもその後の世にはだれも心に留めはしまい。


昔のことに心を留めない。要するに人間は過去から学ばないということやと思います。実際に日本は今、戦争に参加できるように少しずつ着実に向かわされています。過去の大東亜戦争にて約三百万人という尊い命が奪われました。その中には多くの民間人犠牲者もおられます。このことから何も学ばずまた同じことを繰り返すなど愚の骨頂です。しかし憲法改正草案は既に発表され、その中にある緊急事態条項はナチス・ドイツのワイマール憲法同様、内閣の独裁を現実のものとします。当然、日本政府は真の目的である上記には触れず利点しか言いませんが、国防軍を保持することで徴兵制をチラつかせ、自衛隊予備兵の年齢は十八歳以上三十四歳未満であったものが、十八歳以上五十二歳未満へと引き上げられ、「国民よどうぞ戦争に参加してきなさい」と言わんばかりです。人間はやはり過去から学び、悔い改めなければいけません。


 憲法改正草案(画像引用元:Yahoo!ニュース


・コヘレトの言葉 二章一節

わたしはこうつぶやいた。

「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」

見よ、それすらも空しかった。


現代の人間は、大多数がこの快楽や愉悦を味わうために生活しているのではないでしょうか。週に五日から六日間働いて休日の楽しみのために、少しでもいい暮らしのために、欲しいものを手に入れるために。しかし聖書を読めば分かることなのですが、本来被造物である人間は主の律法、掟、戒めを喜んで守り、創造主である神や主イエスに栄光を帰すために生きるべきであり、その人自身の肉の欲を満たすことに躍起になるのは正しい生き方ではありません。この肉の世に生きているのですから、全く楽しみを味わうなというのは酷な話ですし、このコヘレトの言葉の中にもいくつか楽しむことがあってもよいと記載がありますが、生きるうえで大前提である主の律法、掟、戒めを守ることを見失ってはいけません。


・コヘレトの言葉 三章一節

何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。


創造主である神は完全なるお方であるため、全てのことは御計画通りであり、その通りに進んでいるということやと思われます。まさに今は世の終末で各個人の恩恵期間も定まっており、この世の真理が聖書にあることに気づき、そして学び、悔い改める必要があります。失われた羊を少しでも多く、主イエスのもとへ導くことが私にも課された使命であると心得、伝道活動に努めていきます。


・コヘレトの言葉 三章十四節

わたしは知った

すべて神の業は永遠に不変であり

付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。


主である神や主イエスは完全なお方であられ、その業は永遠に変わることなく嘘がありません。ということは御言葉が詰まった聖書(パウロ書簡を除く)には嘘が一切ないということです。これも聖書とミカエル氏の真の聖書福音と預言を読んでいただけると分かることですが、聖書が示す事柄が歴史的にみて実現しています。例えばダニエル書九章二十六節「その六十ニ週のあと油注がれた者は不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり終わりまで戦いが続き荒廃は避けられない。」ダニエル書の七十週預言ですが、油注がれた者である主イエスは不当にも十字架にかけられ、その後紀元後七十年にエルサレムの都と聖所は破壊されます(詳しくはミカエル氏の過去記事「ダニエル書の七十週預言の真実」をお読みください)。過去のことにおいても預言の通りに事が進んでおり、聖書が人間が作ったお伽話や創作話の類いではなく、この世の真理であることが窺い知れます。また、ヨハネの黙示録の最終二十二章に、預言の書物に付け加える者(ヨハネ黙示二十二章十八節)、預言の書物から言葉を取り去る者(ヨハネ黙示二十二章十九節)には災いと命の書から取り除かれるとあり、被造物である人間の集団でしかないカトリックが教会の権威で安息日をはじめとする神の律法を勝手に変更したことは、許されることのないとてつもなく大きな罪です。


・コヘレトの言葉 四章四節

人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。


この世では、人々の金銭に対しての欲が渦巻いています。生活するのに最低限必要な金銭を求めるのは、生きていく上で仕方のないことですが、贅沢をするために競争心を燃やし金銭を求めることは空しいということです。金銭の欲は悪の根源(一テモテ六章十節)とある通り、実際に世の支配層、政治家、大企業の役員、国際的芸能人などは桁違いの大金持ちであり、その大金や名声を得るために悪魔に魂まで売り、心を支配されています。必要以上の金銭を追い求めることは人生の破滅に繋がるので、今普通に雨風をしのげる屋根の下で布団で寝ることができ、着る服があり、食べるものがあるという幸せを噛み締め、何事も主イエスに感謝し生活をすることが被造物である人間のあるべき姿やないでしょうか。


・コヘレトの言葉 五章十四節

人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。


この肉の世で欲望のままに金銭や名誉をどれだけ得ようとも、この肉体が死んだ後にはなにも持って行くことはできません。これは聖書を読んでいなくとも誰もが納得するのではないでしょうか。多くの人たちが死んでからはなんの役にもたたないものを得るために注力し、大事なものを見失っています。この命ある間に地上に富を積むのでなく、天に富を積まなければなりません(マタイ六章二十節、マルコ十章二十一節、ルカ十二章三十三節、十八章二十二節)。天に積む富は滅びることも、誰かに盗まれることもありません。ミカエル氏の過去記事「天に富を蓄えよ」に詳しく記載されております。


・コヘレトの言葉 七章一節

名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。


・コヘレトの言葉 七章八節

事の終りは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。


これらの言葉は、どのような環境で生まれていようとも、命尽きる寸前までの思考や行動が重要であるということではないでしょうか。生まれた時には家族や周りの者たちが主の律法、掟、戒めを守っておらずとも、人生のどこかで、どのように生きていくのが正しいのか、なにがその正しい生き方を教えてくれるのか、今生きている世の中の異常さ、不条理、違和感に気づき、自分を正しい生き方へと導く聖書を手に取り、正しい道へと軌道修正しなければなりません。生まれた時は自分の意思であれこれと選択はできませんが、死ぬ時にどのような状態に自分がなっているかはその人自身の責任であり、言い逃れはできません。人は一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている(ヘブライ九章二十七節)ため、この世に命ある間に真理に気づき、これまでの生き方を悔い改めて行動で死ぬまで示し続けたかどうかがその人の最期を評価する点となるため、死ぬ日は生まれる日よりも重要であると伝えたかったのではないかと考えます。


・コヘレトの言葉 七章十五節

この空しい人生の日々に

わたしはすべてを見極めた。

善人がその善のゆえに滅びることもあり

悪人がその悪のゆえに長らえることもある。


このことに関しては、ほとんどの方が納得されるのではないでしょうか。特にこの悪人が長生きするというのは、この世の政界の人間がやたらと年老いても権力にしがみついて、しぶとく政界にい続けている現状が思い起こされます。最近著名な方たちの突然の訃報をSNSで見かけますが、その歳がまだ若いことに気づきます。その死因の多くが脳と心臓の血管系疾患が目立ち、コロナワクチン接種との因果関係が疑われますが、高齢の方が多く在籍する政界の方たちのこのような訃報を見聞きすることがありません。彼ら彼女らはおそらくですが、コロナワクチンの真実を知らされており、要するにその毒性を知っているためコロナワクチン未接種であることが大いに考えられます。また、厚生労働省職員のコロナワクチン接種率が一割程度との話もあるようで、これが真実であるならばただ事ではありません。国民にはあらゆるメディアを使い、ほぼ強制かのように推奨していたにもかかわらず、その当の本人たちはコロナワクチンの真実を知っているが故に接種していないのであれば厚生労働省も悪の巣窟です。そしてとてもやりきれないのが、善人が善のゆえに滅びることです。太陽暦二千六年十二月三日に竹中省吾裁判官が不可解な死を遂げました。亡くなられる三日前に「住基ネットはプライバシー権を著しく侵害し、憲法十三条に違反する」として箕面市、守口市、吹田市に原告の住民票コードの削除を命じる原告勝訴判決を言い渡しました。各市に忖度することなく原告や自身の意志を貫き通し、それが行政側からすると都合が悪く、竹中氏に制裁を下し見せしめとしたのではないかと私は考えております。今の内閣にこのような勇姿を見せることができる人物がいるでしょうか。一人たりともいないと思います。


・コヘレトの言葉 七章二十一節

人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても聞き流していられる。


キリスト道を歩むのであれば、この言葉を常に意識しておかなければなりません。キリスト道は狭く細い道(マタイ七章十三、十四節)であるため、多勢の者から理解されることは少なく、指をさされることも自ずと経験することになります。ですがそのようなことをいちいち気にしていると、福音伝道などできません。コロナ茶番で痛いほど身にしみたと思います。コロナの真実を良かれと思って人に言えば言うほどおかしな目で見られ、人によっては差別されたこともあるかと思います。真のキリスト者を目指す者は、死ぬまで少数派であり続けることを理解し、忍耐して自分に課された使命を全うしなければなりません。私自身を戒めるためにも記載いたしました。


・コヘレトの言葉 九章六節

その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ

太陽の下に起こることのどれひとつにも

もう何のかかわりもない。


死者について語られた言葉です。この肉の世での生を終え、死ぬということは肉の世に対してもう何も及ぼすことができません。死んでから「◯◯しとけばよかった」と後悔しても遅く、もう取り返しがつきません。生き方を悔い改められるのは生きている間だけです。主イエスに立ち返る機会はまさに゛今゛です。当たり前ですが人間は皆いつ死ぬかなんて分かりません。もう少ししてからなどと言わず、すぐにでも悔い改めていただきたいと願います。また、死者を弔う葬式は宗教儀式です。冷たく思われるかもしれませんが、葬式は生きている者の自己満足であり、立派なお墓を建ててもそこに意味はありません。上述しました通り、死者がこの世に何も及ぼせないということは、生きている者も死者に対して何も及ぼすことができないということです。「生前お世話になったから、こんなに立派なお葬式をあげたよ。今までありがとう」といった思いも死者に伝わることはありません。「太陽の下に起こることのどれひとつにももう何のかかわりもない」ということはそういうことを示しています。ですので、相手が生きている間に関わり、目一杯愛情を注いでいただきたいと思います。このように考えると毎日会う身近な人に対しても大切にしようと思えますし、今現在仲違いしている相手に対しても素直に話しかけたり、電話したり等できるかもしれません。そしてこれは隣人(他人)に対してもそうで、お互いが生きている間にしか親切にすることもできないので、そのような機会が目前に訪れた際は歩みよってみようと私も思っております。


・コヘレトの言葉 十章二節

賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。


聖書にはほんまに多数の「右」という文字がでてきます。どのような聖句にこの「右」がでてくるのか、ほんの一部ですが挙げてみます。

創世記 四十八章十八節

これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。

出エジプト記 十五章十二節

あなたの右の手は力によって輝く

レビ記 八章二十三節

その血の一部を取ってアロンの右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗った

詩篇 四十八篇十一節

神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。

マルコによる福音書 十六章十九節

主イエスは弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

などなど他にも多数ありますが、例をいくつか挙げてみました。これらの「右」という文字は「聖」に置き換えられるようにも私は思いました。左右、二つあるものの片方に意味を持たせるということは、当方である「右」と他方である「左」は対になっており、左右を分け隔てる際に読者に対して「聖なる対象である」ということを強調して分かりやすくするために「右」が用いられているのではないか。やや小難しい話となりましたが、私はそのように捉えております。


・コヘレトの言葉 十章十節

なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。


常に準備を怠ることなく、備えておくことの大切さを伝えている言葉です。ここにでてくる知恵というのは、聖書の真理やと考えます。常に備えるというのは、常に忍耐して努力を積み重ね続けるということにも繋がります。ある時に得た知識は時間と共に忘れていき、薄いものへと変わっていきます。人間は良くも悪くも忘れていきます。それは特に年齢を重ねるとより顕著なものとなります。自分では現状維持しているつもりでも、客観的にみると少しずつ下へ降りていっていることがあります。それを食い止め、上へと押し上げるには毎日の努力がかかせません。キリスト道は生涯努力やと思っています。ほんの少しでも昨日の自分より上にいる状態を維持し続けることが、キリストの品性に一歩ずつ近づいていくということを額に刻み、神より皆平等に与えられている時間を大切にし、忍耐して努めていきます。


・コヘレトの言葉 十二章十三節

すべてに耳を傾けて得た結論。

「神を畏れ、その戒めを守れ。」

これこそ、人間のすべて。


知恵あるコヘレトが様々なことから学び、考察し尽くして得た結論が「神を畏れ、その戒めを守れ。」とあります。これに関しては誰もが異論なし。ではないでしょうか。一度きりしかない人生をどのように生きるのが正解であるかがこの言葉に詰まっています。コヘレトが生きた時代にはモーセが記した書物が存在はしていたでしょうが、「士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった」(列王記下 二十三章二十二節)とある通り民全体には詳しくは語り継がれていなかったのかもしれません。ですが士師たちが神より得た預言を元に伝え聞かされていたコヘレトは、創造主である神の定めた律法、掟、戒めを守ってきた者たちが民の間で宝とされ(出エジプト記 十九章五節)、聖なる国民(出エジプト記 十九章六節)として生かされてきた事実を見聞きしたことで、結論を出したのではと考えます。この「神を畏れ、その戒めを守れ。」というのは当然、終末の世である現在でも守るべきものであり、これを自ら喜んで行動で示し、主イエスを信じ続けることが、これから来る大艱難や反キリストからの迫害にも耐え忍び、主イエスより選ばれる存在へとなるために必要な最重要事項であるとコヘレトは読者に伝えたかったのではないでしょうか。


コヘレトの言葉について私自身の考えを書きましたが、一つ一つの聖句や言葉を掘り下げて調べてみると聖書というのはとてつもなく奥が深く、調べるたびに知識が身についていくことを実感します。聖書はミカエル氏の真の聖書福音と預言と共に通読を重ねるたびに新しい発見があり、それに付随する学びが得られ、自分をさらに律する必要があることに気づかされます。それは無知であるほどより顕著やと思います。キリスト道を歩むうえで正しい聖書知識を得ることは極めて重要であり、伝道活動の質をあげ、一人でも多くの方を悔い改めに導けることに繋がります。聖書の一節一節に込められた真意を考えながら、聖書通読をこれからも継続していきます。


最後までお読みいただきありがとうございます。