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絵師 高橋天山ブログ

日本画家が語る日本文化の素晴らしさ
菱田春草を語る

 五 日本画技法の特殊性

 以上述べたやうな、日本画の本質を弁へれば、ひいて、その技術なり、技法なりが、この本質的な価値を生かすために駆使されなければならなぬといふ事を理解するであろう。随って、その技術なり技法なりが、この日本画独自の本質的価値を傷つけるやうなものは、私より見ればすべて邪道でなければならぬ。

 既に述べたやうに、日本画は有形の物象を借り来たって、無形の霊性を創造し、物象と其の裏に潜む無形の霊性との渾然一体の相を表現し、又象徴する。

 このやうな日本画の本質に合致するためには、諸君はどのやうな創作態度を執らねばならぬか、即ち、諸君が日本画の技術を体得するに当たって、根本的に必要な事柄は何であるか、この事柄について私は少しく平常の考へを述べて置きたい。

 日本画は、私が縷々説明した通り、洋画の如く外面的な実感本位に立脚して視覚対象の効果にのみ重きを置くものでなく、対象の、形以上の生命を感得し、把握して。これを表現するのであるから、客観的事物を単に写実的に説明するのではない。この対象における具象以上の内面的な生命なり、力なりを感得し、把握して表現するには、其技術の駆使が何者によって命ぜられるか?

 この事が極めて重要な事柄である。私が平素最も不満とするところは、近時の日本画に於ける筆が、単なる眼の命に従って動き、少しも心の命ずるところによって動いていない事である。

 これを要約すれば、近時の日本画は、絵を心で描くことなく、単に手を以って描いているに過ぎない。

 単に眼の命ずるところによって駆使さるる、技法では、それは、事物の客観的な形象を、ただ表面的に説明するに止まって、物象の真実なる生命を表現する事は出来ない。

 心の命ずるところに手が従ってこそ、始めて事物の形象と霊性との、渾然たる相を表現することが出来るのである

 宗達の芸術について一例を示すならば、宗達の描いた牡丹には、花弁が実際には二十あるべきものを十しか描いていない。しかも葉の如きも、その描法は墨を以って極めて粗雑に描き、この上に金泥を落としたやうな描き方であるにも拘わらず、実に牡丹の神を摑んで、その真実なる姿は、恰も虫眼鏡を以って見たよりも忠実に写生してある。

 然るに現代人の描く多くの牡丹は、其の悉くが、顕微鏡を以って観察した程に細密に描写してあり乍ら、牡丹の精神生命は少しも把握されて居らない。随って、宗達の芸術には何百年を経た今日に於いても吾々の魂を惹きつける力を持っているのである。

 この例の如きは、古人は心を以って描き、現代の作家が手を以って描いているその二つの相違を示す好個の例であろうと思ふ。


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 元旦早々、大観先生の言葉は、ホントに重い。耳の痛いことばであります。

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四、日本画の性格と最高の境地


 次に私は、日本画の性格、即ちその最高の価値が、如何なる処にあるかについて説こうと思う。日本洋画界の現状については私は不幸にしてその消息に暗い者の一人であるが、泰西の洋画、即ち欧州唯一の絵画たる洋画は、すでに行き詰まりの状勢にあるといふ事をシバシバ聞いておる。私は先年伊太利羅馬に於ける日本美術展に使いした際、フランスの巴里にも赴き、欧州近代の作品の数々を鑑賞する機会を得たが、この時私は成る程近代の洋画は行き詰まりの中にあるのではないかといふ事を感じた。この事に関しては、若干議論の余地は勿論あることとは思ふが、概して実感本意に立脚して、視覚対象の効果を表現する事に重きを置く洋画としては、行き詰まるのが当然の帰結ではなかろうかとも感じた。


 然るに日本画は、東洋精神の伝統に根ざして、時代の推移と共にその研鑽を進め、其画因が、洋画の如く感覚対象の効果に出発せず、高き主観的理想より出発するものであるが故に、その描現描写の根本に於いて洋画の方法と相反し、客観的な事物を、写実的に説明するのと違って日本画の道は、実に窮まることなき永遠の大道である。この点こそ、洋画の世界と、日本画の世界とが根本的に相違する処であって、日本画の特異なる性格と其高き芸術的価値とをこの事柄の中に於いて知ることが出来る。  


 然らば日本画は其技術、技法の上において如何なる特異性を有するか、それは、有形の物象を借り来って、無形の霊性を創造するところに、日本画の技術技法の独絶なるものが存する。それは、即ち物象と、其の物象の裏に潜む無形の霊性との、渾然一如なる相を表現し、又表徴するものである。それ故に、日本画の絶対境とは、説明を以ってしては、如何にしても不可能な、「曰く謂ひ難し」といふ如く、観る者をして、唯だ恍惚たる三昧境に在らしめる境地を創造し、表現すべきものであるから、随って、それは人間の霊性と共に永遠不滅のものである。


 これを一、二の例について説明するならば、ここに花鳥画を鑑賞するの例を挙げよう。絢爛の美を表現した花鳥画も、絢爛といふ視覚以上の、より奥底の精神的要素を存するのが日本画の特異な点である。即ち絢爛な画面の中にも、そこには自ずから気品の高雅とか、情趣の雄渾とか、又は生気の鮮新豊潤等が有形の物象の表現裡に自ずから具わって、この霊性の表現象徴に対して、観者の思想感情が費やされるのである。

 又線条の表現の場合に就いて見るならば、東洋画の線は、有形的に線であって、而かも無形の深い生命を蔵しているもので、その作者の個性と、時代的な思潮とに随って、如何様の妙味をも現わし得るものである。


 又日本画の技法の中には、絹紙の余白を生地のまま残し、その白さを画一面構成の重要なる要素とする方法がある。この白さを、例えば山水画の場合に於いては、天と見せ、或いは水の表現となし、又距離を示現して、遂には乾坤の深遠なるを物語る。これが花鳥画の場合にあっては、余白の中に季節の情調を漂わせ、この余白が有形的に描かれた部分以上に重大な意味を持つに到るのである。


 かかる日本画の技法、余白を生地のままの白さに残して、却って一層深き真髄の描写を託すると言うことは、これこそ東洋精神本来の幽玄虚淡なる悟りより来たれるもので、老荘の学や禅宗やの無為自然の道と相契ふものである。


 次に日本画の中には墨絵といふものがある。墨は、色彩的に観れば黒といふ単なる一色に過ぎない。然しこれが日本画の技法によって、一度び表現の素材となれば、この墨の色には、忽ち作者の高下、強弱、深浅清濁等の相違が端的に表現される。ここに日本画の技法が、其墨色に於いても、視覚以上の精神的なものを象徴する事を知るであろう。墨に五彩ありといひ、僅かに墨一色でありながら、濃淡、渇潤の千変万化は、実に色彩以上の複雑さを現はし、色彩を超越したる実在感を端的に、且つ微妙に表現するものである。


 これを要約すれば、日本画はその深きものほど、熟読玩味して、肉眼で見る以上に心で詠む事を必要とするところに、その本質的な価値を有するものであって、この本質に対して、読者は充分に諒得しなければならない。

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 日本画総論の核心部分に入ってきました。


“いはく、いいがたい”、境地、、“説明できない絶対境”、を求めるのが日本画であると、断言しておられるのです。この言葉に反して、現況の日本画壇を見渡してみれば、寂しい事この上なく、既に、日本画は亡んだと言えるくらいの悲惨な状況にある事は、確かでしょう。
 
 大東亜戦争後、日本画始め、伝統的日本文化の大衆化が一気に進み、それは、即、経済と結びついていて、“いくら儲かりまっか?”“これなんぼ?”が、価値の全てを支配する様になって行きました。


 さらに、儲からなければ、例え伝統文化であろうと、何の価値も無いとされてしまうようになったのが、大衆化されたその結果でした。作家達も消費者のご機嫌を伺わなければやって行けないようになってしまったのです。


 高き普遍性に憧れ、探求している時間より、世情の動向を横目でチラチラ確かめながら暮らす時間のほうが遥かに長い。


 こんな、現状を憂いている人さえごく少数。です。


 そしてさらに、国そのものの存立が危うくなっているのに、その原因を大部分の日本人が気づいていないと言う、全く呆れるような今日の危機的状況を、どう切り抜けるか。大観は、この文章でその事を示唆してくれているのだと、思います。


院展同人 高橋天山ブログ

来春1月5日より、松山でささやかな個展を開催します。いよてつ高島屋にて、、、。先日松山に出かけました。おりから坂の上の雲、新シリーズ放映で、先の坂本竜馬人気とも重なって、華やいだ雰囲気の松山市街でした。

 司馬史観については大いに批判的な気持ちを持っていますが、白人禍よりアジアを救った日露戦争そのものの意義をそれなりに小説化した坂の上の雲には、興味を覚えるので、松山に行くたびに秋山兄弟や正岡子規や、松山が当時の日本に果たした役割を改めて思い浮かべるのです。

 この小説のサビ部分は、日本海海戦でのバルチック艦隊殲滅であろうと思われますが、松山出身の秋山真之が、大日本帝国海軍参謀として連合艦隊旗艦三笠以下を率いて司令長官、東郷平八郎を示唆し、一人で勝利に導いたような描き方をしているんですが、此の段に限らず、全編に渡り、故意に忘れ去られているのが、明治天皇の御遺徳であります。

 バルチック艦隊を全滅させたのは、勿論当時の日本国民の必死なる総合力なんでありますが、その力の根源は明治天皇の御存在そのものである事の認識を、あえて消す事によって、よく言えば民主主義を標榜する格好を取り繕って、反日思想を敷衍しているのが司馬史観であります。

 この秋山真之(さねゆき、後に中将)と横山大観は、同い年(明治元年生まれ)。正岡子規は真之と同学年。

 兄の秋山好古は、9歳年上。

 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合(れんごう)艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪(なみ)高シ」

 海軍きっての文章家と言われた真之の此の有名な報告文を見ると、用を得た簡潔さと余韻の深さとの相矛盾する二者を融合してしまっているから不思議。大観の名作にも矛盾する二者をねじ伏せている例が沢山ありますね。

 日本海海戦では遠来のバルチック艦隊を迎かえ、「皇国の興廃此の一戦に在り 各員一層奮励(ふんれい)努力せよ」のZ旗を旗艦三笠に掲げた、。 此の文章も、当たり前のようですが、言いえて妙。なかなかこのような省略と誇張は出来そうでできない表現でしょう。

「弟真之には、兄として誇るべきものは何もありません。が、しかし、ただひとつ、わたくしから皆様に申し上げておきたいのは、真之はたとえ秒分の片時でも、『お国のため』という観念を捨てなかった、四六時中この観念を頭からはなさなかったということです。このことだけははっきりと、兄としていい得ることです」

 兄の好古が、弟の亡き後に語った真之評です。

 日露戦争後真之は、孫文との関係などを取りざたされ、要職を解任されたりして、不遇の時代を過ごしたようで、49歳で病没するまで、失意であったのかもしれません。
 が、大観同様、片時も報国を忘れることはなかったのでした。

 報国の為の一生であったからこそ、あのような並外れたことを、やってのけたのでしょう。

 葬儀は、愛宕山青松寺。

 東京タワーの足下にあるこの古刹は、大田道灌の頃からあった禅寺です。
その観音聖堂の天井画を、私が、描かせていただいたのは、21世紀に入ってすぐのことでした。


日露戦争の只中にあって、大きな責任を背負って全うした、秋山真之。会戦の当日、新天地アメリカへ勇躍、日本画の新しい局面を世界に問うた、横山大観。明治元年生まれのこの二人は、行為において全く別の行動をとったのですが、内在する意志は同じ。命がけの報国でありまた


 大観とお酒について、


 大観は大酒家でした。岡倉天心先生の薫陶を得ていた若き日に天心先生より、酒が呑めずに良い絵が描ける訳がないと叱咤され、あまり呑めない酒を練習したとされています。


 日本酒だけを飲んでいたので、このあたりにも大観の国粋思想が覗われるのですが、広島のブランド酔心をことのほか愛飲しています。


 広島の酒蔵、『醉心』の東京販売店にいつも酒を買いに来る上な女性がいて、どなたかと店の人が尋ねたところ横山大観の夫人だというので、興味を持った社長、山根薫が大観宅に伺い酒造りの話をしたところ、名人は名人を知るというか、たちまち意気投合。


『酒づくりも、絵をかくのも芸術だ』と大観は大いに共鳴したそうです。


 大観その人に感動した薫は、その時、一生の飲み分を大観に約束したのでした。

 この約束は、昭和三十三年(一九五八年)に大観が永眠するまで続くのですが、予想以上に早く送った酒がなくなるので、こもかぶりの四斗樽を送る様にしていたそうです。


 醉心は大観の日々の生活に余りにも密着して居て、戦争が激しくなってからの醉心の運送には大観も大変気を使い五島慶太運輸大臣に特別に依頼した事もあったと言うことです。


 亡くなる二年前、薬や水さえ受け付けなくなくなって重体となったときでも、醉心だけはのどを通り、それをきっかけに翌日からは果物の汁や吸物などが飲めるようになって、一週間後にはお粥を食べれるまでに回復したとの記録さえ残っています。はまったんでしょうね!


 一生の飲み分を約束して以来、大観は醉心酒造に毎年一枚ずつ作品を寄贈したので、それが集まって「大観記念館」ができあがりました。
 
 この記念館は3年に一度文化の日に一般公開されています。
 
 酒と大観の逸話は沢山ありますが、最晩年の新春テレビ対談に当時、一世を風靡していた小説家、吉川英治と出演した時の話を書きましょう。


 どこかの料亭で収録されたのですが、勿論今と違って生番組。きれいな和室のテーブルに急須と茶碗とが置かれており、それを注ぎあって、飲みながらの対談が進められたのですが、実はその中身が日本酒。


 談たけなわになると共に、吉川英治先生のお顔が見る間に赤くほてってきます。白黒テレビでもわかるくらい。対座して年下の吉川先生を見下ろす大観が程よく日本酒が回って、ようやく重い口が開き始める頃、収録終了。吉川先生は立てなかったそうです。


 空手の真髄にも酔拳(すいけん)というのがありますね。名人が酔っ払うとさらに無駄な力が抜けるとでも言うのでしょうか、格段の技量を発揮してしまうとか?まさに大観の空前絶後の名人技もこれだったのでは???

日露戦争のさなか、アメリカにわたった大観、春草コンビは、当時右肩上がりの好景気に沸いていた東海岸で、重ねて展覧会を開催。予想をはるかに超える売り上げで、大評判となったのでした。


 日本にいても朦朧派などど揶揄され、金に窮していたばかりなのに、所変わればなんとやら、、、。日本画家の真摯な最先端の力作発表を素直に受け入れてくれた事に、二人がどんなに喜んだことでしょうか。


 おおいに自信を取り戻した二人は、得た金を美術院の経営と私宅とに送り、残った金で、ヨーロッパへと旅たつのでした。


 ルーブルや大英博物館など、後期印象派が台頭する前のヨーロッパ美術全般の知識を得た二人は、結果として、日本画の遥かなる優越性を実感。帰朝して後に“絵画について”との論文を二人して発表したりしています。これについてはいずれまた。


 “概して実感本意に立脚して、視覚対象の効果を表現する事に重きを置く洋画としては行き詰まるのが当然の帰結ではなかろうかとも感じた。”


 と後に述べているように、写実から抜けきれない、芸術とはいえない段階に低迷している洋画界の実情を確認した二人だったのです。


 明治39年、帰国し、気宇は大いに広がりはしたものの、国内の事情は、二人の思うようにはしてくれず、加えて美術院の経営も傾いて、茨城県五浦へ、都落ちと相成ります。

雌伏の時を過ごす事久しく、その間に、父の死、盟友春草の病と、病没、自宅の全焼、師天心の他界、、、。


 しかし、美術院を再興して後、少しずつではありますが、大観本来の力量が徐々に世に認められてゆくようになるのです。

 畢生の名作、生々流転が生まれたのが、大正12年。以後、確固たる声望が定着して行きます。世に認めらるるにつれて、御皇室、宮中へ献納する作品に、全力を捧げるのでした。


 昭和6年に満州事変、同7年には上海事変、同11年、2・26事件。ついでシナ事変と続きます。支那事変(しなじへん)とは、1937年(昭和12年)から始まった日本(大日本帝国)と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘で、(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)大観70歳の時。


 すでに美術界の重鎮と自他共に認める大家となった巨匠大観は、この頃から渾心の打ち込みようで、彩管報国を断行して行きます。戦争に明け暮れ、戦争に翻弄されてきた生涯でしたが大東亜戦争で焼け出され、疎開を余儀なくされても、その熱い皇尊心はいささかもかわる事はなかったのです。


 顧みますと、人間と言う者は、其の一生のうちには随分と戦争に逢うものです。殊に私は、生れ落ちたその時がすでに戦争のさなかと言うめぐり合わせでした。私の生まれた当時の水戸は維新前後のどさくさの余波を受けて、水戸は水戸なりに混乱の巷だったからです。(大観画談より)。


 既に、大観出生当時の水戸の実情は述べましたが、東京美術学校第一期生として入学後、基礎を徹底的に学ぶ中、模写をさんざんやらされていたのが、大観20代の生活でした。其の殆どは、少ないながらも賃金を得て、学びながらの習練でしたが、その多くは後の戦災で消失。


 そんな日々を過ごす中、明治27年大観27歳の時。かの日清戦争が勃発します。


 この戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与え、近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、その戦争を転機に経済が飛躍した。とされています。


 同世代の若者が、海を越えての戦に出生するのをしり目に、黙々と、古典作品の模写に没頭する大観の心情は如何なるものであったでしょうか。


 この後京都へ先生として移住し、教鞭の傍ら、京都奈良の古典模写に明け暮れるのです。やがて、勧められて、最初の結婚をすることになるのですが、シナが亡んで行くのを聞きながら、欧米列強のむき出しの植民地政策に翻弄されるアジアを肌で感じていた日々であった事でしょう。


 東京美術学校助教授となるも天心先生の辞職事件によって、自らも数年で辞職。美術院の創設に参加。研究会を軸に精力的な作画活動に邁進してゆきます。


 『彩管報国』の実現の為には、己が才を磨くしかないと、腹をくくっていた大観であっただろうと思います。


 明治36年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。のです。


 セルゲイ・ヴィッテ首相は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ、戦争回避論を展開したが、これは皇帝達によって退けられ、ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。


 日本側は、この提案では日本海につきでた朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾く。そして明治37年年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。


 これが日露戦争のはじまりであります。


 明治36年大観36歳の九月、日露戦争止む無しの世情にあって、大観は初の外遊インドへの旅を終え、今度はアメリカに勇躍せんと画策していました。

 インドへの渡航は勿論天心先生の示唆であり、インドのある王国の室内装飾を請け負うというのが主たる目的でありましたが、行ってみるとその仕事はパア。しかしタゴールの援助によって辛くも春草との2人展を開催し、やっとの思いで帰国の船賃を作るといった、つまりは食えない日本から離れての出稼ぎであったわけです。


 いつも行動を共にしてきた盟友、菱田春草は、大観にとって欠かすことの出来ない存在でした。インドでも食えないから、今度はアメリカへ!


 というわけで、方々で金策した片道資金を持って、横浜の定期船の船上の人となったのが、まさにこの明治37年2月7日。


 日露開戦の当日、アメリカ行き、最後の便船に乗った2人は、ちょうど外交交渉で渡米する末松謙澄の一行と同船し、あの伊藤博文が、見送りに来ていて、国家の存亡をかけての悲壮な大演説を甲板で行ったと言うのですから、まさに激動の時代。持ち金も少なければ、家においてゆく金もろくに無いのに、、、大観春草ペアは、出稼ぎで頑張るんです。


 大観にとっての日露戦争は、アメリカへの出稼ぎと言う壮挙でした。  つづく
 

大観の尊皇心のところで出た、藤田東湖の『生気の歌』をご紹介したので、今度は 水戸学の会沢正志斎の新論をご紹介したいと思います。大観先生もお父上から水戸学の薫陶を得ていたと思われますが、そのバイブルとも言うべきものであります。

 

 結局、勤皇の水戸学は、かの水戸黄門様がその元祖であって、徳川家の重要な御三家筆頭と言う地位にありながら、徳川は天皇の臣下の一家に過ぎないとの視点を公然と述べただけでなく、大日本史の編纂を始め、日本の国体をつまびらかにしようという、熱烈なる尊皇思想は、当時の藩内外に強烈な印象を与え続けていたであろうことは想像に難くありません。

 

印籠持って、遊んでいただけじゃありません。



院展同人 高橋天山ブログ

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強烈な自負心をもって、日本こそ世界の祖先である。と、鮮明にしようとしていたのです。大観先生はこの心を受け継いで、絵画をもって、それを表現しようとしたんです。

 日本画の根本がここにある。

 昭和15年、皇紀二千六百年、大観は海山十題として、従来の日本画の領域を凌駕するほどの、戦慄すべき名作群を描き切るのです。これは、全身全霊を宇宙の真理に捧げ尽くすかのように、人類の一員として、宇宙の法則にすべてを委ねる心。オソレを心中に深く抱きながら、自己の持てる気迫のすべてを投げ出し、愛国心に満ち溢れた逸品として、当時の世情を大いに震わしたのでした。

 

現在は、朝日新聞と言えば左翼の代名詞みたいに成り下っていますが、昭和15年頃は、まだまだ、日本を代表する新聞の一つであったのです。その、書評に、当時、最も辛らつな批評家として知られた児島喜久雄氏が、朝日のコラムで、大観の海山十題展を激賞したのでした。

 

大観の偉業」

 三越と高島屋の近業を観て私は驚いた。現在の日本画家中
(一)之だけ大きな自然を有っている画家がほかにあろうか。
(二)これほど新鮮な官能を有って居る画家が他にあろうか。
(三)これほど作因の変化を示し得る画家が他にあろうか。
(四)これだけ光を描き得る画家が他にあろうか。
(五)これほど雰囲気を表し得る画家が他にあろうか。


 大観は本当の意味で。一番新しい日本画家である。何の作も何の作も皆全く新しい表現である。日本画家の研究家はあの作品を問題にして大いに論ずべきであると思った。洗練された日本画家の技巧を活用して常に新しい仕事をして行く大観のような大先輩を有する日本画家は幸福である。

 

あの展覧会を観た日は私にとって実に感激の一日だった。丁度一緒になった梅原君とも色々印象を語り合った。安井君とも電話で話し合ったりした。

 

然し大観の年齢を思い、奉公の純情を思うと、自分が大いに恥ずかしくなる。


 注:梅原君とは、勿論梅原龍三郎画伯のことであり、安井君は、言うまでもなく、安井曽太郎画伯のことです。

 


<海に因む十題>           <山に因む四題>
1 黒潮 (くろしお)         1 黎明 (れいめい)
2 曙色 (しょしょく)        2 雨霽る (あめはる)
3 松韻濤聲 (しょういんとうせい) 3 乾坤輝く (けんこんかがやく)
4 浦澳 (ほおう)         4 朝暉 (ちょうき)
5 濱海 (ひんかい)        5 龍躍る (りゅうおどる)
6 波騒ぐ (なみさわぐ)      6 砂丘に聳ゆ(さきゅうにそびゆ)
7 海潮四題・春           7 霊峰四趣・春
(かいちょうよんだい・はる)     (れいほうよんしゅ・はる)
8 海潮四題・夏           8 霊峰四趣・夏
(かいちょうよんだい・なつ      (れいほうよんしゅ・なつ)
9 海潮四題・秋           9 霊峰四趣・秋
(かいちょうよんだい・あき)      (れいほうよんしゅ・あき)
10 海潮四題・冬          10 霊峰四趣・冬
(かいちょうよんだい・ふゆ)      (れいほうよんしゅ・ふゆ)


 昭和に入ってからの大観は皇室に、度々絵を献上しており、秩父宮家創設の時に制作された「秩父霊峰春暁」などは特に記念碑的なものです。1943年には日本美術報国会の会長になっていますが、このため戦後は戦犯として取り調べを受けたりもしました。

 

苦楽を共にした無二の親友・菱田春草の早世を惜しんで「あれこそ天才、磨くほど光る金の瓦だった。おれなんかは普通の瓦だよ」と語っていたそうです。

 昭和11年発刊の大観先生による、日本画総論を続けます。


  三、日本画と民族性


 既に述べた如く、東洋画と人格とは、極めて緊密なる関係を有し、随って、この相関関係を考慮することなくしては、東洋画を語ることは出来ない。それ故に、東洋画の画道に於いては、東洋民族の精神に還って、国民的情操の陶冶、即ち、国民の性を善ならしめ。意を正ならしめるために、第一に人格の涵養を主眼とするところに画道の根本義がなければならない。

 この要求のもとに、画技の習練をするに当たって、先ず人間としての風骨を養う事に心しなければならぬ。


 芸術と民族性との緊切なる関係は、例えば香気の花に於けるがやうで、梅花にして梅香を発し、蘭花にして蘭香を発すると些かも異ならない。

 又個性と作品とに於いても、その因縁は頗る自明であって、例えば、石の音の石よりし、玉の音の玉よりするに等しい。それ故に、先ず人を作らずして、慢りに画を作らせても、決して優れたる芸術を生む所以のものではない。この原理を悟ることなく、即ち志気を感発するところなくして徒に技巧の模倣に終始するならば、その人は、遂にただ一介の俗工となるのみであるといふ事に思い至るべきである。


 芸術の表現と、人格との相関緊切なること、日本画にあって斯くの如きを知る者は、即ち、竜虎の図は、天稟の英雄児でなければ描き難く、古賢の像は哲人の懐なくしては写し難く、花卉の美は、雅士に非ずしては現わし難く、好友を喜ぶものに非らずしては令羽毛(リョウモウ)の嬉嬉たる状は成し難く、古学を慕ふものに非ずしては、煙浦(エンラ)の遠きは現わし難い、といふ理念を弁へるであろう。

平成20年、国立新美術館に於いて、没後50年横山大観展が、盛大に開催されました。新美術館の杮落としと言う意味合いと、今上陛下ご在位20年記念と言う奉祝の心と。

 あちらの人となって久しい大観先生も、さぞ、お慶びであったろうと思います。

 手元の図録を取り出してみると、「評伝、横山大観」として、現東京芸大教授、当時、国立近代美術館学芸員だった、古田亮先生が、精緻な一文を寄せていて、非常に分かりやすく、かつ、格調を失わず、大観その人の本質に、肉薄しているので、ここに抜粋してみましょう。

 ☆      ☆      ☆

 
 評伝・横山大観                       古田亮

 プロローグ
 画家への決意
 「大観」の誕生
 試練の時代
 躍動の季節
 大観芸術の大成期  
 彩管報国と富士
 終焉                   (この7章で綴られています)
 
 *****

 彩管報国と富士(全文) 

 上に見たようにやまと心や老荘思想を背景として「自然」や「自由」をもとめる創作態度が昭和初年を境に大きく変容を遂げる。これまでの大観研究においてはあまり強調されてこなかったことだが、この変容の契機となったのはご下命による《朝陽霊峰》(1927年、宮内庁三の丸尚蔵館)の制作であった。大観はこの作品の為に「水戸様」から貰った朱舜水の遺物と言う非常に高価な墨を使い、完成までに2年の歳月を費やしている。
 
 美術評論家の脇本楽之軒はこの作品を評して「畏れ多い事で、僕はあの左半双を真っ白に埋めた富士山の上に堂堂たる日が昇る。あの日は象徴として描かれたので、日本人にして始めて此の絵があると、頭が下がるやうな崇高感に打たれたのですが、その日、その富士に向かって右半双の山の松が、恰も朝礼に赴くものの如く、勢揃いして儀容を整へて居るのが、また何とも言えず嬉しく思はれました。」と述べているが、まさに、ここに富士、朝陽、松林、というモチーフによる国威・国体の視覚イメージが形成されたといってよい。
 
 そして、1940年(昭和15年)。紀元二千六百年の祝賀に沸いていたこの年、大観は畢生の連作《海に因む十題・山に因む十題》(合計20点)を制作した。作品発表の挨拶として大観は「天皇の豊かで手厚い恩恵のおかげで日本の海や山は只ならぬ素晴らしさだ。私は明治・大正・昭和の三世の恩沢を賜りながら絵事に専心してここに五十年となる。今、興亜聖戦下の皇紀二千六百年の盛典に会し、彩管報国の念を抑え難きものがあり、よって山海各十題を描いて世に捧げる」と述べている。
 

彩管報国、すなわち絵を描く事で国に報いるという考えからこの連作が描かれたことがはっきりと示されたわけだが、実際、この作品の総売り上げの五十万円によって、「大観号」なる軍用機4機が寄贈されたことはよく知られている。

日本美術院が再興された際に自ら院の理念に芸術の自由を掲げた事を大観は忘れてしまったのか。あるいは時代に屈したのか、といえばそうではあるまい。というのは、水戸藩士の皇国思想を生まれながらにして身にまとう大観にとってみれば、そもそも自由は報国の中にしかなかったのである。昭和戦前期、画家であると同時に一人の皇国のたみとして役割を全うする事を本意とした大観は、報国画家を演じることに何ら疑問を感じなかったであろう。

 

大観の富士の絵に冠せられた「正気放光」「神洲」といった言葉から想起されるのは、幕末の水戸学である、「神洲は太陽の出る所、、、、」を冒頭句とする会沢正志斎(1782~1863)の『新論』、藤田東湖(1806~55)による「正気の歌」とこの時期の大観作品との関連は深い。大観は明らかに同郷の水戸学から愛国の思想を受け継いでいる。

 ここに来て大観にとって富士はもはや造形的に美しい山である以上の存在。すなわち日本の象徴としての特別の存在だったはずである。そうだとしても、大観の富士が国家権力あるいは軍部主導の統治体制といった上からの権力を象徴したものとは思われない。むしろ大衆の精神性に深く浸透していた天皇制という眼に見えない権力を眼に見えるかたちにしたというべきではないだろうか。人々は、それを権力とは気づかないままに受け入れ、共感し、感動を誘われる。


橋川文三は「天皇はたんに政治上の元首であったばかりではなく、万民のうえに君臨する美的、倫理的権威として、日常生活の些細な徳目や審美観にまで浸透、内在しうる原理であった」と書いたが、まさに大観の富士はその美的・倫理的権威の視覚化であったといえよう。そして、橋川の指摘した原理は本質的に今日の日本でもかわってはいない。大観の富士が国民的な支持をうけつづけているのはその証左である。

 

古い本に富士を『心神』とよんでいる。心神とは魂のことだが、わたしの富士観といったものも、つまりはこの言葉にいいつくされている。(私の富士観 大観より)


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 大観号を軍に寄付したときの大観の喜びようはそれは大きかったのです。