有価証券報告書の沿革:(3)
>①ヤクルトの事業は、1935年福岡市において「代田保護菌研究所」の名称で発足し、その後、「ヤクルト」の商標のもとで各地の独立した企業体によって事業が展開されました。このような状況のなか、各地の独立した企業体から、事業方針の統一を図るためにも中心となる機関を望む声が高まり、ヤクルト企業全体を指導・統括する組織として、
②1955年4月、株式会社ヤクルト本社が設立されました。
③「当社(1949年1月29日設立)は、
⑥1972(昭和47)年2月1日を合併期日として、
⑤東京都中央区日本橋本町3丁目6番地所在の株式会社ヤクルト本社(旧株式会社ヤクルト本社、1955年4月9日設立)の株式額面金額を変更するため同社を吸収合併しました。
<実質上の存続会社について>
④合併前の当社は休業状態であり、従って、法律上消滅した旧株式会社ヤクルト本社が実質上の存続会社であるため、特に記載のない限り、実質上の存続会社に関して記載しています。<
以上は、沿革であるが、
に主語=永松昇の名がない。
1955年(昭和30)は、創価学界が東京、神奈川で51人の地方議員を送り出した年。(『創価学会を斬る』藤原弘達著、42頁)更に、東北福島市では、山田衣料品会社の山田廣助社長が「ヤクルト部」を設置し、昭和45年に「福島ヤクルト販売株式会社」に発展させた。『財界ふくしま2007年11月号』
~⑤「当社」の設立は、1949年1月29日で、その後休業、昭和47年「ヤクルト本社」を吸収合併した。1949年は占領期間中で「当社」の正体は、商業登記簿を見ても不明。半年後1949年10月、中華人民共和国が建国された。
⑥「1972(昭和47)年2月1日を合併期日として」は、予定されたことを意味する。日中国交回復(昭和47年9月29日)の半年前、日中国交回復前に、誰が計画したのか? キッシンジャーは前の年、1971年7月、極秘に中国に渡り、周恩来と握手している。池田大作とキッシンジャーが計画した可能性が大である。(令和5年12月1日付産経AP/共同配信の写真から推察)
キッシンジャーが令和5年11月29日、百歳で米国の自宅で死亡した。(令和5年12月1日産経新聞)池田氏が令和5年11月15日、95才で老衰死。(産経新聞令和5年11月19日付)池田氏は平成20年以降、その動静について報道はなかった。
(次回へつづく)