征韓論→韓国併合→「中国」侵略→対米英戦争 を再検討する

昨年7月に発信した内容に加筆したバージョンアップ版

でお届けしています。

 

 

  「日本は大陸を侵略し、ドイツと同じファシズムだった」は本当か

 

日本がペリーにされた高圧的態度を

やり返して朝鮮を開国させ、

 

植民地にして、次は満洲事変を起こし、

アメリカと戦争をして負けた。

 

しかも、負けるとわかっていた愚かな戦争をした。

 

中学生・高校生・大学生時代の頃までの

日本近代史は、だいたい以上のものでした。

 

最初に。日本が植民地化したという

「征韓論」の話をしていきたいと思います。

 

教科書には「征韓論」は必ずでてきて

「征韓論」といういい方そのものが、

日本の高飛車な高圧的なもののいい方に

聞こえてきます。

韓国

響き自体が「日本は悪い」というのが私の印象です。

 

しかし、「征韓論」をなるほどと言わしめる事実、

その意味や背景、

その経緯を述べた説明に

 

今まで出くわしたことがない

というのが正直なところでした。

 

ドイツと日本も同じ全体主義の国だった

ともいわれてきました。

 

ドイツが、ヨーロッパ各国を併合していったように

日本も、朝鮮やチャイナ(「中国」)を侵略した。

 

だいたい第二次世界大戦は

「民主主義国家」VS「ファシズム」

そういう風に

大学受験の世界史の参考書にはありました。

 

しかし、

調べてみれば見れば見るほどまるで違います。

 

日本とドイツはまるで違います。

 

ある意味当時のドイツとソ連の方が

共通点が多いかもしれません。

 

それ故、

全くかみ合うことはありませんでした。

 

日本の先の戦争の原因を追及する意味でも

「征韓論」の自分なりに納得できる事実をつかみたい、

そうしないと、全く事実に反する歴史を

 

子供たちに植え付け

日本の未来はますます危うくなる

そう思います。

 

そして、日本の近代史を

できるだけわかりやすく明らかにして

 

その事実が、ドイツのナチス・ヒトラーとは

全く異なる事実を明らかにしていきます。
 

  「日清修好条規」以前は正式な国交がなかった日本とチャイナ

 

最初に、日本とチャイナとの関係について

わかってきたことを述べていきます。

 

一般的に日本が「中国」というと

長い歴史をもつイメージですが

 

実際に中国と呼べるのは

「中華民国」と「中華人民共和国」で

 

しかも、海外ではすべて「China」

を基調とした呼び方です。

 

英語読みの「チャイナ」より「シナ」に近い呼び方です。

 

日本で「支那」は差別用語だと蒋介石からいわれ

では「シナ」は外国では普通です。

 

 

 

それは驚くべきことでした。

明治政府は、国境の確定とともに、
近隣諸国との調整も迅速に整備していきました。

最も画期的であったのは、

1871(明治4)年の日清修好条規です。
 

この条約は、

日本と清国が対等な条約を結んだということが、
秦の始皇帝以来、

日本史上初めてであったということです。


万里の長城
 

そんなはずはないはずで、

遣隋使や遣唐使があったではないか、
と思われると思います。

しかし、
これまで、日本と中華王朝の関係は、
基本的には

中華王朝が日本を臣下として封じてきた歴史がありました。

 

 

あくまで対等な国際関係を求める日本は、
「倭」と呼ばれてきたことに対して「日本」を、
「倭国王」と認めていたことに対して自ら「天皇」を用いました。

それが、諸説はありますが

天智天皇から天武天皇の頃です。

 

しかし、岡田英弘氏によれば、
明治4年の日清修好条規が締結されるまで
「天皇」の名前は

一度も表れたことがないといいます。
 

それは、意図的に避けてきたということで
元首の名前がない以上、

 

それは正式な国交ではない

ということになります。

このことは、

政治的に避けてきたということであり、
 

それはチャイナの皇帝を

皇帝として受けることは一度もなかった
ということになります。

岡田英弘氏は、

これはアジアにおいて非常に目立った現象で
 

こうした態度をとり続けた国は

東アジアを見ても他に一国もない
日本だけだといいます。

岡田英弘著「日本人のための歴史学 こうして世界史は創られた!」(WAC)

 

例外的に、経済的な理由等から、
足利義満のようにあえて

「日本国王臣源」を受け入れた例もありました。

豊臣秀吉はそれをひどく嫌っていたし、
徳川家康は、あえて「太君」を使用することで、
相手国の臣下ではないと同時に対象国、
 

この場合は清(1616~1912)や

李氏朝鮮(1392~1910)ですが、
不要な摩擦を避けることができたのです。

この日清修好条規は、
清国が日本に対して「天皇」を認めたということになります。

 

ところが、それを認めないどころか、
外交文書を門前払いにしてきたのが李氏朝鮮です。

ここからがまた、今日の東アジア近隣諸国との
今日に到る長い関わり合いの歴史となっていきます。

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

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