大観先生の語る、日本画総論、つづき、、、。
二、日本画と人格との関係
日本画と人格の関係に就いて、私は更にいま一段の説明を加えたいと思ふ。東洋画の如く、旨深く、意高き芸術は、他の技芸におけるように、単純な修行では能くする事は出来ない。この単純な修行をもって能くし得ないといふ事は、必ずしも東洋画達成の方法が、甚だしく複雑にして多端であるといふのではない。要は、人格の一部分的修行だけにては到り難いものであって、つまりは、志士仁人たるに要する根本精神を修めなければ、東洋画の本然には到り得ないといふ事である。
随って、東洋画の芸に志す者は、技能の末梢的な方面のみ心を用ふべきではなくて、人格完成の原理としての志気を発芽せしむる事に向かって最善、最大の努力を費やさねばならぬ。この志気さえ純一であるならば、一人格は随って純一となり、また志気が卓然たれば、全人格は自ずから卓然たるものがある。
画の格調の雅正なると否と、又筆跡の高致あると否とは、すべて、この一片の志気に懸かっている。而して、この志気そのものは、伝えようとして伝え難く、教えようとして教え難い。さればこの志気は、雄偉なる先達と、順心なる後心との間に一脉感応(いちみゃくかんのう)するものがあって、所謂不立文字(ふりゅうもじ)として伝える以外にはその方法がない。
次に私は、絵画が何故に尊い価値を有するか、といふことについて、改めて諸君の注意を喚起しなければならない。絵画、それは特に東洋画に於て、画の尊い所以のものは、その作者そのものが尊いからである。作者その人が尊くなければ、その表現されたる芸術が如何に巧みであっても、その芸術に尊い価値が発生する事はない。日本画が、その義に於いて尊く、且つ高き所以は、古来より今日に至るまで、この道の所謂名匠の人格、生活、環境、思想、情操等が、いづれも尊く且つ高かったからに外ならない。
吾々は、我々民族の歴史を顧みる時、そこには、帝王なり、公卿なり、又は士夫、学士が、絵事に携わって、始めて人文至高の意境に到達した例を少なからず見ることが出来る、又日本画の創作は、断じて一個の遊戯ではなく画学の実践によって、その筆底に創生するところの、高興、幽懐、深義等の精神的な所産は、聖人が経書を著すの徳に何等譲るものではない。東洋絵画の道に於いては、人と芸との相関すること斯くの如く極めて大なるもののある事を忘れてはならない。
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始めに、絵画の文化的使命を熱く語った後、次に、日本画と人格の関係について、正面から大いに論断しておられます。
現代語に訳す事は却って、格調を落とす事になるので、ルビだけにしました。興味のある方は熟読すれば、先生が言わんとされたことは伝わってくるはずであります。
もう、久しいあいだ、こういうことに意味を感じなくなってしまい、ただ、金儲けか、目先の打算だけをかろうじて追いかけるつまらない日本になってしまったことは返す返すも残念な事です。
だが、今からでも遅くはありません。大観先生を見つめなおすべき時。それは、今。であろうと思うのです。








