過去の遺産<仏教>2.【仏教の誤解】 | 始まりはアドラー心理学

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より、楽しい日々を送るために、
より、ハッピーな人生を過ごすためには、
どうすればいいのでしょうか?
そのための方法論や実践論を考えています。
ちょっと難しい内容かも知れませんが、
みなさんのお役に立てるような情報を伝えていきたいと思います。

前回、仏教とアドラー心理学の共通点について触れました。
両者は、とても良く似ています。
互いに『人々を幸せに導く』という
同じ目的を持って作られたものなので、
いわば当たり前なのかも知れません。
だから、仏教を知れば、
アドラー心理学の理解も、より一層と深まるはずですサーチ

今回は、多くの人々が持つ『仏教の誤解』を指摘したいと思います。
前回にも触れましたが、
仏教は宗教ではなく、
むしろアドラー心理学のような自己啓発理論でした。
その内容は『経典』にあるのですが、
あのような漢字の羅列では、誰も理解出来ませんよね。

お経が何で漢字なのかといえば、
仏教がインドから中国に渡った際、
サンスクリット語から中国語に訳されたからです。
その後、仏教と経典は、朝鮮半島を経て、日本に伝来されます。
そして、時の権力者(聖徳太子といわれている)によって
大々的に推奨されました。
名目は、仏教の教えにより民の意識を高め、
国を平和に治めるです。
ならば、何で日本語に訳されなかったのでしょうか?
それは、庶民が理解出来ないようにするためだと思います。
仏教の真意を庶民が知ってしまったら、
民意を管理出来なくなるからです。

当時、飛鳥時代では、たくさんの仏像が作られています。
時の権力者たちは、この仏像を拝む事で、
「あらゆる苦しみから救われる」と庶民に触れ回りました。
仏教の理論を学ばず、自力で努力もせず、ただ拝んでいるだけでは、
いつまで経っても悟りを開けず、精神的に自立する事は出来ません。
つまり、庶民の思考力を奪い、依存心を膨らませる事で、
思い通りに支配するのが目的だったと考えられます。

当時から信仰対象となっている仏様は、
阿弥陀如来や薬師如来、など様々ありますが、
皆さんも聞いた事があるはずです。
何と、これらは全て架空の存在であり、
単なる創作に過ぎません。
また、釈迦如来や弥勒菩薩などは、
釈迦と、その弟子たちを神格化したもので
彼らを拝んでも意味がない事は明らかです。
これは、アドラーの如来像を作って拝ませるのと同じ。
つまり、庶民を騙すためのインチキだったのですムカムカ

当時、お経を理解出来たのは、インテリ層の僧侶だけでした。
その僧侶たちには、庶民を導く使命があったのですが、
結果的には、ほとんど自己満足に終わっています。
最澄のように権威と保身に走ったり、
空海のように孤高の存在になってしまっては、
庶民には伝わりませんね。

その他、当時の有名な僧侶といえば、日蓮がいます。
彼は、数ある仏典の中で、
「法華経こそが仏教の極意である」と
各地を旅して庶民に触れ回りました。
題目として有名な『南無法蓮華教』とは、
「法華経を信じなさい」という意味に当たります。
しかし、実際は、法華経そのものを学んで、

中身を理解しなければ意味ありませんよね。
だから、題目を百万回唱えても、ただの無駄でしかありませんアセアセ

浄土真宗を説いた親鸞も同じです。
南無阿弥陀仏とは、
「阿弥陀如来を信じます」という意味に当たります。
親鸞は、「この言葉を唱えるだけで、阿弥陀如来が助けてくれる…」、
と触れ回ったのですが、
そんな甘い話はあり得ません。
これでは、やはり依存心が膨らむだけで、
いつまで経っても悟りには至れないでしょうタラー

日蓮や親鸞が庶民を救おうとしたのは事実です。
実際、とてつもない努力をした方々であり、
偉人として讃えられるのは当然だと思います。
彼ら自身は仏教を深く理解していたようですが、
残念ながら、その内容を庶民に伝える事が出来なかったのです。

当時は、現代と違い、とても過酷な時代でした。
戦乱や飢饉に苦しむ庶民を救うには、
「信仰を説くしかない」と判断したのではないでしょうか?
文字の読み書きも出来ず、
内容を理解する認知力もない彼らを導くには、

解りやすく簡略化するしかありません。
つまり、『自らを救う自立の理論』である本来の仏教を実践する事は、
当時の庶民には難しかった訳です。
でも、きちんと読み書き出来る現代人ならば、
しっかりと内容を理解する事が出来ます。
ならば、経典の日本語版を作り、これを広めるべきですよね。
同時に、葬式や法事でも、日本語版を唱えた方が、
僕らにとっても喜ばしいはずです。

次回からは、仏教の中身に付いて、アドラー心理学と比べつつ、
説明していきたいと思いますお願い