憲法は自衛権について明文規定を置いていない。九条には国際紛争を解決する手段としての戦争と武力を、放棄するとあるだけである。だから個別的自衛権とか集団的自衛権の行使などの事項は、憲法解釈の問題となる。
そして戦後10年余りの間に種々の解釈変遷をしたあと、本年9月19日より前は、集団的自衛権の行使は出来ないという解釈であった。
そこに至った経過を簡単にまとめると
①
当初は自衛戦争も憲法違反と解釈された。
昭和21年。欧米諸国は日本の復讐戦を警戒しているから、自衛戦争も放棄しているとのひたすら恭順する態度を示す事が、日本の進む道だとの吉田首相の演説。
②
戦力に至らざる「軍隊」だから合憲との解釈。特に空軍を持っていないのだから戦力ではない。だから保安隊は合憲である。
昭和27年保安隊発足。朝鮮戦争の勃発で在日米軍が朝鮮半島に回り日本国内が空白となった。その穴を埋める国内治安部隊が発足した。
③
自衛の為の最小限度の戦力だから合憲との解釈。
昭和28年自衛隊発足。自衛隊には空軍があり、侵略してくる外国と戦うのだから、②の解釈では成り立たない。
ここでほぼ従来の憲法解釈の原型が出来た。そして自衛とは海外で武力行使をしない事であり、最小限度とは防衛費をGNPの1パーセントに抑えることだとの解釈が、その後追加的に確立した。
1980年代以降自衛隊がPKOで海外派遣されているが、自らの身を守る以外には武力行使をしないとの厳格な制約の元でなされている。これは③の解釈が影響をしている。
このような経過を眺めると解釈というものは、時の必要に依ってなされるものだと、よく分かる。当初は日本を農業国に留めるとの国際合意で解釈され、朝鮮戦争で共産国の侵略本能を知ると、日本にも一定の武力を認めるように解釈変更された。自衛隊に実力がついて有用性が認識されるようになると、海外での活用が言い出され、③の解釈の中での現実的適用が編み出されたのである。
だから集団的自衛権の一部使用を認めるのも、中国の脅威などの背景となる現実があるからこそである。
所で、このような解釈はその都度国民投票をして決めたのではない。国会で自衛隊法やPKO派遣法などの法案を成立させて、なされていったのである。だから今回の解釈変更もその習いを踏んだもので、政府が特別に違った事をしたというものではない。
憲法の条文の変更なら、憲法に規定された手続きを踏まねばならない。しかし条文に書かれていない解釈部分の変更は、どのようにやったら良いのか。学説は色々あるだろうが、現実的には、従来は国会で法律を通すやり方で行ってきた。ならば今回も同様の事をしたのであり、手続き的に憲法違反と謗られる謂れはない筈である。
であるのに、今回の解釈変更が憲法違反と騒がれる要因は四つある。
一つは、個別的自衛権に限るとされていたものを、限定的にせよ集団的自衛権の行使に舵を切ったという、解釈変更の幅の大きさから来る、衝撃である。
しかしそれは多くの国民の戸惑いという心理的なものに過ぎない。憲法の条文に集団的自衛権の行使は禁ずると書いてある訳ではないし、解釈変更の手続きも正常なのであるから、法案に反対であっても、違憲との種類の問題にはならない。ここは国民が間違えているが、気が付かないのだろう。
二つ目は、元最高裁長官が言っている事だが、従来の憲法解釈が半世紀以上に亘って国民に定着している事から、最早解釈が条文化されていると考えるべきだ。だからその解釈変更は、条文の変更に準じた手続き、即ち国民投票をしなければならない。それがないのだから憲法違反であるというものだ。
慣習法的なことを言っているのかも知れないが、解釈が時の経過で即条文に変化するとの考えには納得できない。ある解釈が続いたということは、その解釈を成り立たせる現実状況が続いていたからだと、考えるほうが妥当性があろう。時間の長さなど、たまたま同じ状況が続いたという、事の本質から外れた要件だと思う。元内閣法制局長官の坂田某も同じような事を言うが、彼のほうが正直で、日本を取り巻く昔と今との国際環境の違いをどう考慮するかとの問いに、それは自分には判らないと答えている。つまり坂田は自分の解釈だけを見ていて、ほかの事物は見ていないと告白したのである。これぞ昔よく言った物神化の例である。木を見て森を見ない例え通りのものである。だからどんなに長く続いた解釈でも、状況の変化で相応しくなくなれば、それを変える事は全くの合憲である。
三つ目はほとんどの憲法学者が違憲だといっていることである。
その理論的根拠はない。前記二つのことを尾ひれをつけて叫んでいるだけである。何故彼等はそう叫ぶのか。簡単に言って飯の食い上げになるからである。つまり今まで当然の正義のごとく個別的自衛権に限ると学生に教えていたのに、来年から集団的自衛権でも良いとは、一応、恥ずかしくて言えないではないか。冷や飯を食っていた集団的自衛権容認の若手学者に、教授の椅子を取られるかもしれないではないか。またテレビ局も呼んでくれなくなるではないか。彼らも生活がかかって必死なのだ。
だから学者の言は、農産者が関税引き下げ反対を叫ぶような、生活防衛の行動だと受け取ればよい。
余分なことを言うと何故日本の憲法学者は愚かなのか。それは日本国憲法が世界の中でとても異質なもので,外国の先生から教えを請う事が出来ないからだ。大体人文系の学者は西洋の学者の翻訳をして一人前の顔をしてきた。それでも西洋には学問の伝統があってそれほど馬鹿なまねはせずに済んできたが、日本国憲法という日本独自のものを日本人だけで考えているうちに、なんとも形容しがたい馬鹿な頭脳になってしまったのである。
四つ目が、シールズに誘引されて、とにかく戦争は嫌だとの国民の素朴な感情が発露したことである。
憲法の平和主義を捨てたなどと彼らは言うが、もし自衛の戦争もしないという主張なら、それは半世紀前にとうに捨てられている。もし侵略者だけには立ち向かうという意味なら、侵略者に一人で立ち向かうか、共同で立ち向かうかどちらが有利かと問えば、彼らも共同でする方だと言うだろう。しかし彼らはそれにプラスして、自分が侵略された時には共同で戦って欲しいが、その共同者が侵略された時に、自分が戦うのは嫌だと引っ込んでいるのが、憲法の平和主義でありそれを捨てたと、喚いているように思える。そういう得手勝手なというか、ある意味正直なというか、生の感情を叫んで一時的な共感を得ているように思える。日米安保を維持し現行の九条解釈の儘なら、今まで通り戦争しないで済むじゃんというのが、多くの国民の素朴な心なのであろう。
しかし国民だって馬鹿ではないから冷静になれば、安保条約はどちらか一方の国の通告で終了する脆いものだ、アメリカを助けないで通る時代ではなくなってきている、危険もあるがアメリカと共に立つのが日本の安全を確保する道だと、憲法解釈変更をそのうちに支持するようになるであろう。何事によらず新しい事に直面すれば、人は躊躇い拒否したくなるものである。
左翼はシールズを文化大革命時の紅衛兵のように利用したかったと思うが、毛沢東に比べて山口二郎や有田芳生ではカリスマ性に欠けるというものだ。ギリシャの国民投票と、それを受けて現実に取った緊縮策受け入れを見ると、国民の意思の計り難さが見えてくる。一億総活躍が始まれば、これだけ多くの国民が反対だから違憲との感情論は、霧消しよう。
長くなったが、憲法の解釈変更は法律が通り、違憲判決が出ない限り合憲であり、違憲論は国民の心理的戸惑いを、憲法学者の生活維持と左翼の反日が目的合致して、利用しいたずらに不安を煽っているだけのものである。
これから違憲訴訟が多発するであろうが、馬鹿な裁判官が違憲判決を出さないとも限らない。私の思いだが裁判所も結構世論に流される。これから日本が発展し健全な世論が拡充してゆけば、違憲判決は出ないであろう。しかし我々が活動を怠り左翼が跋扈するようにでもなれば、国民の無知に漬け込んで、功名心に溺れた裁判官が違憲判決を出すかもしれない。