良い言葉じゃけ。
ぐっさりくる言葉じゃけ。
そのまんまなのだが、自分が通ってきたことも行くことも忘れてしまいそうになる。
ヨガのレッスン中もしかり。
たくさんの発見がある。
ふと、とあるときに、ああ、自分も同じように通ってきた道だなあとか気づくときがある。
行く方向は同じということである。
教えていることなどは、何も無くて
教えられることが、気づかされることが多田多田いっぱいある。
ただ単に自分も通ってきた道なのである。年齢とか、国籍とかそういうものも関係なく、見つめる先は同じなのだ。
だから、ただ単に、同じ道に一緒に行こうとしているのだろう。
本当に学ぶということは、シェアをして始めて知るのだなあとつくづく思う。
そういう人たちが居てくれることはとってもありがたいことだ。
ヨガの同僚たちも、40代、50代が多く、一番私が若造なのに、あんたが一番大人よねえーなんて、何故か時々人生相談をお互いする。そうすると、彼女たちが通ってきた道を教えてもらい、また自分も行くであろう道も垣間見れたりして、一緒にうーんとなったりする。一緒にうーんとなって、道を探している。国籍もばらばらだけど、かけがえのない仲間。今も時々、メールやお茶、スカイプとかで情報交換をしあう。
でも彼女たちのパワーのすごさに、あたしゃついていけないってくらい、
歳をとるってことは、つまり苦でもあり、楽でもあるのだと教えてくれる。
10代、20代、何だかがむしゃらに生きてきて、もう、そろそろゆっくりしたいなんて、願っている自分はまだ甘ちゃんなのである。
もっと、みんながむしゃらに生きている。
30にして立つ。というけど、あたしゃいまだスタートラインにも立っていなく、へこへこ土地を作っている。
40にして迷わず。っていうのに、40過ぎたあらんちんも、彼女らも迷っている。これでよかったのだろうかと。
でも、彼らにはすでに畑があったりするんだな。
どう考えても、今青春真っ只中にいますっていう子供大人みたいな人たちが回りにわんさかいる。
どう考えても、私よりもすんごいパワフルなのは何故なんだ?っていう仲間がいる。
しばらく連絡の途絶えた、大好きなダニエル、おっちゃんである。旗から見たらおじいちゃんの年齢だったりする。。
先日、彼に会えるものかと楽しみにしていたら、何と、心筋梗塞になり今年は入院していてやばかったけど、良くなって今は、キューバ旅行に行って来たーというではありませんか。
しかも、スキーの板で雪山さっさか歩いている途中で心筋梗塞になってさあ、みたいな。。
そうだった。
彼らって、死にそうな時も、一生懸命だったりする。
苦しい時も、それを乗り越えて、さらに進もうとする。
その乗り越え方を、苦い経験をつんでちゃんと知っているから。
今年はこれでもかってこと、試練の連続の歳で、
今思うと、今年は厄年だからね、ちゃんと御参りに行きなよという弟君や、お守りを買ったほうが良いぞと進めてくれた男友達の助言から始まり。
いや、もっといくと、これまた私の主治医らしからぬ、とりあえず白衣を着ている先生が、ガーフィールドの日めくりカレンダーの隣で、
君ね、33才で自己を確立するだろうから、それまではどんなことがあってもそういうことだから。まあ、音楽がそばにあれば何とかなるでしょう。何て、変な助言をし、あ、もう来なくて良いからなんて言ってくれちゃって。
おい、主治医。あたしゃ、病気になったらどうすりゃ良いの?
もう来なくて良いって。。
あれから数年。
って、自分で自分のカラダと対峙する方法までせっせか頑張る未来が待っていて、よく考えたら、あの予言はそういうことなのだ。
仏陀が悟ったように、人間に生まれるとこは、いろんな苦労をしなければならないということ、そしてその人生苦の中から光や価値を見つけることなのだと。
今思えば、あの主治医の下へ通った日々は、不思議な日々だった。
彼は、西洋学を学び、もちろん医師免許もあるっちゅうに、見るのはもっぱら、チャクラや波動の状態、あー、つまってるねえと。
おかげで、今の自分がある。
へっこら、西洋学を学び、でも結局同じようなところを見ている自分がいる。
今じゃ、自分であー、つまってるねえと、こりゃメンテナンスをせねばとへっこらしている自分がいる。
分かっていながら、ごめんよーと酷使している自分もいる。
今頃になって、あの先生、本当にすごいなあと、会いに行きたいと思う反面、会う必要無くなってるしなあと寂しく感じる。
33歳って。
てことは、大変なことがその前にいくつも待っているということだったのだ。
よく考えたら、後厄が終わったあとって事かしら?
もう。目に見えてはいるのだが。
そして、その後、どうなるのかしらと聞きたいけど、きっと変わらないのであろう。
自己を確立だなんて、、遠いなおい。。でも多分、今よりもっと自由になれているのかもしれない。
同じく、彼らが通ってきた道を行くのじゃ。
そして、死ぬ最後まで思いっきり生きていこうとするのかしら。
足が痛かろうが、腰が痛かろうが、目が見えなくなってこようが、それでも日々は過ぎていく。
皆がどんどん先に居なくなっても、それでも日々は過ぎていく。
自由になるのは大変なのじゃ。
ヨガを勉強していくうちに、仏教にたどりつく。
そして、やはり同じく。
煩悩を制御することだ。
とまったくヨガと一緒である。
綱を引いて、へっへか、自分の心を飼いならす術を知ること。
一切が苦であるというところから始まるのに、苦も楽もないっていう所にたどり着く。
観音様の「観」という字は、釈尊が深い観察の修行をなされた、その修行の名前です。その修行の内容は、相手の身に自分が同化するということです。
観察すること、気づくこと、そして、どうしようもない煩悩くんを嫌うのではなく、飼いならすということ。
どうにもこうにも、つらい状況でも、その状況をちゃんと見つめること。そして感謝すること。
どうにもこうにも難しいのだが、だから人生面白いのかも知れない。
先導してくれる師がたくさんいるから、未来の苦を少しでも減らせるように、それらから自由になるために今日もへっこらアクションを起こしていこう。
ただ、あるがままを見つめて、あるがままに生きるというのは、もしかしたら、どうにも難しいときもあるけど、救われるときもある。