二つのクラスで、瞑想の時間を少し取り入れたレッスンを行った。
ヨガでは、たくさんの瞑想法がある。
一つのイメージに集中して、最後そのイメージと自分が1対になる瞑想法。
一点に集中する瞑想法。
マントラを使った瞑想法。
そういえば、昔、瞑想を習っていたとき、私は何故か蜘蛛に集中していたのである。おお、何と言う時であったか。なぜ、蜘蛛なのだーと心のどこかで泣いていたなー。1対にはなれなかった。。
まあ、それは良いとして。
瞑想もヨガである。ヨガには8つの分野(アシュタンガ ヨガという)がある。
まずは、自己との関係。そして他者との関係。
三番目に、アーサナ 対位法でカラダを鍛え。4つ目に呼吸法によりプラーナ(気)を整え、5つ目にそれによって五感を鍛え、6つ目にそこから集中力を整え、そして7つ目に瞑想の状態にたどり着く。最後には静慮の状態、こころをコントロールした状態に入っていく。
これがヨガである。
ものすごくざっとした説明じゃがな。。
最初の自己との関係、他者との関係もめちゃくちゃ大事だし、それもヨガなのだ。非暴力、正直でいること、不盗、もっともっととむさぼらない、清潔でいること、足りていることを知る心を持つこと、苦行(心とカラダの不純物を燃やすこと)、自己を知ること、自我にとらわれないことなどなどがその中で語られている。
普段のヨガのイメージでは、三番目のアーサナ、カラダを鍛える事にポイントが集中しがちである。
ヨガのシンプルな動きと呼吸法を使って全身の気を整え、五感が目覚め、集中力がつながったとき、瞑想の状態が訪れる。
でもアーサナは、もう一つ、その言葉自体、座るという意味でもある。
坐禅の坐である。
坐とは、どういう意味かといえば、
自己と自我を見つめるということ。土の上に、二人の人がいる。二人の人とは誰かといえば、二人の自分。
難しいポーズをしようだとかしている時っていうのは、そのポーズの完成系をとるのに必死になり、呼吸を忘れ、乱れ、余分なところの筋肉が緊張している。
逆に、呼吸が整っているときは、それがどんなポーズであれ、瞑想の状態に入っている。ちなみに、バランス系のポーズはまさに瞑想状態の時、揺らぐことがない。
煩悩に振り回されている時は、心ここにあらずで変にどこかにつかまっていて、楽ではない。
ポーズとポーズの間がすごく大事だったりする。
自分の息を感じ、カラダの中のほとばしる血液を感じ、筋肉の伸びを感じ、心が落ち着いている。
ただそこにいて、今というときを感じている。
一番最初に私がやった瞑想は、中学生の頃。
ロウソクをずっと見つめる瞑想。一人部屋の中で炎を眺めていた。
その後、20代の初めに京都に深夜バスで行った時のこと。早朝に初めて訪れた京都に着いて駅をあるくと、大きなお寺にたどり着いた。まだ6時とかそれくらいだったのかな?
お寺の中では、確かお経が唱えられていて、私は庭の方を向きながら、そこで坐禅を組んだ。
初秋の風と、鳥の声と、澄んだ空気。その中での瞑想はただ、そこにいた。何も考えず、思考が停止したかの様であった。
それ以来、瞑想といえば、無であった私は、一つのイメージに意識を集中する瞑想法とかがどうにもこうにも最初は分からなかったりして。
でも、煩悩な心は、目を閉じて坐禅を組んでも、毎回同じようにあの時の感覚にはならなかったりするのだ。
数分後には、ほっておくと、あーでもない、こーでもないと頭の中は忙しくなる。
アーサナをしている時は、カラダと呼吸に意識を置いているので、呼吸は自然と長くなり、頭の中は穏やかになる。
瞑想する時、姿勢も大事である。
ただして、坐ることがどれだけ大事か。きちんと姿勢が整ったとき、呼吸も自然とアーサナ中と同じ状態に整う。そうすると、同じく意識がクリアになっていく。
が、しかし、静寂の中にいても、カラダは一人動いていたりする。知らぬ間に、私はよく自分の顔が右に動き始めている。先生に注意されてはたと気がつくのである。。今という瞬間から離れていった結果であろうか。意識を常につなぎとめておくのも難しいのである。
でも頭の中が静かになった時、そこには不安も欲望も苦もないから、それはそれは心地が良い。
ただ、そこにいると感じる。
ただ、そこに生きていると今を感じる。
普段、私たちの心は忙しい。こころを無くした状態である。本心が何なのか良く分からない。
雑念はありあまるほど出てくるわ、欲はつきることはないわ、妄想は膨らむわ、煩悩に振り回されている日々なのだ。
何かをしている時も、まったく頭は違うことを考えてたり。。
ただ、ヨガをしている時は、その頭が何もなく、ただただ自分のカラダと呼吸を客観的に観察している。
ヨガをしている自分の他に、
それを見ている自分がいる。
そこに初めて二人の自分がいる。
そうしていると、あーでもないこーでもないと言っていた頭の中は静かになっていき、終わった頃にはすっきりしているのだ。
カラダが悲鳴を上げている時は、呼吸を使ってケアをし、心がどうにもせわしなく疲れている時は、カラダを動かして鎮めさせ、
どうしようもなく、不安になったり、つらかったりした時、マントラを唱えたり、呼吸法を行ったり、歩いたり、カラダを動かしたりしながら瞑想をする。そうすると、いつの間にかすっきりしている。へっこらへっこら出てくるネガティブな感情とも一つ距離が出てくる。
それらに振り回されてストレス状態に陥った心がカラダがゆっくりと落ち着いてくる。
ふむ。
良いことだらけではないですか。
なのに、なぜに皆、じゃあ、瞑想しないのかね?
そりゃあ、難しいからね。
長時間、坐っているのは。
坐禅の道は、行うことのみである。
でも、足がしびれたり、背中が固まってきたり、そもそも長時間坐る姿勢が出来ない。
だから、カラダを整えるために、ヨガをしているんだあね。
でも、それにこだわっちゃあ、いけない。
瞑想、イコール坐るでなくても良いんだな。
歩きながらでも、仰向けに寝た状態でも、ポーズをとりながらでも、いつでも瞑想は出来る。
今、ここに、いると感じている状態。
自分と見詰め合う時間、それって何よりすばらしい時間だ。
途中で、煩悩がひょっこらひょっこらとやってくる。
はっ、今雑念が頭をよぎっているではないかあ!君、どこかへ行きたまえ。
しばらくすると、また別の雑念が頭をよぎり始める。
ううん。無になれ、自分。無になるんだあたし。
なんて思い始めちゃうと、今度はそこに執着してしまって、コントロールしようとすればするほどうまくいかなくなる。
まあ、良いかと流れてくる雑念をただ見つめることだそうだ。そこで、うーんちょっとまてよーと雑念の中に捕らわれず、そのまま流れていくのを見ていくのだそうだ。
そうすると、ふとまた静寂がやってくる。
面白いねえ。
禅語に、流れにしたがって、流れに任せず とあるそうです。
煩悩の流れに抵抗するだけが能ではない。その流れに随いつつも、それを飼いならす努力を積み重ねることは必要だが容易ではありません。(松原泰道)
それをするとどうなるのか、ふっ。
人生が面白くなって来た。
自分の癖とかを知り始めたり、自分との間に距離が出来、他人との間にも距離が出来て来た。
怒っている自分、笑っている自分、泣いている自分、イライラしている自分、それをおいおいって見ている自分。
少し昔より冷静になれてきた。分析している自分が出始めた。まて、今自分何故かイライラ気味だとか認識しているのがここら辺にいる。少しづつだけど、スローモーションでああ、あたしったらそんなことして、駄目ねーなんて、数秒、数分(いや数時間とか数日の場合もあるけど)ずれながら反応している。
そうすると、それに執着している自分を隣で笑ったりしている自分がいつか表れて、大丈夫さ。とかまあ、何とかなるべえ。未来を思っても、過去を思っても、どうにもならんさと言ってたり。
カラダの状態と対話すれば、
はい。すみません。と何故か誤ってばかりだ。ちゃんとメンテナンスいたします。さっき、ヨガでカラダを隅々までマッサージしたら元気になっちゃったのよね。。
とりあえず、つらつら出てくる言葉を一度止めて、お布団に入りましょうよ。
今書いているこのつらつら日記は、何を書いているのか大丈夫であろうかと思いながら、とりあえずつれづれなるままに思いを形に。
論文の課題の答えが何処かに書かれているはずだ。明日検討しましょ。
ヨガとは、ひたすら自分を見つめることだのー。しかし。。