必読!「感動の講演」・・・私も感動した。 | 日本世論の会 本部

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「感動の講演」 

          豊田市  鈴木 K.

 

 建国記念日に桜華会館で、伊藤祐靖氏の講演を聞いた。ご承知の如く、魚釣島に日章旗を掲げた、かの英雄である。

 私はどんな偉丈夫なのかと、生で見たい思いから出かけた。氏は大柄ではなく、中背といった背丈であった。スーツ越しにも強靭な筋肉が推察される、引き締まった立ち姿だった。決してシュワちゃんのような派手ハデしい外見ではないが、実戦的な体力とは、恐らく、こういったものであろうと思った。静逸だが畏怖も感じる体形であった。

 私の思いは満足されたのだが、その後の講演内容が実に素晴らしく、私は生まれて初めて位の、感動をして聞き入った。当初伊藤先生は武人だから、訥々とした、あまり流暢ではない話ぶりだろうと想像していたのだが、実に良く出来たものであった。発声が極めて聴き取り易く、分かり易い筋立てで、間の取り方も巧く、相当回数をこなし、且つ勉強と工夫をされているもののように拝察した。

 講演は、能登半島沖不審船事件の、ご自分の体験談だった。これは平成十一年三月二十三日に、能登半島沖に二隻の北朝鮮工作船が侵入して、それを海上保安庁と自衛隊が発見追跡した事件である。事件の数日前から北朝鮮の電波に変化が見られ、注視していると、二十一日に能登半島沖から発信される不審な電波が傍受された。米国と韓国からも情報が寄せられ、当局は北朝鮮の工作船が、日本海に侵入したと判断した。韓国からは、工作船は重要なブツを日本から積み込む目的だ、との情報も入った。

 そこで二十二日に海上保安庁はもとより、自衛隊の舞鶴と八戸の部隊に、緊急出動命令が下った。八戸からはP―3Cが飛び立ち、舞鶴からは「はるな」「あぶくま」とイージス艦「みょうこう」の三隻の護衛艦が、午後三時に緊急出航をした。伊藤先生はこの「みょうこう」の航海長であった。

 伊藤先生の話によれば、緊急の場合護衛艦は、乗員の三分の一の人数が揃えば、出航をするそうである。遅れた者はヘリコプターが搬送をする。伊藤先生も出動が掛かったとき町に出ていて、大慌てでタクシーを拾って帰艦された。舞鶴は小さな町で、三隻も緊急出動が掛かった為に、帰艦を急ぐ自衛隊員で、騒然とした雰囲気だったそうだ。

 翌二十三日の早朝にまずP―3Cが不審船を空から発見し、次いで昼過ぎに「みょうこう」が海上で発見した。そして翌二十四日の午前三時まで不審船を追跡し、その間停船を命じ、威嚇射撃を繰り返したが、防空識別圏を超えて逃走したので追跡を打ち切ったというものである。

 講演の内容自体は「能登半島沖不審船事件の話」との表題で、伊藤先生が書いたものがネットに出ているから、それをご覧頂きたい。ただ話と違って文章はあまりお上手ではないらしく、とても講演を聞いた者のような感動は沸くまいが。

 ここでは私の感動を記したい。

 不審船を捜査する任務は海上保安庁が負っているから、新潟から巡視船が駆けつけて、まず停船を命じた。しかし不審船は無反応のまま、北に向けて逃走する。夜に入って巡視船は威嚇射撃をした。ウキペディアによると二百五十発の射撃をしたとのことだが、伊藤先生のお話ではそれは上空に向けて、まるで花火を打ち上げているみたいな頼りない光景で、とても威嚇にならないものだったとのことである。そして海上保安庁の巡視船はなんと、帰りの燃料に不安があるからとの理由を「みょうこう」に告げて、新潟に向けて帰ってしまったそうだ。船は飛行機と違って燃料が切れても沈没はしない。何故もっと追跡しないかと、ここを語る時の伊藤先生の憤慨ぶりは凄かった。

 その後真夜中になって、官邸から、自衛隊が発足して初めての、海上警備行動が発令された。当時の総理大臣は小渕恵三氏であり、運輸大臣は川崎二郎氏であった。よく決断されたと尊敬する。ウキによると野中広努が当時の官房長官で、発令に反対していたとのことだ。海上警備行動とは簡単に言って海上保安庁の代行をすることである。これがないと自衛隊は犯罪容疑者を見ても、何も手出しができないのだ。

 海上保安庁の警察権の代行だから、護衛艦といえども、相手が撃ってこない限り、まだ「不審」船との容疑の段階では、攻撃を仕掛けることはできない。出来るのは停船を命じる威嚇射撃だけである。しかし護衛艦の威嚇射撃は海上保安庁とは大違いだ。巡視船は機銃だが、護衛艦は127ミリ速射砲である。大東亜戦時の陸軍が使用した最大野砲が、十加と十五榴である。十加とは口径が十センチの加濃砲、十五榴とは口径十五センチの榴弾砲のことである。これは戦闘単位である師団では持てず、その上の軍に直属していた。それくらい威力のある大砲と、護衛艦の速射砲は、ほぼ同じものなのである。これが当たれば不審船など木っ端みじんである。しかも護衛艦の射撃なら確実に当たる。

 不審船との距離は数キロである。不審船は相変わらず無反応で、30ノットを超す高速を出して逃走を続けた。それに「みょうこう」がぴったりと並走する。ついに威嚇射撃による後方200メートルの着弾が命じられ、その位置に、正確に水柱が上がった。しかし不審船は止まらない。次に前方200メートルに着弾。更に後方100メートル、前方100メートルと着弾距離を縮めるも、不審船は逃走し続ける。いよいよ艦長が「後方50メートル着弾」と命じた。そのとき艦内に凄まじい緊張が走ったそうである。如何に現代艦の射撃が正確であっても多少の誤差はある。大砲の弾だ。仮に当たらなくても少しでもずれれば、至近弾となる。不審船は木造船である。爆風と水圧で破壊に至るかもしれない。もし「不審」船状態で沈没させたら国際問題になるのは必至だし、マスコミと野党から、「やり過ぎ」「軍国主義の復活」などと、自衛隊と政府は総攻撃を食う事態になろう。「えらい事に直面した」全員がそう感じたのだ。

 しかし撃った。見事に後方50メートルに着弾した。次は前方50メートルだ。これも成功した。水柱は不審船のマストの、三倍以上の高さに上がった。そこに不審船が突っ込む形になって、舷窓のガラスなど吹っ飛んだことだろう。伊藤先生は訓練で、一キロくらい離れた場所にいて、着弾を観測したことがあるが、それだけ離れても砲弾が空気を切り裂く音と着弾時の轟音で、身が震えたと言ってみえた。それが50メートル先で水柱を上げて、そこに船が突っ込むのだから、不審船の乗組員に、生きた心地など完全になかったろう。

 それだけやられても不審船は止まらない。不審船乗組員の心は完全に狂気の世界に入っていたろう。艦長は「苗頭正中、延50」と命じた。護衛艦内の雰囲気は緊張の極度に達し、伊藤先生は航海長として艦長の命令を復唱し、射撃指揮所に伝達する役目をしていたのだが、思わず絶句してしまったそうだ。

 苗頭とは海軍の砲術用語で、由来は戦国時代の火縄銃の射撃にあると、伊藤先生は言ってみえたが、詳しくは解説されなかった。ネットでもあまり出ていなくて、想像するばかりだが、稲が風に揺らぐ様の表現であるらしい。つまり稲は普通は直立しているが、風が吹くと左右に揺れる。射撃目標と砲口を直線で結んで、そこから左右に砲口を少しずらすことを、苗頭というらしい。遠距離になると砲弾でも風の影響を受けるし、砲独自のぶれもあって、また動いている目標なら見越しもしなければならないから、「苗頭○○」と言って、射撃の方向を決定するもののようだ。この場合不審船との距離は僅か数キロだから風も見越しも関係ない、砲弾はまっすぐ目標に向かうと想定して、「正中」と艦長は命じたと考える。「延50」は、不審船を真横から撃って、それを飛び越した50メートル先に、着弾せよというものである。

 伊藤先生は「砲弾にもフォークボールがあれば、これは可能だ」と言った。しかし実際は放物線を描くから、50メートルでは、船に当たってしまう。思うに炸薬量を調整し、高い仰角で撃てば可能なのだろうが、神業が要求されるのだろう。射撃指揮所からはとてもできないとの返事が来るが、艦長は命令を繰り返して、周りの乗員は小便をちびりそうだったろうと、言ってみえた。

 結局艦長も命令を取り消したのだが、その時全く思いがけない事に、どういう訳か不審船が停船した。停船すれば警察権に基づいて相手の船に乗り移り、臨検をしなくてはならない。実はこの少し前に、護衛艦にも臨検部隊が設置されていたのだという。だが設置といっても乗組員の中から二十名ばかりが選ばれて、臨検要員に指名されているだけという状態だった。実際に臨検する局面などないと誰もが思っていたようで、訓練など一度もしたことがないし、そればかりか自分が臨検要員に指名されていることさえ、知らない人間も多かったということだ。「臨検準備、要員は整列」の命令で、乗員の誰もが自分の任務表を確認して、ああよかった外れていると安堵したり、ええと天を仰ぐ始末だったという。

 護衛艦の乗員は小銃を撃つ訓練はするが、大多数の者はピストルに、触ったこともないのが普通であるそうだ。だから弾込めの方法さえ知らない。防弾チョッキも配備されていない。整列した要員はみんな泣き顔であったそうだ。もし不審船に乗り込んで近接戦闘になれば、経験のない自衛隊員の方がやられるだろう。仮に制圧できたとしても、不審船には爆破装置が設置されていて、奴らは絶対に自爆すると、自衛官全員が認識していたそうだ。つまり臨検要員は、相手が大人しく従うという万に一つの僥倖がない限り、確実に死ぬのである。臨検隊長が泥縄の訓示をして、要員は支度のために一旦解散した。

 この時、伊藤先生の部下の航海科水兵が、「私は手旗信号係なのですが、この暗闇では読めません。私が行く意味があるのでしょうか」と、藁にも縋るとの風情で訴えかけてきたそうだ。臨検要員には勿論無線通信の担当者がいるのだが、その人間がやられた場合を想定して、手旗信号の係が用意されているのだ。伊藤先生も心の中では「そうだな、夜に手旗は意味ないな」と思いはしたが、「何を言うか、あの船には拉致された日本人が連れ去られているかも知れないのだぞ、日本国が取り返すと、意思を示しているのだ。国家の意思を実現するのはお前だ、頑張って行け」と、死を前にした若者に向かって体裁の良い事をと、半ば自嘲の思いを堪えて言うと、意外な返事が返ってきたそうなのである。

 「そうですよね。自分も自衛隊に入るときは、ほんの少しですが、お国の為に役立ちたいとの気持ちがありました。ずっと忘れていましたが、今蘇りました。」水兵はそう言ったそうなのである。

 支度を終えて再度集合した臨検要員の顔は、短時間の間に、驚くべきことに、全員さっきまでの半泣きの表情のかけらもなかった。少年ジャンプなどの漫画雑誌を胸に括り付けている者がいる有様だったが、晴れやかとさえ言えるきりりとした顔付で、任務遂行に挺身する覚悟が表れていた。そして件の水兵は「お世話になりました。後を頼みます」そのように別れを告げた。ああこれが日本人かと、伊藤先生は感極まったそうである。

 しかし伊藤先生は同時に、これではいけないとも、強く思われた。「絶対にそれなりの装備と、訓練を施した人間を、送らなければいけない。」また同時にこうも思われた。「人を死地に赴かせる命令は、政治家ではなく、天皇陛下から頂きたい。」

 私はこのお話を聞いて思った。人間はいよいよとなるとドーパミンが噴出して、わずかな記憶さえ肯定的に捉えて、事に向かうものらしい。ならばよい人生経験が多ければ多いほど、勇敢な強い兵士になれるのではないか。そういう兵士が心置きなく働く為には、法律の規定ではなく、つまり機械的なシステムからではなく、天皇という精神的な存在がなす要請が、必要なのではないかと。

 伊藤先生はこの事件の後、自衛隊に新設された特殊部隊を志願し、七年間先任小隊長を務められたのだが、決して精神だけ主義者ではない。講演後の質疑応答では当然ながら尖閣のことが多く質問され、伊藤先生は自分の能力からすればあれは楽なミッションだったと言われた。関連して自衛隊の特殊部隊とシールズを比べて、どちらが強いかとの質問が出た。伊藤先生は現在の自衛隊の特殊部隊のことは知らないと言いつつ、アメリカ軍の特殊部隊員は、世界の軍の特殊部隊員からは、仲間に入れてもらえない、低い実力であると答えられた。

 これには恐らく会場の全員が吃驚したことだろうと思うが、続けて、「しかしアメリカ軍は世界最強である」と述べ、こんな例え話をされた。日本人が一人3の能力を持っているとして、三人集まれば9の能力である。対してアメリカ軍は一人1の能力である。ところがこれを9人集めて9の能力を発揮させる、世界のどの国も持っていない、システムというかノウハウがアメリカにはある。これで戦争をするとアメリカが勝つ。というのは日本側は一人やられると6に能力が落ちてしまうが、アメリカはまだ8である。そして1の能力の人間は簡単に代替が利く。これが、アメリカ軍が世界最強である理由だ、とのことだ。大東亜戦争での日本海軍の惨敗ぶりを聞くと、成程と思えるお話である。そしてこのアメリカのシステムはどの国も真似が出来ないとのことだ。

 このようにプラグマティックな考えをお持ちの伊藤先生が、戦争において、天皇という精神的な存在の必要を、強調されるのだ。私は人に理由を説明できる言葉を持てないが、その通りだと、心の中で繰り返し叫んだ。

 ところで臨検要員には幸いというか、ランチを下す寸前に、不審船は再び全速力で、逃走を始めた。そして北朝鮮の母港に逃げ帰ったのである。思うに不審船乗組員もあまりの砲撃の凄さに怯んで停まったが、本国から捕まったら家族全員収容所送りだぞと言われて、やけっぱちで逃げ切ったのではないか。

 いかに特殊部隊の必要性を現場で痛感したとはいえ、自ら志願する人間は少ない。伊藤先生は真の武人と思う。その後再び海上勤務を命じられ、伊藤先生はそれが不満で自衛隊を辞したと言われたが、特殊部隊員としての訓練により武人としての質実が充実し、もはや組織の枠内に収まりきらなくなったのだろう。この種の方は色々な分野に多く居ると思う。退官後はフィリピンのミンダナオ島で、現地の若い女性から、独特の潜水と殺傷術の教えを受けたそうだ。女性といっても馬鹿にしてはいけない。若くして現地の部族抗争で死んだ勇者であるそうだ。私はそういう生きざまに圧倒されるばかりである。

 伊藤先生は現在の自衛隊の特殊部隊員の能力は知らないと言われたが、そんな筈はないと思う。知っているが言わないのだと思う。ということは能力が落ちているのか、それとも中途半端にアメリカ式システムに移行しているのか、とも思う。

 しかし北朝鮮から拉致被害者を奪還することは、特殊部隊員にとって、難しい作戦ではないともいわれた。詳しくは勿論言われないが、拉致被害者に関する情報は、沢山あるとのお話だ。通常作戦の部隊の応援も要るが、拉致被害者一人の救出につき十人の犠牲を覚悟すれば、奪還は可能だと言われた。ということは、逆に、特殊部隊員の能力は、上がっていると解釈してよいのか。

 あれやこれや思うことばかりだが、実に感動した講演だった。