神奈川県川崎市にある川崎大師の最寄り駅近くに、若宮八幡宮という地元の総鎮守があります。
そこで偶然見つけたのが、大師河原発祥の梨「長十郎」にちなみ、
良縁をつなぎ実り豊かな人生を願う「長十郎梨守」です。
今回は「長十郎」梨の歴史や現状について書いてみたいと思います。
(大師河原とは、多摩川の右岸で神奈川県川崎市に当たり、
現在は京浜工業地帯の一角をなしています。)
【長十郎梨守】
「長十郎」は神奈川県大師河原村(現川崎市)の梨園で1893年(明治26年)頃に
当麻辰次郎氏によって発見されました。
そして当麻家の多産で味がよいことから人気の品種となり、
大正時代にはシェアは6割を超えていたといいます。
現在の生産量は限られており、往時の勢いはありません。
収穫時期は9月中旬頃で、大きさは300gほど、少し硬めの肉質、ほどよい甘味があります。
明治26年頃に発見された「長十郎」梨は各地で栽培が始まり、
全国の梨栽培面積の8割を占めるまでになりました。
しかし、大正時代後半になり台湾バナナの輸入が増加し、さらに西瓜の生産量が増え、
梨の需要が頭打ちとなりました。
また、昭和2年に黒斑病という梨の病気を防ぐ技術が確立され、
この病気に弱かった「二十世紀」の栽培が増加したのです。
以上のことから「長十郎」の黄金時代は長く続かなかったのです。
【長十郎】
黄金時代が終わったとは言っても「長十郎」と「二十世紀」が勢力を二分する時代に入った訳です。
第二次大戦中、米などの食料増産のために梨畑を田畑へ転換する政策が取られ、
梨の栽培面積は減少しましたが、昭和30年には戦前の水準まで回復しました。
その後栽培技術の向上などにより、昭和初期の「長十郎」10a当たり収量3tが
昭和40年頃には6tほどに向上しました。
収量の増加と共に、収穫時の人手不足や市場価格の低迷を招きました。
そこで登場したのが都市近郊の梨園による「観光梨もぎ」です。
市場価格の4割増し程で売れたそうで、人手不足と価格低迷の両方を改善できたようです。
川崎市の梨農家はバス会社と提携しツアー客を呼込み始めました。
おそらく現在の様々な果物狩りの先駆けではないでしょうか。
昭和40年代後半には「梨もぎ」は衰退し始め、「梨の地方発送」というスタイルが
確立されるようになりました。
地方発送の品種に好まれたのが昭和34年に発表された「幸水」でした。
「幸水」は「長十郎」と同じ「赤ナシ」で、甘くジューシー、
「二十世紀」よりも柔らかいことから高級イメージで贈答品として利用されるようになり、
「長十郎」にとって代わりました。
「幸水」は収穫期間が約2週間と短いため、人手不足に悩む梨農家は
全てを幸水に変えることは不可能です。
そこで、早生種の「幸水」、中生種の「豊水」、晩生種の「新高」という品種構成にすることが
一般的になっています。
出荷時期をずらすことにより人手不足を解消し、収入面でも期待できる構成になっています。
こういった状況から「長十郎」の栽培面積は平成半ばには、
栽培面積でも梨全体の2%と黄金時代の面影は全くありません。
見かけることのなくなった「長十郎」ですが、一部の梨農家では、人工授粉の花粉を採るために、
若干の「長十郎」を栽培しているようです。できた梨は市場に出荷せず、
庭先などで直販するとのことですので、運が良ければ手に入れられるでしょう。
現在の作付面積の都道府県別順位は、青森、宮城、秋田の順で、
1位の青森県ですら作付面積は20.7haでシェアは約39%です。(2015年農水省統計による)
参考数値
新潟県における日本梨全体の栽培面積と生産量は、440ha・9160tです。
また西洋梨は112ha・1780tです。
(平成28年度 新潟県果樹農業振興計画より 平成28年は2016年)
大師河原(現川崎市)近辺では当時の面影を見つけることはできませんでしたが、
多摩川上流域にはまだ少し梨園が残っています。
往時の梨栽培に関わるものとして、多摩川河口に近い所に「川崎河港水門」が残っており、
水門の上部に彫刻が施されています。
その彫刻のモチーフが川崎の名産物だった梨、ブドウ、桃です。
国登録有形文化財となっており往時をしのぶ唯一のものでしょう。
【川崎河港水門】
新しものが出来て、古いものが消える、仕方がないことかもしれませんが、寂しい気もします。
「長十郎」食べたいですね。
(野菜ソムリエプロ 木村純一)